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山形六日町教会

2020年12月6日

聖書:イザヤ書60章1~5節 ヨハネによる福音書2章1~12節
「イエスの母マリア」波多野保夫牧師

アドベント第2週になりました。クリスマス・クランツに2本のロウソクがともり、明るさを増しています。12月に入ってのあわただしさと共に、心が浮き立ってくるように感じられます。今年は、クリスマス愛餐会やキャンドルサービス、あるいは教会学校の祝会などを例年の様に行うことは出来ませんが、救い主がこの世に来てくださった、その喜びを新たにしたいと思います。
先週の礼拝では、「既に」と「未だ」と言うお話をしました。クリスマスは既におこったことです。救い主が与えられるという預言者を通して伝えられた神様の約束は既に果たされています。しかしなお、私たちはクリスマスを待ち望んでいます。少年時代の私にとって、それはクリスマス・プレゼントが大きな割合を占めていたことをお話ししました。でも、現在ではその割合はうんと小さくなりました。もちろんゼロではないのですが、小さくなりました。それは、「未だ」すなわちまだ実現していない神様の約束を待ち望む割合がうんと増えたからです。主イエスが再び地上へと来てくださる。そして、裁きを行い、この世の中に満ちている悪、あるいは悪魔を全て滅ぼしてくださる。その終末の到来を望みつつ待つことが出来るからです。クリスチャンにとって、終末は全てが死に絶える暗黒の時ではありません。全てが主の栄光に覆われる輝きの時です。神様のご計画によって2000年前に既に起こった1回目の独り子、主イエス・キリストの到来の出来事を私たちは聖書の証言によって知っています。そして私たちは、2020年のクリスマスの時に、主が再び来てくださる時、終末の時への希望を新たにするのです。

