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山形六日町教会

2021年4月25日

聖書:詩編62編2~7節 ヘブライ人への手紙10章19~26節
「揺るがぬ希望をもって」波多野保夫牧師

本日、礼拝後に持たれます教会総会において2021年度教会主題と主題聖句をお諮りします。先週配布されました議案書をすでにお読みかと思いますが、主題案は「揺るがぬ希望をもって」 主題聖句はヘブライ人への手紙10章23節 『約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。』 この様に提案します。
総会に先立ち、このみ言葉を聞いて参りたいと思いますが、まずは2020年度の振り返りから始めます。主題は「良い知らせを伝えよう」。主題聖句は『遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。』しかし、なんといってもコロナ禍に翻弄されて過ごした1年間でした。私たち一人ひとりにとっても、また六日町教会にとっても経験したことのない礼拝であり、活動であり、新しい生活様式が求められました。
そんな中にあっても、一人の受洗者と一人の転入者が与えられたのは、福音をこの山形の地に伝えたいとの私たちの祈りが聞かれたのだと思います。聖霊の豊かな働きを感謝します。
『遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。』状況の厳しさは2021年度へと続いています。2021年度も「良い知らせを伝える」山形六日町教会であり、集う一人ひとりでありたいと思います。

さて本日与えられましたみ言葉ですが、詩編62篇から読んでいきましょう。ダビデ王の詩です。4節5節。お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり 人を倒れる壁、崩れる石垣とし人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして 口先で祝福し、腹の底で呪う。ダビデ王はどんな状況に追い込まれて読まれた詩なのでしょうか? 彼が晩年にさしかかったころ、子供たちの間に争いがおこり、その結果3男、アブサロムが謀反を起こしました。多くの者がダビデ王を離れてアブサロムに味方したのです。「アブサロムは、イスラエルの人々の心を盗み取った。」サムエル記下15章はこの様に語ります。この謀反は当初順調に推移してダビデ王はエルサレムに留まることが出来ず荒野へと逃げ出しました。命の危険が迫る厳しい状況です。
2節3節。わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。 彼はわめくことはもとより、口に出して祈ることさえしません。祈る言葉すら見つからないのでしょう。ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。
彼の強い信仰です。ダビデは命の危険を感じた時、頼れる方を思い出したのです。なぜ彼はこの様な強い信仰を得たのでしょうか。少年時代に石投げ紐でペリシテの巨人を倒したことでサウル王に寵愛されたのですが、戦に勝利すればするほど人々は「サウルは千を討ちダビデは満を討った」この様に囃し立てました。やがて猜疑心の強いサウル王に命を狙われ荒野を逃げまどったのです。その全ての時に於いてダビデは主なる神に忠実であり、神はダビデを守られ恵みを与えられました。紀元前1000年にイスラエル12部族を統一して王となり、ダビデの町と呼ばれたエルサレムを首都と定め、王国に平安と繁栄をもたらしました。
サムエル記下5章はダビデは次第に勢力を増し、万軍の神、主は彼と共におられた。(5:10)この様に告げます。神様の大きな恵みによって、羊飼いの少年は王様に、しかもイスラエルの歴史上最高の王と呼ばれる様になったのです。彼の信仰の種はイスラエルの家庭で蒔かれました。信仰の祖アブラハム以来、それぞれの家庭に於いて唯一の神への信仰は受け継がれていました。
今、ここに集う私たちの信仰の種は様々な時と場所で蒔かれたことでしょう。先輩や教会の祈りがあったことでしょう。今、信仰の種を受け取ろうとしている方もいらっしゃるでしょう。私たちに蒔かれた信仰の種は様々な恵みをいただくことで成長します。正確には神様はいつも私たちを愛してくださっていますから、その愛に気づくたびに信仰が成長するのです。使徒パウロは言います。「私は種を蒔いたり植えたりした。
伝道者のアポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(Ⅰコリント3:6) どうぞ神様が与えてくださった大きな恵み、大いなる愛を思い起こしてください。あるいは、まさに今がその時なのでしょう。苦しみの時にはそれと気づかなかったけれど、後になって神様の大いなる愛のご計画が見えてきた。こんな経験がおありではないでしょうか。信仰を成長させてくださるのは神様なのです。
しかし、羊飼いの少年から全イスラエルの偉大な王になったダビデは大きな過ちを犯しました。
