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山形六日町教会

2021年3月14日

聖書:イザヤ書57章1~2節 ルカによる福音書19章36~44節
「エルサレムに迎えられる」波多野保夫牧師

私たちは今、主の十字架の時を前にした40日間の備えの時、レントの日々を過ごしています。本日は、主が十字架にかかられる5日前の日曜日にエルサレムに入城された様子を伝えています。当時の都市は外敵の攻撃に備えて城壁に囲まれていましたので、入城されたと言われます。
さて、この時のイエス様です。実はこれからエルサレムで自分の身に起きることをはっきりと自覚されていました。先立ちます、ルカ福音書18章31節以下の小見出しには「イエス、三度死と復活を予告する」とあり、これから起きることを弟子たちに伝えられたのですが、彼らはは何のことだか全く理解できませんでした。毎日経験している、力ある言葉と力ある業、そして大勢の人に慕われているこの方が、エルサレムで処刑されるなんて! 彼らの理解を越えていました。あるいは聞きたくないことを意識の内から追い出してしまう、いわゆる正常化バイアスが働いたのかも知れません。
本日与えられました聖書箇所は、弟子たちが期待していた通りの晴れやかな場面から始まります。19章36節。 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。 これは、戦いに勝利した王や将軍が入城する凱旋パレードの際に、熱狂的な民衆が歓喜の内に迎え入れた様子に重なりますが、大きな違いがあります。それは戦いの勝者は馬に乗って入城したのに対して、主イエスは子ろばに乗ってでした。ろばは辛抱強く重いものを運ぶそうですが、戦いには全く向きません。当時の王たちは平和な時代には戦いの意思がないことを示すために、馬ではなくろばに乗って入城したそうです。平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。 この主の言葉が、山上の説教(マタイ福音書5章から7章。5:9)にありますが、神の子ご自身が平和を象徴するろばに乗って入城されたのです。19章30節から35節にその経緯があります。二人の弟子に「向こうの村に行くと、子ろばがつないである。それを連れて来なさい。 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」この様におっしゃった通りになりました。「別の弟子を事前に行かせてお金を払ってあったのだ。」この様な合理的な説明もなされますが、エルサレムの人々が熱狂的な出迎えをしたのと同様に、ろばの持ち主もイエス様の力ある言葉、力ある業を知っていたはずです。テレビの中継やSNS などない時代ですが、それは多くの人の最大の関心事でした。自分たちをローマ帝国の支配から解放してくれる救い主が来られたに違いないと思っていたのです。そんな折、二人の弟子がやってきて「イエス様がお入り用なのです」と弟伝えたので、喜んでその言葉を受け入れたのです。
私たちです。このろばの持ち主は、これから起きる出来事すなわち、主の十字架と復活の出来事を知る由もありませんでしたが、私たちは違います。私たちを愛する故に十字架の道を歩んでくださった出来事、それに続く復活の出来事を全て聖書を通して知っています。2021年3月14日、変わることのない主の愛を感じつつレントの日々を感謝の内に歩んでいます。そんな日々『主がお入り用なのです』との言葉を私たちはどの様に聞くのでしょうか? 主は「強靭な足と柔らかい心」を求められます。しかし、私は「軟弱な足とかたくなな心」の持ち主であることを思わされます。
マタイによる福音書に神様ことばがあります。謙虚な人に対して『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。反対に自分中心の人に対しては『これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。 主は、私たちに与えてくださっている多くの恵みの中から、持ち物や時間や労力、あるいは才能などを御用のために献げることを求めていらっしゃいます。そして何よりも祈りを求めていらっしゃいます。この事実を覚えながらさらに聖書を読み進めていきましょう。
ろばに乗ってエルサレムへと進んで行かれる主を、人々が大歓迎する様子を見た弟子たちは、声高らかに神様を賛美しました。38節。「主の名によって来られる方、王に、 祝福があるように。天には平和、 いと高きところには栄光。」 3年半の間、いっしょに旅をして、神様の国についての教えを聞き数々の常識を超えた力ある業、すなわち奇跡を目の当りにしてきた弟子たちです。
それは、カナの村の婚礼で水を極上のブドウ酒に代えることから始まりました。多くの病に苦しむ人に癒しを与えられました。旅の夜、焚火を囲んで楽しい語らいの時もありました。5千人に食べ物を与えられました。すでに葬られて4日も経っていたマリアとマルタの兄弟を「ラザロ、出てきなさい」と大声で墓から呼び出されました。
