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山形六日町教会

2021年3月28日

聖書:ルツ記2章8~9節 ヨハネによる福音書19章28~35節
「私は渇く」波多野保夫牧師

本日は受難週の礼拝を守っています。主のご受難の時を強く覚えて過ごす一週間です。主イエス・キリストの死が「罪」を犯す私たちの身代わりとしての「死」であったことを、感謝の内に覚えて過ごしたいと思います。
聖書はこの週の金曜日のご受難の時に至るまでのエルサレムで過ごされた日々を伝えます。日曜日にろばに乗って入城された際、人々は戦いに勝利した王や将軍を迎える様に、自分の服を道に敷いてお迎えしました。翌日のことです、ルカによる福音書によれば、祈りの家であるはずのエルサレム神殿を利益を得る場にしてしまっていた商人たちを追い払った「宮清め」に続いて、神殿の庭で民衆に向かって神様のお考えを語り福音を伝えられました。神殿のさい銭箱に、生活費のすべて・レプトン銅貨2枚をささげた貧しいやもめを見て「彼女が誰よりも多く献げた」と言われました。殺す理由を見つけようとやって来た祭司長や律法学者、長老たちとの議論。ローマ皇帝へ税金を納めて良いかと問う彼らに、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と答えられたのもこの時でした。ご自分の十字架の時が迫っていることを知った上で、復活について、さらにご自分が再び地上に来て裁きをなさり、すべての悪を滅ぼされる終末の時について語られたのもこの時でした。
しかし、十字架や復活、さらに再臨と裁きを行われる終末の時。これらについて語られても、弟子たちは全く理解できなかったのです。つい数日前、エルサレム入城の際の感激、思わず「主の名によって来られる方、王に、 祝福があるように。天には平和、 いと高きところには栄光。」と叫んだ夢のような出来事に浸っていた彼らは「自分たちの間でだれが一番偉いのだろう」と議論している始末でした。最後の晩餐に続いて彼らを連れてオリーブ山に行き「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈られました。3年間力ある言葉と業で、人々が神様に立ち返ることを求めて旅を続けたにも拘わらず、悔い改めることなく「罪」の中に留まっている。そんな者たちの為に自分が身代わりの死を遂げなければならない理不尽さ・無念さを感じられたことでしょう。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」との願いには、残酷な十字架刑の痛みと苦しみを避けたい思いは当然あったことでしょう。主イエスは罪を犯されなかった他は、私たちと全く同じ人間でした。しかし、それだけではありません。自分の代わりに、神様のお考えを世の人々に告げる使命を託す弟子たちのあまりにも頼りない様子に、「神様もう少し時間を下さい。」との思いがあったことも確かです。そんな苦しい思いを持ちつつも神様への従順さを貫かれたのです。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22:42) イスカリオテのユダの裏切りにより逮捕されて大祭司の家に連行されました。心配してひそかに様子を見に言ったペトロ。鶏が鳴く前に三度主を知らないと言ってしまいました。最高法院、ローマ総督ポンテオ・ピラト、ヘロデとたらい回しにされたあげく、再びピラトの法廷での死刑判決。これは何も罪を見いだせないにも関わらず暴動を恐れての判決でした。一つ一つの出来事に、人間の弱さ利益の追求や、自己保身が見られます。人間の弱さ、醜さが顕(あら)わにされる中を、神様を信頼し真理を貫かれた唯一の方が十字架への道を歩まれたのです。

