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山形六日町教会

2021年4月4日

聖書:詩編118編22~25節 使徒言行録2章21~24節
「すでに知っていること」波多野保夫牧師

「イースターおめでとうございます!」 いかがでしょうか、「クリスマスおめでとうございます!」 この挨拶に比べて少し声が小さい様に感じられます。日本ではクリスマス礼拝で洗礼を受ける方が多いようですが、いわゆるキリスト教国では圧倒的にイースターです。新しい命をいただくのにふさわしい日と言うことでしょう。しかし、教会の特別な記念の日に洗礼を受けることは、救いに入れられた人生の記念日を覚えやすくする以上の意味を持ちません。日曜ごとの礼拝の大切さはいつも同じです。ユダヤ教は神様が天地を創造された際に、7日目の土曜日に休まれたことを覚えて、神様の前に出て罪の悔い改めと、豊かな恵みを感謝する日としています。一方、教会は主イエス・キリストの復活を覚えて礼拝の日を日曜日としたのです。しかし、クリスマスやバレンタインのプレゼントを買い求める人はたくさんいますが、イースター商戦はあまり盛り上がらないようです。ネットで調べてみましたが、プラスチック製の色とりどりの卵や、イースターエッグを抱えたスヌーピー。あるいはイースターバーニーのヘアーバンド。さらにイースターの絵柄に変わった袋菓子。この様な商品が見かけられるだけでした。 しかし、マーケティング関連の記事に次の様にありました。「イースターの認知度は「内容・名前を知っている人32%」。「名前のみ知っている人34%」これを合わせると70%近くになる。今後イースターマーケットをどの様に盛り上げていくのか。そのためにはホームパーティーが狙い目で、インスタ映えする工夫が必要だ。」 70%の人が少なくとも「イースター」と言う言葉を知っているそうです。無下に否定する必要はありませんが、商業主義に負けて「新しいプレゼントの日」にしてはいけません。
主の復活を感謝し祝うイースターが「罪の縄目から解放されての自由と、永遠の命に与る恵みを感謝し喜ぶ日」だと知らない、多くの人にしっかりと告げ知らせる。この福音の宣教が、教会と伝道者と長老と会員一人一人に委ねられていることを自覚したいと思います。
週報の裏面に、イースターエッグとイースターバーニーの由来を記しておきました。それぞれが持つ象徴的な意味、主の復活に与る者が新しい命をいただく、その喜びを世に告げたいと思います。
ヨハネ福音書3章です。主はニコデモに言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」さらに続けて「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
私たちが聖霊の働きによって新しく生まれること、これは具体的には、洗礼によって罪が赦され、教会の仲間に加えられることを意味します。それまでとは違って、豊かな神様の愛を覚えながら、感謝の内に新しい人生を歩むことが出来るからです。足りないことを嘆くのではなく満たされていること感謝する人生です。
なぜそんなことが可能なのでしょうか。主に従うことで罪が赦される。実はこれがすべてを創造された神様のお考えであり、その為に主イエス・キリストは十字架の道をとらなければなりませんでした。ゲッセマネの園での祈り、汗が血の滴るように地面に落ちた。真剣な祈りにもかかわらずは「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22:42)この願いは聞き入れられませんでした。それは、私たちのためです。十字架で死の時を迎え、墓に葬られました。
週報にコリントの信徒への手紙Ⅱ 5章17節18節を記しました。お読みします。5:17 キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。18 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。
ここに、ニコデモの問い「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」この問いに対する明確な答えがあります。聖霊の豊かな働きによってキリストに結ばれること。そのことによってニコデモも私たちも、神様は罪がない者と見なして、新しく生かしてくださり、愛の中を喜びの人生を歩む者となるのです。
この素晴らしい出来事、教会はそれを福音と呼びます。その福音の裏書、すなわちハッキリと証言し、保証してくれる証拠、それが主イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事なのです。私たちの罪を代わりに負って帳消しにしてくださった方が、死に勝利なさった、その復活の出来事がもしなかったのなら、十字架の出来事の後の3日間が今日も続いていることになります。
