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山形六日町教会

2021年4月18日

聖書:雅歌2章1~5節 ヨハネによる福音書21章14~19節
「私を愛しているか」波多野保夫牧師

先週、4月11日の礼拝では主イエスと共に十字架に架けられた犯罪者の一人が悔い改めて「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。のに対して、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。ルカ(23:42,43) この主のみ言葉をご一緒に読みました。「今日わたしと一緒に楽園にいる」楽園とはあのエデンの園がそうであったように、神様が身近にいてくださることを感じられる場所です。現代において、その代表的な場所は教会、しかも信仰の友とみ言葉に聴き、賛美し祈り献げる礼拝の時がそうです。 マタイ福音書18章20節。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。もし、礼拝に出席できないのであればその時を覚えて祈ってください。この様にいつもお願いしています。
説教の中で「この犯罪者が悔い改めた記事はなぜルカ福音書だけにしか収められていないのですか?」 この疑問に、「福音書は、十字架の出来事から少なくとも40年以上後に編纂されました。主イエスの同じ御言葉、同じ出来事であっても、その響きはそれぞれの教会が置かれた状況によって異なっていたのです。」とお答えしました。4つの福音書はお互いに補い合い、共鳴し合って大いなる真実を伝えているのです。
ちなみに、本日与えられましたヨハネ福音書21章15節以下はヨハネ福音書だけが伝えています。 復活された主イエスは、まず墓の前でマグダラのマリアに現れ、その後弟子たちの所に来られました。ティベリアス湖、またの名をガリラヤ湖の湖畔での出来事です。一緒に食事をされた後、シモン・ペトロに話かけられました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」。ペトロに、他の弟子たちと比べてあなたはもっと私を愛しているか? この様に問われました。比較の問題はともかく、皆さんがイエス様にお会いしてこの様に質問されたらなんと答えるのでしょうか? 「波多野保夫、お前は私を愛しているか?」 もちろん「愛していません」と答えることはありません。私は子供のころから教会学校に通っていました。母教会の礼拝堂の裏の部屋で分級をひたのですが、イエス様が肩に一匹の子羊を抱えた大きな絵がかかっていました。当時「愛している」と言うチョット気恥ずかしい言葉で意識はしていませんでしたが、イエス様が好きだったことは確かです。社会に出ると高度成長期のただ中を歩みました。日曜日は礼拝に出席し、そのあと様々な教会の用事で時を過ごしましたが、民間会社に勤務していましたから、月曜日から金曜日、時には土曜日まで、コストを1円下げ、売り上げを1円上げ、利益を1円増やす、そんなことに朝から晩まで集中しました。
そんな時に「波多野保夫、お前は私を愛しているか?」と問われたら、おそらくペトロの様に「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」この様に即答することは出来なかったと思います。それでは今のお前は? と主イエスは問われます。私に、そしてあなたにです。