さて、先ほどお読みしたヨハネ福音書19章28節から34節です。私たちは約1分程でこの聖書箇所を読んでしまいます。しかし、十字架刑はローマ帝国への謀反が繰り返されないようにする、見せしめが目的ですから残忍さを極めます。数日間苦しみを味わう場合もありました。それがどれほどおぞましいものであり、肉体的な苦しみがどれほどのものであったのか、目をそらさずに見つめることが大切だと考えました。歴史家の証言を聞いてみたいと思います。
犯罪者は鞭うたれたあと、十字架の横木を背負って刑場まで歩かされました。そして十字架を立てる前に、まず手の平と手首を太い釘で横木に打ち付けます。次に左足を右足に押し付け、つま先を下に向け膝が45度に曲がる様に両足の甲を太い釘で縦木に打ち付けます。これだけで私の想像を超えた痛みに違いありません。十字架が立てられると体重が手首にかかり、激痛が走ります。肩は脱臼して横隔膜を広げることが出来なくなり、呼吸困難に陥ります。体重を支えて呼吸を楽にしようとして足を踏ん張ると釘打たれた足の甲から激痛が頭のてっぺんまで走ります。足の力を抜くと再び呼吸が困難になります。数時間に渡ってこれを繰り返すことで背中は十字架の縦木に擦り付けられ皮膚が剥けてしまいます。次第に心臓の周りに水疱が生じて圧迫し耐えがたい胸の痛みが生じます。腰のところに小さな腰掛のようなものをつけることがありましたが、これは少しだけ体重を支えることで、呼吸を楽にして苦しみを長引かせるためでした。やがて呼吸が出来なくなり死に至ります。これが十字架刑だったそうです。
ヨハネ福音書19章31節以下には「イエスのわき腹をやりで突く」とあります。31節 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。 律法に次の規定があります。 ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。(申命記21:22-23)しかも、ユダヤの暦では一日は夕暮れと共にはじまるので、特別な安息日、「過越しの祭」の安息日は数時間後に始まります。今まで体重を支えていた足を折ると呼吸が出来なくなりすぐに絶命するのだそうです。33節。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。 34節。 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。 主イエスが肉体を持った人間だったことを示しています。死によって血液が血清とかさぶたの成分、血餅に分離して流れ出ました。真の神であると同時に真の人であった主イエスが、想像を絶する苦しみを私たちの「罪」を贖うために味わわれた死です。
さて、聖書はこのような十字架上での苦しみを味わいつつ語られた主イエスの7つの言葉を伝えています。週報に記しました。お読みします。
1. ルカ福音書 23:34 そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 主はご自分を十字架へと追いやった、最高法院の議員たち、十字架の判決を下したローマ総督ポンテオピラト、茨の冠をかぶせて愚弄した末に十字架に太い釘で打ち付けたローマ兵たち。そして主を裏切ったペトロや逃げ去った弟子たち、イスカリオテのユダも含めて、すべての人の罪の赦しを祈り求められました。先ほど讃美歌306番の1節2節を賛美しました。「あなたもそこにいたのか」との問いは、私たちの「罪」に対しての立ち位置を問います。私たちは、主を十字架に架けた「罪びと」であると同時に「罪赦された者」として十字架の許にいるのです。
2. ルカ福音書 23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。イエスと共に十字架に架けられた強盗の一人は、主を救い主と信じて自分の罪を悔い改めました。
3. ヨハネ福音書 19:26-27 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。先週、ご一緒にこのみ言葉を聞きました。この弟子、ヨハネと言われていますが、彼は祈りを共にする集団、現在の教会の中にマリアを招いたのです。
4. マタイ福音書 27:46(マルコ福音書 15:34) 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。神様は聖なる方ですから罪をいい加減になさいません。父と子の愛情に基づいた信頼関係を捨ててまで、私たちの「罪」を全て負わせ、私たちと神様との正しい関係を回復してくださったのです。
5. ヨハネ福音書19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。日与えられた聖句です。
6.ヨハネ福音書19:30  イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。これこそ、主の勝利の叫びです。主は私たちの罪の負債を完全に支払ってくださいました。神様から与えられた地上でなすべき使命をすべて果たされました。それは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)30歳になりガリラヤで宣教を始められた際のこの言葉を、力ある言葉と力ある業によって人々に伝えることでした。そして福音を最も鮮明に示す業、それが人の罪を負っての十字架における死だったのです。さらにその使命は、弟子たちに、そしてペンテコステの日に聖霊が降って誕生した教会へ。さらに2000年後のこの山形六日町教会へと委ねられているのです。私たちはすべてが勝利の業だということを、主イエスの復活の出来事によってハッキリと知っているのです。
7.ルカ福音書23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。主は息をひきとられました。大いなる苦しみの後に愛する神にすべてを委ねられた安らぎの内の死でした。