神様から与えられた、もっと正確にはお預かりした、権勢や富を自分の優秀さの故だと大いなる勘違いをしたのでしょう。傲慢さが彼を支配したのです。ヘト人ウリヤの妻バトシェバと床を共にした上、ウリヤを戦死させてしまいました。大きな過ち、神様に逆らう罪を犯したのです。悪魔の誘惑に負けてしまったダビデです。そんな彼は、犯した罪の重さを預言者ナタンに指摘された時に告白しました。「わたしは主に罪を犯しました。」(サムエル下12:13)自分のおごり高ぶりによって、神様の愛を忘れ悪魔の誘惑に負けて欲望のままに走ったダビデです。その罪の重さに気づいた彼は心の底から悔い改めました。悔い改めた彼に神様は罰を与えられたのですが、再び王として全イスラエルを治めさせてくださったのです。
この出来事は、放蕩息子の物語を思い起こさせます。父から財産の半分をもらって放蕩の限りを尽くし、すべて使い果たしてしまった息子です。誤りを気づかせてくれたのは飢饉によって味わった苦しみでした。
先週の礼拝で、ヘブライ人への手紙12章5節6節をお読みしました。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、 力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、 子として受け入れる者を皆、 鞭打たれるからである。」 苦しみの中で神様に立ち返ることに思い至るのであれば、それは神様の愛のご計画に他なりません。その愛を知る時に私たちの信仰は成長するのです。放蕩息子が出会った苦しみの意味を、ヘブライ人への手紙はハッキリと示しているのです。
犯した罪の原因は、自分の利益だけを追い求める自己中心的な態度であり、いただいた、権勢や富を自分の優秀さの故だと大いなる勘違いをした傲慢さにあります。ここに罪の本質があるのです。反対に「神様と自分と隣人」を愛する人生は私たちの心をしなやかにしてくれます。恵みに対して敏感にしてくれます。
さて、詩編62篇に戻ります。ダビデ王は息子アブサロムの謀反によって命の危険にさられた時の思いを詩に託しました。2節3節。わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。 神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。6節7節で繰り返されますが少し違います。2節では「神にわたしの救いはある。」と述べますが6節では「神にのみ、わたしは希望をおいている。」とあります。私たちの救いは神様以外にはありません。苦しみの中にあってなおも希望を託せるのも神様以外にはないのです。ダビデは主イエス・キリストを知りませんでした。主イエスが真の人として来てくださったのは1000年後のことです。
現在、私たちは主イエス・キリストの十字架と復活の出来事、2000年前に起きた出来事を聖書の証言を通して知っています。旧約聖書の時代には聖霊が特定の時に特定の人に降り、神様の愛を伝えていました。今、私たち、すでに信仰を告白し洗礼を授けて頂いた者も、信仰へと招かれている者も、聖霊の働きによって主イエス・キリストの愛を知り・理解し・感じるのです。
聖霊の働きによって、主イエス・キリストが私たちの罪を負って十字架にかかってくださった大いなる愛を理解します。ですから、苦しみの中にあっても、喜びの中にあっても、日々の歩みの中にあっても、様々な人生の節目にあっても、主イエス・キリストの愛を知り信仰の成長が促されるのです。
新約聖書ヘブライ人への手紙です。キリスト教が広がりを見せるとともに散発的な迫害も起きて来た90年代に、おそらくはユダヤ教からキリスト教に改宗した人たちに向かって書かれた手紙、あるいは説教だと言われています。10章19節以下です。それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。この説教者は、キリストが私たちの罪の代償としてご自身をいけにえとして献げてくださったのだと述べます。
主イエスの十字架以前においては、大祭司が、過越しの祭りの日にいけにえの動物の血を携えて神殿の至聖所に入り、イスラエルの民が犯した罪を赦していただく祭儀を行っていましたが、もはやこの祭儀は不要です。
マタイ福音書27章51節は十字架で息を引き取られた時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた と記しています。神様が宿られる聖なる聖なる場所、至聖所と外の世界を隔てていた垂れ幕が裂けたのです。祭儀によってイスラエルの民の罪が赦されましたが、遥かに勝る主イエスの血が献げられたことによって、イスラエルだけでなく、全世界の主イエスに従う者の罪は、赦されているのです。「赦されているのならば好き勝手なことをしたってかまわない。」こんな浅はかな考えが頭をかすめますが、考えてみてください。自分中心の生き方をしている者にとって、「罪の赦し」など意味を持たないでしょう。「罪」の自覚がないところで「赦し」の恵みを感じることはないからです。放蕩息子は父親のことを思い出し、自分の犯した罪に気づいて立ち返った時に、父親は喜んで出迎えてくれました。父親の愛はズーット変わっていません。変わったのは放蕩息子の方です。ヤット神様の愛に気づいたのです。主イエスがご自身を聖なる献げものとなさった時から人の罪は基本的に赦されています。そして、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたままです。主イエス・キリストを通して私たちは神様のお考え、私たちを愛してやまないお考えを知ることが出来るのです。