聖書を読み進めましょう。 主はペトロに対して3度も質問なさったのです。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」「わたしを愛しているか」。その度にペトロは答えました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」復活された主イエスはここで3度ペトロに信仰の告白を求められています。
実はこれには伏線がありました。同じヨハネ福音書13章36節から38節です。「ペトロの離反を予告する」との小見出しが付いています。13章は洗足の出来事から始まっていますから、これは十字架にかかられる前の晩のことでした。お読みします。13:36 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」37 ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」38 イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 最後の晩餐の後に、「あなたのためなら命を捨てます。」とほかの弟子たちの前で大見得を切ったペトロです。数時間後、彼はゲッセマネの園で逮捕された主イエスを心配して、大祭司の庭に様子を見に行きました。この時、他の弟子たちは恐怖のあまり逃げ去ってしまったのですが、彼は大勢の人の前で「私はあの人を知らない。」と3度主を否定しました。するとすぐ、鶏が鳴き、彼は外に出て激しく泣いたのです。
3度主を否定したペトロに、他の弟子たちの前で3度、しかも「ヨハネの子シモン」と呼びかけてです。この呼びかけは聖書に4回出てくるのですが、ここでの3回の他には、ペトロが兄弟のアンデレに連れられて初めて主イエスのもとを訪ねた時だけです。「ペトロお前は確かに失敗をした。しかし、初心に帰ってやり直しなさい。」 この思いを込めて、わざわざ「ヨハネの子シモン」と呼んで彼の悔い改めを確認されたのです。ですから3度繰り返えされたのは、悔い改めを疑ったからではありません。大祭司の庭の外で激しく泣いたペトロです。主を裏切ってしまった心の傷がうずいたはずです。「私を愛しているか」と問われる度に主イエスに対する愛が確かなものとして心の中心に太く育っていったのではないでしょうか。
しかし、主イエスへの愛が、私たちの心を占めるまでには時間がかかります。ですから3度目には「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」 この様に答えたのです。「まだ、あの大失敗を問題にされるのですか? 今の私は違います。どうぞ私を見てください。」 そんな思いは彼の主イエスへの愛、すなわち信仰をますます確かなものとして行ったのです。
これはいつもお話ししているのですが、マタイ福音書11章に11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。と言う主イエスの言葉があります。慰めに満ちた言葉です。しかし、それに続いて 29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。 この様におっしゃいます。疲れ切ってやってきたら「わたしの為に働きなさい。」です。休んだだけで元の生活に戻ったなら、すぐまた疲れてしまいます。重荷に負けてしまいます。主イエスと共に働く。実は重荷のほとんどは主が担ってくださるのですが、そのことで私たちは筋肉だけでなく、心の筋肉も強くなります。同じ重荷に耐えることが出来るのです。主イエスの愛は表面的な疲労回復に留まりません。重荷や困難に負けない力をつけてくださる、そういった愛なのです。
ヘブライ人への手紙は言います。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、 力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、 子として受け入れる者を皆、 鞭打たれるからである。」(12:5,6)
ヤコブの手紙は告げます。 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。(ヤコブ1:2,3)
神様の愛は薄っぺらな愛ではありません。深いんです。真実なのです。それだけに見失うことのない様にしなければなりません。 ペトロに3度繰り返して、そして私たちに「私を愛するか」と問われるのは、ペトロと私たちへの期待であり、勇気づけるために違いないのです。主イエスはそのペトロに言われました。「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい。」 少しずつ言葉が違っていますが、その意味合いを区別する必要はありません。
さて、ヒツジですが最近の研究によれば、ヒツジは聴力や視力に優れ、人間の顔を識別できるほど高い認識力と記憶力を持っているのですが、臆病で警戒心が強く群れを作ることで安心するそうです。乾燥した荒れ地が多いパレスチナ地方にも良く順応したことから、広く家畜として飼われており聖書にもたびたび登場します。そもそも、赤ちゃんイエス様を最初に礼拝したのは羊飼いたちでした。
主イエスご自身が羊にたとえられます。洗礼を受けるためにヨルダン川に来られた時、バプテスマのヨハネは言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネ1:29)
旧約聖書の世界では、人の罪の代償として神殿で羊を献げました。贖罪の献げものです。(レビ記4:32-5:7)主イエスが贖罪の献げものとしてご自身を献げて下さって以降、教会は礼拝で動物を献げることをしません。感謝と従順のしるしとして、私たち自身を献げます。奉仕であったり、時間であったり、才能であったり、献金を献げます。そして何よりも祈りを献げます。
聖書では私たちが羊に、そして主イエスが羊飼いにたとえられます。100匹の群れから迷い出た1匹を捜しまわり、見つけたら喜んでその羊を担いで帰ってこられます。(ルカ15:4)
ヨハネ福音書10章9節10節で わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。この様におっしゃり、さらに10章11節。 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 盗人や強盗、あるいはオオカミから私たちを守ってくださるのです。
私たちを襲う盗人や強盗、あるいはオオカミとはなんでしょうか? 神様の愛から目を逸らせさせるこの世の重荷であり誘惑です。アダムとエバが負けてしまった蛇の誘惑、悪魔のいざないは残念ながらたくさんあります。
14節15節。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。十字架の出来事が私たちのためであったことをハッキリ告げていらっしゃいます。16節。 16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
囲いに入っていない羊、これはイスラエル以外の世界の人々です。しかし、主イエスを救い主と認めないユダヤ教の人たち、あるいは教会から離れてしまった人々も同じです。主は愛する私たち99匹をオオカミのいる原野に残してまで失われた1匹を探し求められておられるのです。
17節18節。17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。
 
