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山形六日町教会

2021年3月7日

聖書:ヨシュア記2章1~7節 ヘブライ人への手紙11章30~31節
「信仰によって」波多野保夫牧師

説教シリーズ「気概を示す」第23回となりました。この説教シリーズは毎回聖書に登場する女性の示した気概、すなわち深い信仰を見ることで、私たち信仰者、すなわちキリストに従う者としての歩みに示唆を得てきました。もちろん、主イエス・キリストが十字架の死によって私たちの罪を負ってくださった、その大いなる出来事によって、神様は私たちを罪のない者と見なしてくださる。この大いなる福音の出来事を旧約聖書の時代の人々は知ることがありませんでした。それにもかかわらず、エステルやルツなどは、神様への信仰をその行動によって示しました。
しかし、前回22回は例外的に男性のモーセを取り上げました。お話ししたことを振り返ってみたいと思います。注目したのは彼の最晩年。イスラエルの民が荒れ野で水が欲しいと求めたのに対して、神様はモーセに岩に向かって「水を出せ!」と命じる様におっしゃったのですが、彼は岩を杖でたたいて水を出したのです。その代償として、約束の地に入ることが許されずに遥かピスガの山からカナンの地をはるかに望み、そこで死を迎えたのです。モーセは神様の恵みをすぐに忘れてしまう、どうしようもないイスラエルの民を40年間にわたって導いたのですが、約束の地カナンに入ることは許されませんでした。カナンの地は涙で霞(かす)んでいたことでしょう。「神様はなんて冷酷な方なのだろう。」こんな思いが湧いてきます。確かに、聖なる神様はご命令を守ることを厳しく求められる方です。私たちに与えられているご命令を一言で言えば「神と、自分と、隣人を愛すること」です。ここから外れたところに真の幸福はありません。ですから神様は守ることを厳しく求められます。
私は「ところで皆さんは『神と、自分と、隣人を愛する』生活から外れることはないのでしょうか?」と問い、「自分中心になってしまったことを思い出すだけで私はアウトです。」と申しました。モーセの例からして、私を厳しく罰して当然なのに、神様はその罰を主イエス・キリストに負わせられました。そしてその主に従う者を大いなる愛の中においてくださっています。
主の十字架での苦しみは磔(はりつけ)と言う肉体的な苦しみにとどまりません。「なぜ、罪を犯した事のない私が、罪びとのために神様の罰を受けなければならないのか?」この苦しみをも乗越えて、私たちを愛し続けてくださった主イエスの十字架の出来事を懺悔と感謝を覚えつつレントの時を過ごしています。
さて、それでは、神様がモーセに示されたあの厳しさは何なのでしょうか?次の様に理解しました。もしも、彼がイスラエルの民を率いて約束の地、カナンに入ったとしたらどうでしょうか? 彼は何者にも勝った民族の英雄であり救い主となり、守護神に祭り上げられるでしょう。信仰の対象にすらなるでしょう。これは偶像です。偶像、神ならぬものに頼る性質をイスラエルの民も、残念ながら私たちも持っているのです。神様はすべてをご存知の上で、モーセを偶像に祭り上げられてしまう不幸から救い出されたのではないでしょうか。34:4 主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」5 主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。(申命記)旧約聖書の語る時代にあっても、新約聖書の語る時代にあっても、そして現代においても、神様の愛は私たちの思いをはるかに超えて深く大きいのです。