21節.ヘブライの説教者は続けます。わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられる テモテへの手紙Ⅰ3章15節には。 神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。とあります。 教会を支配なさるのはご自身をささげてくださった偉大な大祭司、主イエス・キリストです。ですから、主イエスへの信仰以外が教会を支配するのであれば、それはもはや生ける神の教会ではありません。非常にたちの悪い集団に過ぎません。
主の教会に集う私たちです。22節。心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 ヘブライの説教者は言います。神に近づこうではありませんか。 後ほどこの言葉に戻ります。続く10章23節を2021年度山形六日町教会の年間主題聖句として提案しています。
現在、私たち山形六日町教会、いや日本の教会、さらに世界の教会は新型コロナウィルスの影響下にあります。全人類にとっての不安であり苦しみとなっています。一昨年まで当然だったこと、ほとんど気にも留めなかったこと、日曜日の朝、教会に集っての礼拝であり、食事を共にして語らう愛餐の時であり、共に祈る時がどれほどの恵みであるかを知りました。確かにコロナは私の思い上がりに気づきを与えてくれました。私たちが直面する重荷や苦しみが気づきを与えてくれることもあります。物事が願った通りに行くことで、主の大きな恵みに気づくことが望ましいのですが、順調な時の感謝の祈りよりも、辛い時に願う祈りの方が多いようです。
23節。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。 パウロが述べた有名な言葉があります。信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(Ⅰコリント13:13) 三つの内で一番大きなものは「愛」だと述べますが、大きさの比較はあまり意味がないでしょう。愛は神から出たものであり、私たちはその愛に愛を持ってお答えする。「神と自分と隣人を愛す」のです。「信仰」とは神様が愛してくださることへの信頼です。愛の神様への信頼です。次に「希望」ですが、パウロはさらに勧めています。 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。(ロマ書12:12) 詩編62篇では、危機的な状況にあってダビデ王は 「神にのみ、わたしは希望を置いている。」この様に神様への信頼、すなわち信仰を言い表しました。
先ほどヘブライの説教者が22節で語ります「真心から神に近づこうではありませんか。」この言葉を残して来ました。どの様にして私たちは神様に近づくのでしょうか。24節25節。 互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。
人に近づく方法です。その人が求めること、好むことを行って近づくのが一般的です。最近では悪用が目立ち、残念ながら利権問題が言われ忖度や賄賂などが報道されたりします。神様に近づく方法です。好まれること、求められること。それは「神と自分と隣人を愛する」ことです。こんな忖度をしたいと思います。私たちは必ず幸せな人生を送ることが出来るからです。
26節。 もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。「神と自分と隣人を愛さない」とするならば、それは愚かなことです。格差社会だと言われますが、私たち全員にとって平等な共通の真実があります。3つ挙げましょう。「神様から愛されていること。」、「一年に一歳づつ年をとること。」、そして「やがて主の御許に召され永遠の命が与えられること」です。「神様から愛されていること。」 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16) 全員に平等な真理です。聖書全体が証言しています。「一年に一歳づつ年をとること。」年を重ねること自体は大きな恵みです。しかし、教会の活動を考える時、平均年齢の上昇は今まで当たり前に行えたことが難しくなっている現実に向き合う必要があります。「やがて主の御許に召され永遠の命が与えられること。」 私たちの行く末は保証されています。苦しみの中で歌われた黒人霊歌にこの希望を歌う歌が残されています。もちろんこの約束があるからと言って自己中心的な生活を送るのではありません。そうではなく「神と自分と人を愛して生きる」のです。ダビデ王が抱き、パウロが抱き、ヘブライの説教者が抱いた希望。そして主イエス・キリストが証ししてくださり福音書記者ヨハネが伝える希望。コロナ禍にあっても、それぞれの者が負う重荷苦しみ悲しみの中にあっても、なお「揺るがぬ希望をもって」歩む山形六日町教会であり、私たち一人ひとりでありたいと思います。

ヘブライ人への手紙10章23節。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。祈ります。