主イエスが逮捕された時、怖くなって逃げ去ってしまった弟子たち、大祭司の庭で3度主を知らないと言ってしまったペトロ。金曜日の夕べ以降、彼らはエルサレム市内にある、主イエスを信じる者の家に密かに身を寄せていたのでしょう。最愛の息子を理不尽な死によって失ったマリアを始め、ガリラヤから一行の世話をしながらやってきた婦人たちも一緒でした。悲しみと恐怖と沈黙が支配する3日間だったことでしょう。祈りのことばを失う時だったのかも知れません。
そして3日目を迎えました。日曜日の早朝に婦人たちは準備しておいた香料を持って墓に行きました。そこに母マリアの名はありません。あれよあれよと言う間に進んでいく事態に、彼女の理解はついていけません。その苦しみは時間の経過とともに増して行ったのでしょう。
ルカによる福音書24章2節以下です。 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れ言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
さらに12節です。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
3年間、主イエスと共に旅をして力ある教えを聞き、力ある業を見てきた彼らです。いわゆる英才教育、主イエス亡き後を託すための特別な訓練を受けてきた使徒たちです。彼らはある日イエス様から「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われ、ペトロは「神からのメシアです。」と答えました。イエス様はおっしゃいました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」ルカ福音書9章18節以下です。そんな彼らは婦人たちが伝える、主の復活の話を「たわ言」だと思い、不思議な話だと思ったペトロも全く理解できなかったのです。
先ほど司式の市川長老に使徒言行録2章を読んでいただきましたが、14節以下は、ペンテコステの日に聖霊が与えられて誕生した教会での、力強いペトロの説教を伝えています。23節24節。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
ペトロは力強く、自信を持って主イエスの復活を証ししています。彼だけではありません。ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。とあります。婦人たちが伝えた主の復活をたわ言だと言った弟子たち。墓まで一人で見に行ったペトロも不思議に思っただけでした。そんな彼らですが、50日後に聖霊を受けた教会を代表して、ペトロは力強く主イエスの復活を宣べ伝えました。
イースターの日には疑いと戸惑いが支配した、その彼らは50日後には自信を持って主の復活を証しする者となっていました。何が彼らを変えたのでしょうか? 決定的ない要因は復活の主イエスとの出会いです。
ルカ福音書は復活の日の夕方、エマオに向かう途中で弟子が主にお会いしたことを告げます。その後「あなたがたに平和があるように」と言って弟子たちの所に現れました。
ヨハネ福音書はもっと多くの出会いを告げています。弟子たちに現れた際、その場に居合わせなかったトマスの疑い。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 8日後そのトマスに向かって「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」この様に言われました。
漁をしていた弟子たちの所で網を打ちなさいとおっしゃり、その通りにすると大漁だったこと。食事を共にされたこと。そして3度ペトロに「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われ、彼が3度、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えるとは、「わたしの小羊を飼いなさい」と3度言われました。これらの他にも主は弟子たちの所に現れたと聖書は語ります。復活なさってから父なる神の許へと帰られた昇天の日までの40日間です。それから10日後に聖霊が降った時、ペトロは力強く主の復活を証言しました。
2:23あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