さて、本日与えられました、ヨハネ福音書19章28節です。 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。 福音書記者ヨハネは旧約聖書に精通していましたから、十字架での出来事の一つ一つが、詩編や出エジプト記、申命記、ゼカリヤ書、あるいはイザヤ書にある言葉が実現したのだと知ることが出来ましたが、私たちは「渇く」と言う主の言葉に注目したいと思います。 この「渇く」に、十字架上で極限状態にある肉体が欲する「渇き」と共に心の「渇き」を読み取ることは適切です。最初にお読みしたルツ記でボアズは姑(しゅうとめ)ナオミの為に懸命に働くルツに対して、「喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい。」と言いました。ボアズのこの言葉は、異国からやってきて不安の中にあったルツの肉体を潤しただけでなく心を潤したことは確かです。やがて二人は結婚し、ひ孫にダビデが生まれ、さらに主イエスへと繋がる神様のご計画がありました。 ヨハネ福音書は「渇き」に関しての主イエスの言葉を伝えています。4章7節以下です。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。そして訝(いぶか)る女性に イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」さらにつづけて「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
7章37節以下です。 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。
整理しましょう。クリスマスの日に真の人として地上に誕生された神様、主イエス・キリストは、私たちと同じように苦しみも悲しみも、渇きも。当然喜びも知る方でした。その方は十字架の上で焼き付くような痛みを癒す水を必要とされました。そして、約束通りに与えてくださった水、決して渇くことのない水、すなわち聖霊が復活から50日目に与えられ、教会が誕生しました。今、山形六日町教会を含めた全世界中の教会は聖霊によって生かされ、私たちは今、聖霊によって礼拝へと招かれています。これは、なんという恵みでしょうか。
人間の体の60%以上が水分だそうで1日1500cc 程の水が必要だそうです。1961年、人類初の宇宙飛行に成功したガガーリンは「地球は青かった」と言いました。しかし「水の惑星」地球の2/3は水で覆われていますが、そのほとんどが海水であったり南極の氷であったり地下水として存在しており、利用できる真水は0.01%。 地球全体の水を風呂桶一杯の水に例えれば、そのまま利用できるのは一滴の水だけだそうです。日本ではほとんど実感がないのですが、増え続ける世界人口に対して水不足が深刻化しており、透き通った水を見たこともなく、汚れた水しか飲むことのできない子供たちは、劣悪な衛生環境がもたらす下痢からの脱水症状によって年間 180 万人ほどが亡くなっている。こういった現実があるそうです。
私の友人の牧師は発展途上国で井戸を掘るワールドビジョンと言う慈善団体のプログラムに参加しています。アスリートではない、彼は一週間毎日10キロ程走ることを宣言してその様子をFacebookで伝え、目標額を65万円として寄付を募っています。120人の子供を潤すことが出来るそうです。今日がゴールの日ですから、レントにあってキリストの苦しみをいささかでも味わい感謝の思いを込めて、キリストの愛を困難の中にある子ども達に届けようとしているのです。
東京砂漠と言う言葉をご存知でしょうか? 東京都に属します伊豆大島の砂漠ではありません。コンクリートに囲まれた潤いのない無味乾燥で空虚な街のことをいうそうです。コロナ禍にあって、人間関係の希薄さが増しています。私たち六日町教会においても、残念ながら、いろいろな交わりの時をあきらめなければならない現実があります。 しかし、私たちは知っているのです。真の渇きを経験された方は、真の潤いを与えてくださる方だということを知っているのです。人々の罪を負っての死と言う理不尽さ、神に逆らい続けることを悔い改めようとしない人々への怒り、後を託す弟子たちが少しも成長しない虚しさ。大いなる心の渇きを覚えられた方は、襲ってくる激痛に耐える肉体が要求する渇きをも経験されました。 そのすべてが私たちを愛する故でした。この受難週を悔い改めと感謝の祈りの時として過ごしたいと思います。
最後に神様の豊かな愛を届けてくれる詩編21編をお読みします。
23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。4 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。5 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。6 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り生涯、そこにとどまるであろう。祈りましょう。