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山形六日町教会

2021年4月11日

聖書:詩編51編1~6節 ルカによる福音書23章32~43節
「今日私と一緒に」波多野保夫牧師

先週、私たちは主の復活の出来事を感謝を持って受け止めるイースター礼拝を持ちました。残念ながら聖餐式と愛餐会を持つことは出来ませんでしたが、御言葉に聴き、賛美し祈り献げる、豊かな礼拝の時を共にしました。CSでは教会の中で窓を開けてエッグハンティングを行いました。CSの礼拝でお話ししました。「卵は硬い殻に包まれ命を感じさせないけれど、親鳥が愛情を注いで温めると、硬い殻を破って新しい命が生まれます。自分中心になってしまう、硬くて冷たい心の私に、イエス様は愛を注いでくださり、私たちは新しい命を喜んで生きる者となります。そのことを表しているのがイースターエッグです。」
本日与えられた聖書箇所は主が十字架上にいらっしゃる時の出来事を伝えています。順序が逆なのではないですか? そんな疑問を持たれた方がいらっしゃるかも知れません。もっともな疑問ですが、大丈夫です。私たちの日々の生活において、あるいは週ごとの礼拝において、主の誕生から十字架そして復活の出来事はすべて、今日の出来事であり今の出来事なのです。神様のご計画、私たちが罪を悔い改めて立ち返る。その為に独り子にすべての罪を負わせ、その独り子に従う者を罪のない者と見なしてくださる。この大いなる愛に思い至る時、それは今日の出来事であり今の出来事なのです。 ですから私たちにとって、主イエス・キリストを心の内にお迎えするのであれば、毎日がクリスマスです。自分の罪深さに気づくならば、そしてその罪が既に清算されていることを知るならば、毎日が十字架の日です。主に従う時永遠の命に与る希望が与えられるのであれば、毎日が主の復活の日、イースターです。
本日は、十字架の出来事を伝えますルカ福音書24章からみ言葉を聞いて参りましょう。 この聖書箇所を掲げた理由の一つは、こんな質問です。「一人は自分の罪を悔い改めた結果「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。こんな素晴らしい言葉をいただきました。しかし、4つの福音書の内、ルカ福音書だけしかこの大切な言葉を伝えていないのはなぜですか?」 なかなか良い質問です。
ルカ福音書には二人目の犯罪人の悔い改めが語られていますが、マタイ福音書には 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そして、 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。(27:38,44)とあり、マルコ福音書は イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十架につけた。(15:27) ヨハネ福音書は 彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。(19:18)この様に伝えるだけです。 皆さんはこの疑問、どの様に思われますでしょうか? 実はマルコは、クリスマスの出来事を伝えていません。ルカは、ガリラヤ湖で弟子たちが乗った舟が逆風のため進めなかったとき、湖の上を歩いて近づかれた出来事や、娘の癒しを願う異邦人の婦人が「子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただく」と言って信仰を表した話。あるいは4千人の給食を伝えていません。逆にヨハネは独特な出来事を多く伝えています。
聖書神学的回答はこうなります。福音書の成立ですが、十字架の出来事から40年以上後に教会に伝えられていた話や、メモのようなものが編纂され今日の姿になりました。それまでは、各地の教会の中に主イエスにお会いした者、十字架の現場に立ち会い復活の主にお会いした者たちがいました。文章化の必要性は低かったのです。しかし、証人たちが天に召される一方でキリスト教が広まると共に迫害も起きてきました。紀元70年に起きたローマ帝国によるエルサレム破壊は決定的な影響を与えました。そんな状況下でまとめられた福音書です。主イエスが教えられたことや、なさったことは一つですが、教会が置かれた状況によって心への響きが異なってたとしても不思議ではありません。4つの福音書は響き合い、補い合って神様の愛、独り子を与えてまでの愛を伝えます。その重要性は、残された聖書箇所の数ではありません。ルカ福音書23章32節から43節までを安心して読んでいきましょう。