弟子たちは、「首都エルサレムの大勢の人たちがイエス様を理解してくれているんだ。平和をもたらす王として迎え入れてくれているんだ!」 思わず口を突いて出た言葉、それが「主の名によって来られる方、王に、 祝福があるように。天には平和、 いと高きところには栄光。」 主イエスをほめたたえるのに最もふさわしいこの言葉だったのです。しかし、この様子を見たファリサイ派の人が叫びました。39節。 「先生、お弟子たちを叱ってください」 それに対して、 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」 ユダヤ教の一派、ファリサイ派は政治と宗教が一体となった、政教一致国家イスラエルの最高法院に議席を持って権勢を誇っていました。彼らは律法、これはモーセが神様から与えられた10の戒め、十戒が元になっているのですが、社会の複雑化に伴って、様々な細かい決め事を作って行ったのです。元来彼らは神様の与えられた「幸せの法則」です。この律法に忠実であろうとしたのですが、次第に自分たちの権威を保つことへと変質して行ったのです。一例をあげれば、安息日には仕事を休んで神様を礼拝しなさい。この命令は間違いなく「幸せの法則」です。週に一回、心を神様に向けることで、自己中心になって他人を押しのけるのではなく、神様の恵みに感謝して隣びとを愛する幸せな人生を歩ませることが神様のお考えでした。自己中心の生き方は、いつの時代にあっても鼻つまみ者であり、そこに真の幸せはありません。しかし、彼らは安息日には仕事をしてはいけない。穴に落ちた動物を助けることも困っている人を助けることも、それは仕事なのだからしてはいけない。この様に神様のお考えを捻じ曲げたのです。こんなファリサイ派の人に対してイエス様はしばしば激しく怒られたのです。
キリスト教の神髄は良い行いを積むことで神様に認めていただくことにあるのではないのです。もちろん良い行いは大切ですが、それは与えてくださる大いなる恵み、大いなる愛に対しての感謝から自然に出てきてしまうものなのです。大切なのは真の人間として地上にやってきてくださった神様、主イエス・キリストとの愛の関係にあります。神様の方から、まず私たちを愛してくださったのであり、心を開いて自分の罪を認め、主の愛を素直に受け入れることにあるのです。
神様を忘れて勝手なことを始め、神様の愛から離れてしまう。これが聖書の言う「罪」です。そこに幸せはありません。ガラテヤの信徒への手紙5章19以下でパウロは次の様に言います。「悪徳表」と呼ばれています。 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。 この様なものが人を幸せにしないことは明らかです。しかし、私たちクリスチャンや、キリストへと招かれている者達、私を含めたここにいる全員ですね、残念ながらその誘惑に負けてしまう弱さを持っています。この後、美歌521番を賛美しますが、1節では罪からの解放を願い、3節ではイエスにとらえていただく幸せを願います。
それでは、イエス様の愛を知らずにいる人とクリスチャンではどこが違うのでしょうか? それは、罪に負けてしまった時に立ち返るところ、主の十字架を知っていることです。週ごとの礼拝、これは現代の安息日、日々の務めから離れて神様に心を向けて立ち返るための日、幸せな生き方を取り戻す日と言っても良いでしょう、日曜日です。その日曜日の礼拝こそが「罪」に気づき、神様の愛を思い起こし、十字架のもとに立ち返る絶好のチャンスであり恵みの時なのです。教会が2000年の間日曜日の礼拝を大切にしてきた理由がここにあるのです。 さて、パウロの言う「悪徳表」をお読みしました。彼はその反対、「善行表」を続けます。お読みしましょう。ガラテヤの信徒への手紙5章22節以下です。 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
私たちの罪が、神様の愛を忘れて自分の欲望の赴(おもむ)くままに振舞うことであるのに対して、キリストの愛の中を歩む人生において自然に出てきてしまうのがこれらの良い行いでした。 心の健康を表すバロメーターです。繰り返しになりますが、この良い行いを実践したから、神様との正しい関係、愛の関係を回復してくださるのではありません。キリストに従うことで正しい者と見なしてくださる。これが宗教改革者たちが強調した「信仰義認」の教理です。
私たちクリスチャンも「罪」を犯します。やっていることが言っていることに追いつかないことは起こります。それでも知っているのです。立ち返るところを知っているのです。喜んで迎え入れてくれる神様、あの「放蕩息子の譬え」が思い起こされます。