  さて、本日与えられましたヨシュア記は、1章でモーセ亡き後イスラエルの民を約束の地、カナンへと導くリーダーにヨシュアが立てられたことを伝えます。モーセが約束の地を一望にしたピスガの山はヨルダン川の東側に位置しており、そこはほとんど人の住んでいない荒れ野でした。ヨシュアはヨルダン川を渡って約束の地カナンに入っていくのに先立って、二人の斥候(せっこう)、これは情報を探る偵察隊とかスパイですが、エリコの町に送りました。
この様子を2章が伝えています。2章1節 ヌンの子ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった。歴史家によれば、紀元前1200年頃のパレスチナでは、ラハブの家は今のビジネスホテルの様な役目も担っており、交易のために砂漠や荒れ野を旅する隊商たちが泊まったそうです。ですから、城壁で囲まれたエリコの町に入り込んだ二人のスパイにとって、隊商や旅人に紛れることが出来、しかも多くの情報を得るために、ラハブの家は最適の場所だったのです。
ところが、エリコの王にスパイの侵入を告げる者があり、王は直ちにスパイがラハブの家に行くに違いないと思い家来を遣わしました。3節から5節。 王は人を遣わしてラハブに命じた。「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ。」 女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人たちがどこから来たのか知りませんでした。日が暮れて城門が閉まるころ、その人たちは出て行きましたが、どこへ行ったのか分かりません。急いで追いかけたら、あるいは追いつけるかもしれません。」 ちょっと変なことが起きています。ラハブはエリコの町に住むれっきとしたカナン人です。それが、カナンの地を征服しようとしているヨシュアが送ったスパイ達をかくまったのです。しかも、二人に脅されたわけでも、金銭で買収されたのでもありません。そうではなく、王の家来たちに自ら嘘を言って、その嘘が知れた時にはおそらく死刑にされるのでしょうが、その危険を冒してまで彼らをかくまったのです。なぜでしょうか?
この理由を知るために紀元前1100年前後のカナンの状況をお話ししましょう。レビ記18章には「いとうべき性関係」との小見出しがつけられ3節4節には「あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない。 わたしの法を行い、わたしの掟を守り、それに従って歩みなさい。わたしはあなたたちの神、主である。」 この様にあります。実は「現代と違って」と申し上げたいのですが、昨今の報道によれば残念ながら「現代と同じように」と言うのが正確な表現の様です。後ほどお読みになってください。
さらに、申命記12章29から31節には「あなたが行って追い払おうとしている国々の民を、あなたの神、主が絶やされ、あなたがその領土を得て、そこに住むようになるならば、注意して、彼らがあなたの前から滅ぼされた後、彼らに従って罠に陥らないようにしなさい。すなわち、「これらの国々の民はどのように神々に仕えていたのだろう。わたしも同じようにしよう」と言って、彼らの神々を尋ね求めることのないようにしなさい。あなたの神、主に対しては彼らと同じことをしてはならない。彼らは主がいとわれ、憎まれるあらゆることを神々に行い、その息子、娘さえも火に投じて神々にささげたのである。」 子供を神々へのいけにえとしてささげていたのです。これも「現代と違って」と言いたいのですが、悲惨な虐待の報道に接しますと、そうは言えなくなります。自分がパチンコに興じるために車内に子供を置き去りにしたり、あるいはうまくいかない腹いせに子供を折檻したり。皆が神様に従って生きるしか解決策はありませんし、その為に私たちの信仰は用いられるべきなのです。
さて、これは聖書リレー通読で感じる疑問なのですが、戦いの場面がたくさん出てきます。そして「敵を皆殺しにしろ」との神様の言葉が記されており、主イエス・キリストの十字架での死をもってしてまで私たちを愛してくださる神様にふさわしくない様に思われることです。
その趣旨は、旧約聖書の世界は神様がアブラハムの子孫、すなわちイスラエルを選んで、神様に従うことで幸せに生きる、そういった民に育てようとした世界です。ですから他の民族から、子供をいけにえに捧げるとか、いとうべき性的乱れが伝染して、イスラエルの人々が罪に陥ることを防ぐ意図があったことは明白です。申命記7章16節がそのことを伝えています。 あなたの神、主があなたに渡される諸国の民をことごとく滅ぼし、彼らに憐れみをかけてはならない。彼らの神に仕えてはならない。それはあなたを捕らえる罠となる。
実は、その手段が「皆殺し」であったのかは疑問が残るのです。確かに、同じ申命記7章2節には あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。この様にあります。再び私たちが疑問を抱く皆殺しの命令です。しかし、それに続いて 彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。3 彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。
いかがでしょうか。皆殺しにしたはずの者と協定を結んだり、皆殺しにしたはずのカナン人と子供たちが結婚することなど、そもそもあり得ません。古代において敵を滅ぼしその財産を奪い取ることや奴隷として売ってしまうことは当然のことでした。そんな中で「皆殺しにしろ」と言うのは常識に合いません。ですから、カナン人の退廃した文化でありバアル信仰を拒絶しなさい、そんなものはあなたを決して幸せにしないので心を奪われてはならない。この禁止命令をハッキリするための誇張表現なのではないかと私は思うのです。確かに続く4節5節は次の様に言っています。 4 あなたの息子を引き離してわたしに背かせ、彼らはついに他の神々に仕えるようになり、主の怒りがあなたたちに対して燃え、主はあなたを速やかに滅ぼされるからである。5 あなたのなすべきことは、彼らの祭壇を倒し、石柱を砕き、アシェラの像を粉々にし、偶像を火で焼き払うことである。いつも申し上げます。現代における偶像とは、アシェラ像だけではありません。お金や地位や名声、欲望、自尊心その様なものが主イエスの愛以上に私たちの心を占めるのであれば、それは偶像です。火で焼き払う必要があります。