まずこの場面の登場人物です。二人の犯罪人。マタイ福音書は強盗を働いたことを告げます。ローマ総督ポンテオ・ピラトが皇帝から与えられた任務は、占領地の治安を維持して税金をキチンと徴収することでしたから、治安を乱すことは許されません。真偽は分かりませんがこの犯罪者達は、主イエスの代わりに解放されたバラバの仲間だったとも言われます。いずれにしろ、主の十字架刑は根拠のないものでした。33節 人々は十字架につけた。とあります。十字架に磔(はりつけ)にしたのはローマの兵士です。ルカが「人々は」と書き記した理由は、十字架につけたのは、ピラトであり、最高法院の議員であり、民衆であった。そしてその罪は聖書が書き記された当時の教会も負い、2000年後の山形六日町教会も負わなければならないのだ。そんな思いが込められてのことでしょう。そこで人々は主イエスを十字架につけた のです。35節37節に嘲笑と侮辱の言葉が並びます。
「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 主イエスが30歳になってガリラヤで宣教を始められた際に、悪魔の誘惑を受けましたが、その時の悪魔のことば「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。」(口語ルカ4:3,9)この言葉が思い出されます。現代においても「神と隣人を、そして自分を」あざ笑い侮辱することは悪魔を喜ばせます。39節 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 この男も主イエスをあざ笑いました。なぜなら悪魔の誘惑に負けて犯罪を犯して以来、真実が見えなくなっていたのです。
しかし、もう一人の犯罪人は違いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 「神を恐れる」とは、神様の絶対的な権威を認めることです。神様に対して謙虚になることです。その時、この犯罪人は、そして私たちは真理を見抜く目を持つことが出来ます。神の前で謙虚さを取り戻した強盗は言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」 もはや死をまぬかれることの叶わない彼は、死の向こう側を見つめています。「私の様に罪深い者をあなたの栄光の中においてください。」 謙虚さを取り戻した祈りの言葉です。43節 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。楽園はアダムとエバが暮らしていたエデンの園を連想させます。神様が身近にいてくださる園です。
主は謙虚さを取り戻して悔い改めた犯罪人に明言されます。「今日わたしと一緒に楽園にいる。」 はたして、この言葉の通りになったのでしょうか? 私たちは知っています。この後、主の遺体は墓に葬られました。三日目に復活なさるまで陰府に降られたと、後ほど告白します使徒信条は述べます。ペトロの手紙Ⅰ 3章18節19節です。3:18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。19 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。 復活なさるまでの3日間、神様に立ち返ることなく死んだ者たちに福音を伝え悔い改めて神様に立ち返る様に求められました。主が父なる神のもとに帰られた昇天の時は復活から40日目、十字架での死から43日目のことです。しかし、この犯罪人に向かって「今日わたしと一緒に」とおっしゃいました。日数が合いません。十字架刑は呼吸が困難になる中で苦しみが長く続きます。意識が薄れて正確に日数を数えることが困難になっていたのでしょうか。 しかし、主イエスが十字架の苦しみを負われたのは神様のお考え、なんとか多くの人が神様に従う幸せで豊かな人生を歩んでほしい。このお考えに従ったから無実の罪を負われたのです。23章34節。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 これは苦しみの中にあってなお、私たちの罪の赦しを願われた祈りです。人々が悔い改めて神様に立ち返ることを願っての祈りです。今、主イエスはその人生の最後の時に、悔い改めて神様に立ち返った一人の男、犯罪者の男を見出したのです。以前、たとえ話を用いて語られました。 15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 (ルカ15:4-7) 最後の最後の瞬間に最大の願い、悔い改めた罪びとを見つけた喜びの言葉です。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。ではなぜ「今日」なのでしょうか。
答えは「わたしと一緒に」この言葉にあります。主イエスと共にあることであり、主イエスが共にいてくださる、その時、その場所が実は「楽園なのです。」 アダムとエバのいたエデンの園が、全くそうでした。この犯罪人は十字架に主と共に架けられ、罪の悔い改めを告白したその日その時から、主イエスが共にいてくださったのです。もちろん、主イエスと同じ墓に葬られたと聖書は語りません。主イエスと一緒に復活したと聖書は語りません。しかし、主イエスは共にいてくださるのです。
