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山形六日町教会

2021年3月21日

聖書:詩編39編10~13節 ヨハネによる福音書19章25~27節
「十字架の傍らに」波多野保夫牧師

私たちは今、主のご受難、十字架における死への備えの時、40日間に及びますレントの日々を歩んでいます。 先週、3月14日には、ルカによる福音書19章28節以下を通して、ろばに乗ってエルサレムに入城された主イエスが大歓迎を受けた出来事をみました。その様子に感激した弟子たちは、自分たちの先生がイスラエルをローマ帝国から解放し王座に就かれる日がやってきたのだとの思いから大きな声で叫びました。「主の名によって来られる方、王に、 祝福があるように。天には平和、 いと高きところには栄光。」この時の弟子がとんでもない思い違いをしていたことを私たちは知っています。イスラエルをローマ帝国から解放する王と言う、歴史の一点において名を残すだけの王ではないことを私たちは聖書の証言を通して知っています。
先週申し上げたことを繰り返しましょう。「主の名によって来られる方」:神様の独り子は真の人としてクリスマスの日に地上に誕生なさいました。 「王に祝福があるように。」:この世の王の務めは「民に食物を与える事」と「治安を維持すること」にあると言われます。悪魔が「空腹なら石をパンに変えてみろ」と誘惑したのに対して、『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』とお答えになった方は、み言葉と癒しを求めて集まった5000人の空腹を2匹の魚と5つのパンで満たされました。「天には平和、いと高きところには栄光。」:真の平和をもたらす方です。昨今の国際情勢や国会の論戦、週刊誌の報道などを見ると、利益を求めるために嘘を嘘で塗り固めているとでもいうのでしょうか、あきれ果ててしまいます。皆が「真の神」に従うようになる以外に、真の平和、真の心の安らぎを得ることは出来ないと思わされます。その一方で、日本の多くの教会が高齢化と会員の減少に苦しんでいますが、教会の価値が下がっているのではありません。最高の幸せを知っているからです。私たちクリスチャンは最後には、終末の時には主イエスが悪を完全に滅ぼされることを知っています。ここに希望を託すことが出来ます。さらに神様の御支配の許で、永遠の命が約束されています。「天には平和、いと高きところには栄光。」 神様の御許にある平和と栄光に与る約束と希望とを教会は与えられているのです。
ファリサイ派の人が「先生、お弟子たちを叱ってください」 この様に叫んだのに対して、イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」この様におっしゃいました。
山形六日町教会が諸先輩の信仰を受け継いで、この山形の地に主の福音を伝えないのであれば石が主を証しする。私たちには伝道の使命が与えられているのです。
エルサレム入城から十字架における死まで6日間の出来事を、福音書は多くのページを割いて伝えています。 ページ数が多いから重要というわけではありませんが、福音書記者ヨハネが最も伝えたかった事がここにあるのです。 先週のエルサレム入城から、本日の十字架での死を前にした主のみ言葉へと飛びました。十字架に架かられる前の晩の出来事については、4月1日の洗足の木曜日礼拝でみ言葉を聞きたいと思います。大勢の方の参加をお待ちします。

さて、本日は説教シリーズ「気概を示す」の第24回になりますが、ヒロインは、主イエスの母マリアです。既に3回彼女の信仰を取り上げました。ルカ福音書1章。突然現れた天使ガブリエルの言葉「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」戸惑いつつも「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えることが出来た受胎告知の場面。さらにそれに続いて「わたしの魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」と歌う「マリアの賛歌」。私たちは神様の前で謙虚でなければならないことを学び、そこに欠かせないキーワードとして「礼拝」「聖書」「祈り」を挙げました。礼拝を共にする、あるいは礼拝の時を覚える。聖書に親しみ、祈りの時を持つ。私たちが神様と隣人の前で謙虚さを保つために欠かすことが出来ない、それが「礼拝」「聖書」そして「祈り」なのです。
2回目は受胎告知から10か月ほど後のクリスマスの出来事です。ルカ福音書2章を開き、やって来た羊飼たちの伝えた天使たちの賛美の声を聞いて「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」この言葉に注目しました。自分の経験や常識をはるかに超えた数々の出来事、神様のなさる不思議を「すべて心に納めて、思い巡らしていた。」のです。