ヨシュア記2章に戻りましょう。ラハブはなぜ命の危険を冒してまで、エリコの王を裏切りヨシュアが遣わしたスパイをかくまったのでしょうか? 問題にしたのはこの疑問でした。その答えは2章10節のラハブの言葉にあります。 あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。
彼女はイスラエルの人々がモーセに導かれた40年間に及ぶ出エジプトの旅での出来事を良く知っていたのです。遊女ラハブの家には荒れ野を旅して交易をおこなっていた隊商たちが宿泊しました。隊商たちが旅の途中で見聞きした出エジプトの出来事を伝えていたのです。
ラハブは続けます。2:11 それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。彼女はエリコの人たちが礼拝する神々が退廃をもたらし、子供たちのいけにえを求めるのに対して、真の神、天地の創り主、主イエス・キリストの父なる神がどの様な方であり、真の神であることを隊商たちが伝えた出来事を通して知っていたのです。 真の神を知る者が、王の使者にうそをつき命の危険を冒してまでイスラエルのスパイを助けた出来事をヨシュア記2章は伝えているのです。
彼女のうその言葉に従って2:7 追っ手は二人を求めてヨルダン川に通じる道を渡し場まで行った。城門は、追っ手が出て行くとすぐに閉じられたのです。 2:6 彼女は二人を屋上に連れて行き、そこに積んであった亜麻の束の中に隠していたのです。二人のスパイの命は彼女の手の中に完全に置かれていたのです。正確に言えば、二人の命は彼女の信仰の確かさにかかっていたのです。 ラハブの機転によって危機を脱した二人のスパイはヨシュアのもとに帰り、2:24 「主は、あの土地をことごとく、我々の手に渡されました。土地の住民は皆、我々のことでおじけづいています。」この様に報告しました。
ヨシュアに率いられたイスラエルの民はヨルダン川を渡ってカナンの地に入りました。ヨシュア記6章は城壁で囲まれたエリコを攻撃する様子が描かれています。6:16ヨシュアは民に命じた。「鬨(とき)の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。17 町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ。ただし、遊女ラハブおよび彼女と一緒に家の中にいる者は皆、生かしておきなさい。我々が遣わした使いをかくまってくれたからである。」 ヨシュアも「滅ぼしつくせ」と言っていますが、先ほど「皆殺し」についてみてきました。同じように理解して良いでしょう。ラハブ一家は助けられました。信仰による救いです。
新約聖書はラハブについて3か所で触れています。最初に司式の市川長老に読んでいただいた、ヘブライ人への手紙11章31節。 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。そしてヤコブの手紙2章25節26節です。25 娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
さらにマタイによる福音書にあるイエス・キリストに至る系図です。1章5節6節。5 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、6 エッサイはダビデ王をもうけた。あのルツ記においてルツはナオミの親戚にあたるボアズと結婚し、そのひ孫がダビデ王でした。ラハブはボアズの母だったのです。
私たちが信仰を与えられる切掛けは様々です。ラハブは自分たちの国が堕落しきっている現実を目にしているときに、荒れ野を旅する隊商が伝えた真の神の力ある働きを知って信仰を持ちました。そしてその信仰をヨシュアの遣わしたスパイを助ける命がけの行いで示しました。 キリストに至る系図に名を連ねたラハブは遊女でした。キリストの教えを各地に伝えたパウロはクリスチャンを牢屋へと送る人でした。
今私たちは2021年のレントの時を過ごしています。主イエス・キリストの十字架の出来事を思い、罪を悔い改めるとともに主の変わることのない愛を感謝を持って受け止める時です。神様はその人がどんな過去を持っているかを問うことはなさいません。主イエス・キリストを救い主として受け入れる者を喜んで受け入れてくださいます。私たち全員は主によって招かれているのです。ラハブが示した気概、すなわち彼女の信仰を通して、主の大いなる愛を覚えたいと思います。祈りましょう。