本日与えられましたヨハネ福音書21章14節以下で復活の主は、ペトロに向かって「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい。」この様に3度おっしゃいました。主イエスご自身が担われた羊飼いの務めを委ねられたのです。その上でペトロがこれからどの様な人生を歩むのかを語られました。
週報の裏面にポーランド人のノーベル賞作家ヘンリク・シェンキェヴィチの小説を映画化した「クォ・ヴァディス」と言う映画を紹介しました。お読みします。【 映画「クォ・ヴァディス」(1951年アメリカ)はローマ帝国の将軍と若きキリスト教徒との恋の物語だが、その核心にペトロが描かれている。彼はローマに赴いて、信徒が密かに集う「家の教会」を拠点として主の福音を語り伝えていた。そんな折、ローマの大火の責任を問われるに至った暴君ネロはキリスト教徒にその責任を負わせた。そのため迫害が日ごとに激しくなって行った。ペトロは信徒たちの強い願いにより、闇に紛れてローマを脱出した。アッピア街道を進む彼は、夜明けの光の中に、こちらにやって来られるイエス・キリストの姿を見て驚き、ひざまずき尋ねた。「主よ、どこへ行かれるのですか? Quo vadis, Domine?」(ヨハネ13:36)主は答えて言われた。「ローマにいる私の民は、あなたを必要としている。あなたが見捨てるなら、私はローマに行って再び十字架にかかるであろう。」 ペトロは迷うことなくローマに引き返し、捕らえられ獄中においても福音を伝えたがやがて処刑された。4世紀の教会指導者ヒエロニムスによれば、処刑の際、「キリストと同じ十字架では恐れ多い」として、逆さ十字架に架けられたと言われる。 】 これは、聖書には書かれていない教会の伝承ですが、ペテロがどの様な死に方で神の栄光を現したかをよく語っています。

さて、ペトロが3回言われ「わたしを愛しているか?」「私の羊を飼いなさい。」この言葉を「私の羊を愛しなさい。」と読み替えることが出来ます。私たちに主が命じられるのです。
最初に雅歌を読んでいただきました。リレー通読で読まれた方は「なぜ男女が相手への切実な思いと求めを面々と語る物語が聖書におさめられているのか?」 この様な疑問を持たれたかも知れません。実際16世紀、宗教改革の時代に至っても「聖書としてふさわしいか?」と言った議論がなされていました。しかし、教会は、雅歌に主イエス・キリストと教会との関係。お互いに求め合う深い愛の関係を読み取ったのです。教会が、そして集う一人一人が、長老が、牧師が主の羊、囲いの中にある者も、囲いの外にある者も、迷い出た者も愛するのです。
マタイ福音書16章に ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。のに対して、主が「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(16:13-20)この言葉をプロテスタント教会は、ペトロが告白に至った信仰の上に教会が立てられていると解釈します。ですから「私の羊を愛しなさい。」このご命令に従うのは、ペトロだけではありません。パウロを含めた使徒たちだけもありません。わたしたち教会に集う一人一人が聖霊によって与えられた信仰よって喜びの内に担うのです。
以前、開発途上国の子供たちに教育を受ける機会を与える活動をしている、Compassion International 「主の慈愛を世界に」とでもいうのでしょうか。この団体を紹介しました。「食べ物を贈れば一日食べられる。漁に使う網を贈れば一年間食べられる。しかし、魚の取り方を教えれば一生食べていけるようになる。」このように言って、開発途上国にある教会を通して、子供たちに主の福音と教育の機会を与える活動をしています。「私の羊を愛しなさい。」このご命令に従う一つの実例です。ここで肝心なことは「現地の教会を通しての支援」にあります。「私の羊を愛しなさい。」もちろん食料危機に際しては食べ物を贈る必要があります。しかし、囲いの外にある羊を愛する最高の表現は信仰を分かち合うことです。これは祈ることから始まります。囲いの中にある羊を愛すること。話を聞くことに困難を伴う現在です。祈ることから始まります。囲いから迷い出た羊。イエス様が一生懸命捜してくださっています。私たちも共に祈りたいと思います。主の大いなる愛に生かされている私たちです。「わたしを愛しているか?」この主イエスの問いにハッキリと「はい」とお答えしていきましょう。祈ります。