弟子たちは変わったのです。私たちはどうでしょうか? 現在、直接主にお会いすることはありません。イエス様は今神様の御許にいらっしゃるからです。しかし、最初の教会が誕生した際に、弟子たちと共に集う人々に力を与えたのは、主イエスが送ってくださった聖霊でした。父なる神、主イエス・キリスト、そして聖霊はその本質を一つにする三位一体の神です。
その聖霊は私たち一人一人に働いてくださいます。山形六日町教会に働いてくださいます。世界の教会に働いてくださいます。聖霊の働きによって、主の十字架と復活の出来事が与えてくださる罪の赦しと永遠の命、すなわち大いなる愛を、2000年後の今日も、私たちは感じ、知り、感謝するのです。主の復活は私たちにとって「たわ言」でも「不思議な出来事」でもありません。
第二の要因は、50日と言う時間がたったことです。当初何が何だか分からなかった中で、彼らを支配したのは恐怖と戸惑いでした。
私たちです。私たちの人生が決して平たんでないことはいつも申し上げていますし、皆さんも実感されていることでしょう。悩み苦しみ悲しみ、怒り、恐れ戸惑い、そして喜び。様々な時があります。マイナス状態の危機とプラス状態の危機とでもいうのでしょうか。双方とも人生の危機であり、信仰の危機になり得ます。私たちが神様の愛から離れることを最高の喜びとしている悪魔を喜ばせてしまいます。
突然襲った大きな苦しみ、不幸。あるいは願い求めてきたことがどうしても叶わない。「神様どうしてなのですか? 何で私に? どうして今?」 最愛の息子を失ったマリアがそうだったことでしょう。しかし3日目に光が射し込みました。そして復活の主との出会いがありました。信仰の仲間と祈りを共にすることが出来ました。使徒言行録1章14節にペンテコステの日を待つ彼女の姿があります。 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。 「なぜ、何で、どうして?」 マイナス状態の危機を乗越えるのには時間がかかる場合が多くあります。聖書は「いつも喜んでいなさい。」と告げます。それだけではありません。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(Ⅰテサロニケ5:16-18)
言われていることは分かります。主の十字架と復活と言う出来事が、この聖書の言葉の裏書であり証拠だということは頭で理解できます。しかし、私たちが「喜び」を回復出来るには時間を必要とするでしょう。確かにその時にはヘブライ人への手紙12章11節のことばにアーメンと答えられるでしょう。
およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
回復までの時間、主の御心を再び見出すまでの時間、どの様に過ごせばよいのでしょうか。最良の方法があります。礼拝に出席し共にみ言葉に聞き、祈り賛美し、献げるのです。辛いから礼拝を休むのではありません。辛いから礼拝に出るのです。それが叶わないなら祈りを共にするのです。マリアの姿を見てください。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。 聖霊が降り教会が誕生した後、現在に至るまで、この姿は礼拝に受け継がれています。辛いから礼拝に出るのです。
プラス状態の危機です。物事が自分の思い通りに進む、願い通りに進む。あるいは何とか達成できた。多くの場合、大変な努力があったことでしょうし、ひらめきがあったのかも知れません。素晴らしいことです。神様の恵みを大いに感謝すべきです。しかし、主の恵みを忘れてしまうのであれば、悪魔は喜びの時が近づいて来たとほくそ笑むことでしょう。彼は私たちが神様の愛から離れることを最高の喜びとしています。謙遜になるべきです。主の前で謙遜になるべきです。その為に大切なこと。それは主イエスにお会いすることです。鞭うたれ、十字架を負ってゴルゴダの丘まで歩き、そして十字架での死に至るまで神様に従順であった主イエス・キリストにお会いすることです。
私たちを謙遜にする最良の方法があります。礼拝に出席し共にみ言葉に聞き、祈り賛美し、献げるのです。私たちの頑なな心を砕くハンマー、それはみ言葉以外にありません。十字架にかかってまで私たちを愛し、復活によって新しい命の基となられた主イエス・キリスト。その言葉と業は私たちの頑なな心を砕いてくださいます。
主は、私たちに柔らかな心と頑強な足、主の為に働く頑強な足を求められます。
しかし、私は頑なな心と軟弱な足の持ち主です。そんな私を我慢して用いてくださる主イエス・キリストです。「いつも喜んで」過ごす日々。その原点は、主の十字架と復活を覚え、記念する日曜ごとの礼拝です。2021年のイースターに当たって、主の御許に至る喜びの人生が備えられていることをあらためて確認し感謝したいと思います。「イースターおめでとうございます。!」祈りましょう。