3回目は、30歳になられた主イエスが、カナでの婚礼に出席された際の出来事です。マリアが「ブドウ酒が足りなくなったのでなんとかしてほしい」と願ったのに対して、かめの水を極上のワインに変えられた最初の奇跡です。ヨハネ福音書2章が伝えています。主イエスの誕生以来の不思議な出来事を「すべて心に納めて、思い巡らしていた。」彼女です。この奇跡を素直に受け入れることが出来ました。次の様に申しました。「イエス様と共に過ごすマリアの人生。これは正に私たちの人生です。もちろん同じ家に住んではいませんが、主の家、即ち教会に週ごとに集い礼拝をささげています。私たちの信仰は礼拝によって養われます。」この後、主イエスは12弟子を始めとして従う人々と共に、ガリラヤからエルサレムへと町や村をめぐって3年半に及ぶ旅を続けられました。神の国を伝え、病の人をいやし、悔い改めて神様に立ち返る様にと導きながらの旅です。聖書は彼女の名を挙げませんが、共に旅をして奉仕した婦人たちの中に、母マリアの姿もあったことでしょう。(ルカ8:1-3)ここで、マリアの夫となったヨセフに触れておきましょう。赤ちゃんイエス様とマリアを連れてヘロデ大王の迫害から逃れてエジプトの地に一旦は避難したのですが、大王の死後二人を連れてガリラヤへと戻り、大工として家族を養いました。過越し祭のおり、家族でエルサレム神殿に行った帰りに迷子になってしまった少年イエスが宮の中で教師たちと語らっているのを見つけた時です。両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。(ルカ2:48)実はこれを最後に聖書はヨセフについて語りません。早く亡くなり、主イエスが大工仕事をして家族を支えたのだろうと言われています。
そして4回目です。マリアは主イエスの十字架のそばに立っていました。すでに6時間もの間、最愛の息子が十字架上で苦しむのを見続けていなければならなかったのです。つい5日前に聞いた弟子たちの叫び声、「主の名によって来られる方、王に、 祝福があるように。天には平和、 いと高きところには栄光。」この叫び声は、30数年の間心にとどめ続けて来たあの言葉。羊飼いたちが伝えた天使の賛美の言葉、「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)この言葉と共にマリアの心の中で響き合ったことでしょう。母親にとって大きな喜びだったことは確かです。しかし、あれよあれよと進んでいく出来事。何が起きているのか理解する間もなかった彼女に出来ることは、ただただ神様に祈ることだけでした。そんな彼女に突然聞こえてきた声。それはまさに十字架の上からの声でした。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」この弟子は後に、ヨハネ福音書を書いたヨハネだと言われています。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。主イエスがまさに死を迎えようとしていた時に、母マリアに見せた最後の心遣い、それは彼女が新しい関係、愛のみに支配される関係に入ることでした。
苦しみや悲しみに耐える力、特に精神的な力はどの様にして得られるのでしょうか? 苦しみや悲しみと無縁の人生は難しいようです。しかし「いつも喜んでいなさい。」この聖書の言葉を胸に生きていらっしゃるに違い無いと思われる方もいらっしゃいます。うらやましく思います。皆さんが腕を骨折したとしましょう。骨がしっかりと付いて元の様に丈夫になるには患部を保護し固定するギプスが必要です。同じように、苦しみや悲しみによって折れた心を癒すためにもギプスは必要です。主イエスが深く傷ついた母マリアの心を癒すために、ご自分が死の苦しみを味わいつつも示したギプス。それは12使徒の一人、ヨハネを通して他の弟子たちとの交わりを固くすること。ペンテコステの日に聖霊を受けて誕生した教会に連なることだったのです。実際、主の十字架における死の3日後に主は復活され死に打ち勝たれました。復活の主は40日間、多くの弟子たちに現れた後、神様の御許に帰られましたが、その際に約束された聖霊がくだったのが10日後のペンテコステの日でした。そして聖霊を受けて誕生したのが、2000年後に至るまで、主の死が私たちの罪のためであり、復活は死に対する絶対的な勝利だと知る教会です。主に従う私たちもこの勝利に与かる約束が与えられている。教会はこれらすべてを聖書の証言によって知り、確信する者の群れです。宣べ伝える者の群れです。聖書はマリアが教会の交わりの中に生きたことを短く伝えています。使徒言行録1章14節です。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。 ペンテコステの日を待つマリアと弟子たちが祈りの共同体の中にあったことを伝えています。
主イエスは、私たちが交わりの中、教会の交わりの中で幸せな人生を送ることを望まれています。しかし、現代において、特に都会ではアパートの隣の人の名前も知らない超個人主義の社会になっています。逆に田舎では常に周りから見張られている感覚があるともいわれます。昨今2メートルのソーシャル・ディスタンスをとる様に言われますが、人には快適な距離感があるそうです。確かにずけずけと心の中に土足で踏み込まれたらたまりません。
教会においても、ベタベタした人間関係が煩わしい。他の人の個人的なことは知りたくないし、自分も知られたくない。一人で聖書を読んでいる方がよい。こんな声もあるそうです。実際、適正な距離感と言うのは一人一人異なっており大変難しいものです。