ファリサイ派の人が「先生、お弟子たちを叱ってください」 この様に叫んだのに対して、イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」   「主の名によって来られる方」:神様の独り子は真の人としてクリスマスの日に地上に誕生なさいました。 「王に祝福があるように。」:この世の王の務めは「民に食物を与える事」と「治安を維持すること」にあると言われます。悪魔が「空腹なら石をパンに変えてみろ」と誘惑したのに対して、『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』とお答えになった方は、み言葉と癒しを求めて集まった5000人の空腹を2匹の魚と5つのパンで満たされました。 「天には平和、いと高きところには栄光。」:真の平和をもたらす方です。昨今の国際情勢や国会の論戦、週刊誌の報道などを見ると、利益を求めるために嘘を嘘で塗り固めているとでもいうのでしょうか、あきれ果ててしまいます。皆が「真の神」に従うようになる以外に、真の平和、心の安らぎを見ることは出来ないと思わされます。その一方で、日本の多くの教会が高齢化と会員の減少に苦しんでいますが、教会の価値が下がっているのではありません。最高の幸せを知っているからです。私たちクリスチャンは最後には、終末の時には主イエスが悪を完全に滅ぼされることを知っています。ここに希望を託すことが出来ます。さらに神様の御許での永遠の命が約束されています。「天には平和、いと高きところには栄光。」 神様の御許にある平和と栄光に与る約束と希望とを教会は与えられているのです。ここにこそ諸先輩の信仰を受け継いで、山形六日町教会がこの山形の地に伝道する務めが与えられている、その根拠があるのです。
弟子たちの叫び「主の名によって来られる方、王に、 祝福があるように。天には平和、 いと高きところには栄光。」この叫びは真理です。弟子たちを黙らせれば石が代わって証言するほどの真理です。山形六日町教会が黙れば石が代わって証言するほどの真理です。
19章41節から44節には、エルサレムを見渡して「泣かれた。」とあります。なぜでしょうか? 退廃した文化に毒された大都市エルサレムです。実際40年ほど後の紀元70年にはローマ軍によって破壊されつくしてしまいました。その時神殿の一部だけが残ったのですが、それが今も存在する嘆きの壁です。退廃した都市文明の先にある滅亡を知って涙を流された。その通りです。5日後には十字架での死が待っているのに、後を託す弟子たちは、「一番偉いのは誰か」(ルカ22:24)とか「自分を大臣に取り立ててください」(マルコ10:37)などと言っているありさまです。主の悲しみはエルサレムの将来の姿と重なったことでしょう。そしてご自分の死が待っているエルサレムです。真の人として地上に来てくださった神、主イエスは、人の喜びも悲しみも苦しみを知るかたであり、私たちと共に喜び共に泣いてくださる方です。迫ってくる、ご自分の死への恐れもあったことでしょう。それほどまでに真の人であられたのです。
ファイリサイ派の人々は躓きました。もともとは、神様のご命令である十戒を始めとした律法に忠実であろうと努力した人たちです。「隣人を愛すること」において躓きました。主に従った弟子達。躓きました。ペトロは主を知らないと言い、弟子たちは十字架のもとから逃げてしまいました。イスラエルの人たち。つまずきました。主イエスの示された愛、本当の王が示された愛は、イスラエルがローマ帝国の支配から解放されるなどと言うレベルではなかったからです。私たちにも躓くことが起こり得ます。主イエス以外の事に目を奪われ心を向けるならば必ずや躓くでしょう。
私たちを誘惑する者、神様の愛から引き離すことを最大の喜びとする者、それが悪魔です。エルサレム入城からの日々、そこには主イエスと悪魔との戦いがありました。真の人として地上に来られ、神の国を延べ伝え、人々に罪を悔い改めて神様に立ち返ることを求められた主イエス。悪魔の最も忌み嫌う人間です。
その悪魔は賢くも人間の持つ欲、地位や権勢を保つ欲を刺激して人類史上最大の犯罪を実行させたのです。かれは主の十字架の晩、自分の知恵と行いのすばらしさを誉め、美酒に酔いしれたことでしょう。
この悪魔は残念ながら現代においても元気に活躍しています。私たちを主イエスの愛から引き離すことを最大の喜びとして元気に活躍しています。
先ほども述べましたが、彼が最終的に滅ぼされ、すべての悪が滅ぼされるには主イエスが再び地上に来られる終末の時を待たねばなりません。しかし、私たちは知っているのです。悪魔が美酒に酔いしれたのは40時間ほどだったことを。主イエスの復活の出来事です。主イエスが死に勝利なさり悪魔の策略は破られました。私たちの罪を負い清算してくださった十字架の出来事と、死の恐怖を打ち破られた復活の出来事は告げるのです。勝利者、主イエス・キリストを見上げ、従って生きる人生は、悪魔の誘惑を恐れる必要はない人生であり、だれも経験したことのない「死」を恐れる必要のない人生が約束されているのです。なぜなら、主イエス・キリストがすでに勝利されたからです。
主イエス・キリストはろばに乗ってエルサレムに入城され、弟子たちは 「主の名によって来られる方、王に、 祝福があるように。天には平和、 いと高きところには栄光。」と叫びました。私たちはこの叫びが全き真実であることを知っています。このレントの日々、十字架の主を知る豊かさの中を歩んでまいりましょう。祈ります。