マタイ福音書の最後にある主イエスの言葉です。弟子たちに伝道をするように命じられました。そのご命令は現代において教会に与えられています。大宣教命令と呼ばれます。 「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 主イエスが共にいてくださることそれ自体が「神の御国」、神様の愛の支配が行き届いているところです。楽園なのです。やがて、主の再臨の時、主イエス・キリストが地上に来られ、裁きによって悪を滅ぼされる終末の時に「神の御国」は完成します。 しかし、すでに神様の恵みの支配は地上に届いています。終末の先取り、それが教会であり、特に礼拝の時なのです。共にいてくださる主イエス・キリストを感じることが出来るからです。キリストにある兄弟姉妹と賛美の時を共に出来るからです。

さて、ここで主イエスと一緒に十字架刑が執行された二人の犯罪人に焦点を当ててみたいと思います。裁判が行われてローマ総督ポンテオ・ピラトからイスラエルの治安を乱した罪で、見せしめのために一番残酷な十字架刑が言い渡されました。鞭うたれ刑場まで十字架を運ばされ、そして釘打たれました。激しい痛みが襲っています。助かるすべはありません。全く望みのない暗闇の中で激痛が走ります。呼吸が困難になり息が詰まります。そんな二人の示した反応は大きく異なりました。一人は主をののしりました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」もう一人は神を恐れ、罪を悔いて言いました。「 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」 彼らの抱いた恐れ、一度も経験したことのない死の恐怖です。因果応報説が支配していた時代です。悪いことをした自分の死に際して、恐怖が彼らを支配しました。一人は主イエスをののしり、一人は悔い改めて主を信じたのです。
私たちの中に、死を経験した人はいませんが、やがては確実に全員が経験します。ですから、そこに恐怖を覚えたとしても当然です。しかし、私たちが恐れることはもっと身近に、日々の生活の中にたくさんあるのではないでしょうか。 テスト、試験、仕事、昇進、転勤、転職、将来に関して、健康、病気、家族、友人、恋人、財産、自然災害そして死。 恐怖が人を支配すればろくな結果を生まないことは広く知られています。様々なことが言われています。
1930年代の世界恐慌の際のアメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルトの言葉です。「我々が恐れるべき唯一のものは、恐怖それ自体である。」人々の抱いた小さな不安が渦巻きついには第2次世界大戦に至ったと言われます。 作家で自己啓発のリーダーとして活躍したデール・カーネギーの言葉です。「恐怖心を克服したければ、自分のことばかり考えていてはだめだ。他人を助けるようにこころがければ、恐怖心は消え去る。」 彼がクリスチャンなのかどうかわからないのですが、「隣人を愛し助けることこそが、恐怖に打ち勝つ道だ。自分のことばかり考え思い悩んでみても恐怖には勝てない。」と解釈できます。
そして聖書です。週報の裏面に記しました。テモテへの手紙Ⅱ 1章7節。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 その根拠はと問えば、罪を悔い改め主イエスに従う犯罪人に、そして、罪を悔い改め主イエスに従う私たちに向かって、主は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言ってくださるのです。
週報にヨハネの黙示録21章1節以下を記しました。今、神様の御許にいらっしゃる主イエス・キリストが再び地上に来られて裁きをなさる。そして悪を完全に滅ぼし、地上が完全な神の支配の下に置かれる。大いなる喜びの時・終末の様子を語るヨハネの黙示録です。どんなことが有ろうとも、その先にある主の再臨の希望を伝えています。21章8節に神様の嫌われる者たちが並びますが、そこに「おくびょうな者」とあります。恐怖心は神様の愛を見失わせます。悪魔を喜ばせます。
念の為に付け加えます。蛇足です。現在コロナウィルスが世界的に猛威を振るっています。恐れるなと言うことは、マスクを着けず密集して愛餐会を持つことではありません。神様が創造された仕組みを優れた科学者が解き明かしての警告はきちんと守るのです。その上で恐怖に心を支配させないことが大切です。注意事項を守った上で礼拝を続けたいと思います。体調に不安を覚える方は礼拝の時を覚えて祈ってください。最終的な勝利者はすでに決まっています。死に勝利なさった方、復活された主イエス・キリストです。そのキリストに心を開き従う時、私たちは謙虚になります。神様と隣人と自分に対して謙虚になります。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」そうです。主に希望を託す時、私たちは恐れとは無縁の場所、楽園に“いつも”いることが出来るのです。生きているときも死んだ後も主と共に楽園にいるのです。祈りましょう。