現代において、特に若い人の間ではFacebook, Line, Instagram,あるいはYou Tube, Twitter などのいわゆるSocial Mediaが広く普及しており、それぞれのメディアの中にグループを作って、そこに入れてもらえないことが「いじめ」になっていると報じられています。Social Mediaでは、数十人、数百人もの友達を作り広く浅くつながることも可能です。名前が知られないことから、誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)が行われたり、「炎上」なども起こります。若い人はこの様な世界に生きていかざるを得ないのが現実でしょう。対処法は後ほどお話しします。
社会人になれば、職場のグループや飲み友達、派閥や学閥などもあるでしょう。趣味の世界、手芸や俳句、ダンスやテニス、冬場ならスキーやスケート。深い友情が生まれることもあります。スポーツクラブで知り合ったことがきっかけとなって誕生したカップル。真に結構なことです。その一方で何らかの過去を引きずり、人と交わることが苦手、あるいはまったくできない方が増えているそうです。NHKの番組で取り上げていましたが「80・50問題」。これは「80」代の親が「50」代の子どもの生活を支えているという問題で、内閣府の調査によれば深刻さが増しているそうです。
それでは教会での交わりはどうでしょうか? ソーシャル・メディアの持つ「広く浅く」と言った特徴の内、「広く」の方はぜひそうありたいのですが、教会の現状は狭く・狭くなってしまっています。残念です。しかし、教会の交わりが世の交わりと違う点。それはハッキリしています。主イエス・キリストを仲立ちとした交わりです。ここがぼやけた時、教会の交わりは煩(わずら)わしいもの、厭(いと)わしいものとなります。残念ながらそんな思いがわいた時にはどうすればよいのでしょうか。主イエスに倣(なら)うのです。 ルカ福音書5章16節。イエスは、人里離れた所に退いて祈っておられた。22章40節以下は十字架の前の晩、逮捕直前にオリーブ山に行かれた場面です。 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。 弟子たちの群れ、教会です。弟子たちからすこし離れて神様との対話の時を持った後に、再び弟子たちの所に戻られたのです。半日後に十字架の時が迫っているのもかかわらず、エルサレム入城の際の誇らしさを引きずったままの弟子たちです。これは、教会の交わりが煩(わずら)わしい、厭(いと)わしいなどと言ったレベルではありません。
プロテスタント教会は2つの聖礼典を大切にしています。洗礼と聖餐です。洗礼式では、キリストに従う人生の歩みを神と会衆との前で誓約します。二つの意味を持ちます。「罪」の結果である「死」に勝利されたキリストは私たちの「罪」を負ってくださいます。ですから私たちには「罪の縄目」から解かれた自由が与えられます。新しい人生のスタートです。もう一つは教会への入会式です。イエス・キリストの血と肉によって養われる仲間に加わるのです。民法の定めによれば、親子関係は1親等ですが、兄弟姉妹は2親等です。いったん親に遡って勘定するからです。親を仲立ちとした親しい関係なのです。主は死の直前、マリアと弟子の一人ヨハネの養子縁組を告げられました。イエス様を仲立ちとした愛の関係です。先ほどお読みした使徒言行録1章14節です。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。 最愛の息子の十字架における死と言う、深い深い悲しみの中にあったマリアは、復活の主にお会いし、教会の中で共に祈り共に主に仕える幸せな人生を送ったのです。苦しみの中で主が示された最大の心遣い。それは信仰によるヨハネとの養子縁組であり、教会への招きでした。
若い人たちはその長い人生を負の側面を持ったIT社会の中で生きていかざるを得ないでしょう。教会での主イエスを頭とした交わりを持つことが最高の対応です。逆に教会での人間関係に疲れた方。人里離れたところに退いて祈りの時を持ち、再び仲間の許に帰って来てください。引きこもっている方はすべてをご存知の方が共にいてくださることに気づいてください。確かに教会におけるお互いの距離感にも難しいものがあります。私の経験談です。10年近く前に牧師の研修をさせていただいた教会の祈祷会でした。祈りのリクエストを出し合いました。「ワンちゃん具合が悪いので祈ってください。」「友達と気まずくなっちゃったんで」。そんな時一人の青年が言いました。「ここの所体調がすぐれなかったのですが、今日病院でガンだと診断されました。皆で祈ってください!」 私たちは彼を囲んで手を置いて祈りました。癒しを祈りました。その彼は現在元気に教会で奉仕しています。祈りが聞かれました。
まず、自分で「心を開く」ことが大切です。神様に「心を開く」ことから始まります。すべてをご存知の神様は私たちの語り掛け、祈りの言葉を待っていらっしゃいます。そして信仰の友や長老さんや牧師に心を開く。祈りを共にする。これが主を仲立ちとする喜びに包まれた教会の姿なのです。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。 私たちも祈りましょう。