さて、説教シリーズ「気概を示す」の19回目、本日のヒロインは主イエスの母、マリアです。しかし先程司式の山口長老が読んでくださったのは、主イエスが行われた最初の奇跡、カナの婚礼の場面でした。山口長老が聖書箇所を間違えたわけではありません。安心してください。本日は聖書が伝えます、母マリアの信仰を見て行きたいと思うのです。もちろん彼女の物語は、例年こどもたちが演じてくれますクリスマス・ページェントのいわゆる受胎告知の場面から始まります。ルカ福音書1章26節以下です。1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。37 神にできないことは何一つない。」38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
マリアの驚き、困惑、そしてそれを乗り越えた彼女の信仰がはっきりと記されています。さらにここから「信仰とは何か」を読み取ることが出来ます。それは、思ってもみなかった神様のご計画、もしくはお考えが示された時、それを受け入れることです。私たちの人生にはそれぞれに大きな曲がり角が存在します。嬉しいこと、うまくいったことだけではありません。つらく悲しいこと、残念なこともあるでしょう。そんな出来事を通して、あるいは静かな祈りの中で、夢の中でということもあるでしょう。神様を信頼して祈りながら従う。これが信仰ではではないでしょうか。皆さんも神様のみ心が示された経験をお持ちのことと思います。
だだし、「勘違い、思い違い」と言うこともあり得ますが、その判断基準ははっきりしています。聖書が告げる主のみ言葉です。そして、信仰の友や牧師と一緒に祈ること。「勘違いや思い違い」を避けるのに極めて有効です。ヘブルライ人への手紙11章には次の様にあります。11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
確かにマリアは信仰によって常識を超えた神様のお考えを受け入れたのです。マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」結婚前の女性が子供を産む。当時のユダヤでは石打の刑によって殺される可能性がありました。彼女はなぜ受け入れることが出来たのでしょうか。それは、神様に従う家庭の中で育ち、祈りを欠かすことがなかったからでしょう。ですから、天使ガブリエルを神様の使いだと知って、その言葉を受け入れることが出来たのです。
私たちです。神様に従う家庭の中で育った方は、特に日本のような異教の国では少ないでしょう。ですからその役目は教会が担っています。特に教会の礼拝であり、そこで語られる信仰告白に基づいた聖書の解き明かしの言葉、説教は、神様のみ心をマリアに伝えたガブリエルの言葉に相当するのです。
ヘブライ人の手紙の著者は、旧約聖書が語り伝える多くの人たちの信仰を語った後、次の様に述べます。ヘブライ人の手紙11章39,40節です。11:39 ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。40 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。
旧約聖書の時代に生きた人たちが待ち望みつつも手に入れることができなかったもの。今私たちは神様の完全なご計画を知っています。それが神様の独り子の誕生であり、私たちの罪を負っての十字架での死であり、終末における私たちの復活、その先駆けとしての主イエスの復活なのです。
天地創造から、終末、すなわち神の国の完成の時に至るまで、神様は人間の歴史に関わってくださいます。その長い長い救いの歴史の一コマにおいて、大切な役割を果たしたのが、おとめマリアすなわち、主イエスの母マリアであり、また今日ここで礼拝をささげている私たちなのです。アドベント第2週にあっての説教シリーズ「気概を示す」の19回目でマリアを取り上げた次第です。実はこのヨハネによる福音書に主イエスの母マリアの名前は出てきません。「イエスの母」と2か所にあるだけです。このカナの婚礼の場面と、19章で主が十字架の上から愛する弟子に、傍にたたずむ母を託す場面だけです。
ヨハネ福音書はその冒頭に 1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。この様に述べ、神様の御心、私たちを愛して止まないお考えを言葉と奇跡で大胆に表す主イエス・キリストを宣言します。主イエスが神であることに焦点を当てているのです。
これに対して、医者のルカが主イエスの時代とその後の教会の発展を調べ記したルカ福音書と使徒言行録は、主イエスが実際に人として地上に来られたことと教会の発展に焦点を当てます。ですから主イエスとその周辺の者たちとのかかわりに強い関心を示すのです。
そこでまずルカの語るマリア像から始めて、ヨハネの伝えるカナの婚礼の場面に戻りたいと思います。既に、ルカ福音書の受胎告知の場面によって「マリアの信仰」を見ました。ページェントで演じられる場面が続きます。2章4節以下です。2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。羊飼いたちの礼拝です。2章17節から19節 2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
マリアは何を「心に納めて思い巡らした」のでしょうか?22節以下は幼子を連れての宮もうでです。シメオンの賛美に対して、33節。2:33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。2章41節以下は、過越し祭の折に、少年イエスが両親と共にエルサレム神殿に出かけた時のことです。帰り道、イエスがいないことに気付いた両親が神殿に引き返すと、そこには神学者と語り合う姿がありました。2章48節以下です。 2:48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。育ち盛りの少年のチョット生意気な言葉に聞こえます。
マリアは唯一の神を信じる家庭で育ったので、天使ガブリエルの言葉を受け入れることが出来たのですが、羊飼いたちがやって来た出来事をすべて心に納めて、思い巡らし、宮もうでの際のシメオンの言葉に驚き、神殿に行った帰りにはぐれてしまった出来事をすべて心に納めていた。のです。主イエスを宿した時に始まって少年期に至るまで、要するにマリアには自分たちの長男イエスが神様から託された大切な子供だとは思うものの、良く分からなかったのです。
だいぶ時を過ごしました。ヨハネ福音書に戻りましょう。1章29節以下です。30歳(ルカ3:23)になった主イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けたのち、ペトロとアンデレ、フィリポとナタナエルを弟子にしました。エルサレム神殿の帰りに、両親とはぐれてしまった出来事から15年以上の月日が経っていました。その間、ガリラヤ地方の信仰深い家族の一員として過ごされたのです。ある日カナと言う村での婚礼に弟子たちと共に参加された時のことです。
披露宴は村人総出で何日にも渡って続けられますが、パレスチナでは盛大な祝宴の場で食事やぶどう酒が足りなくなることは許されません。花婿や花嫁の家族が大恥をかくことになります。3節 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 この事態に心優しいマリアは何とかしてあげなければと考えました。そんな時に頼りになるのは長男イエスです。しかし、その答えは 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」でした。
少年時代、過越し祭ではぐれてしまった時の言葉 「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 生意気な少年イエスと言った感じがします。しかし、内容は正に真理の言葉です。「わたしの時はまだ来ていません。」 私たちはこの言葉が十字架と復活の時を指していると理解します。
では、自分の母親に向かって「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。」こちらはどうでしょうか? これも、内容的には主が全ての人を愛し、全ての人の罪を負って十字架の道を歩まれたことを前提として見れば、真理の言葉でしょう。その愛は血肉関係を越えているのです。
注目したいのはマリアの反応です。彼女はこの言葉を素直に受け入れて召使に言うのです。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」ここには「心に納めておく」ことも、「思い巡らす」ことも、「言われたことに驚く」ことも、「イエスの言葉の意味が分からなかった」と言うこともありません。エルサレム神殿に行った時までに示した反応とは全く違っています。この時マリアは長男イエスがこの困難な状況をなんとか解決できることを信じていました。信頼していました。
ヨハネは語ります。2章12節。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。 水を極上のぶどう酒に変えたこの最初の奇跡をマリアは素直に受け入れることが出来たのです。なにが彼女にこのような変化、主イエスを神の独り子・救い主として深く信頼する変化をもたらしたのでしょうか? その答えは主イエスと共に暮らした事以外に考えられません。
マリアに起こったことを私たちになぞらえてみましょう。私たちは主イエスを宿すことは有りません。逆に主が送ってくださった聖霊によって私たちが新しく生まれるのです。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3) そしてその聖霊が私たちの内に宿ってくださるのです。主イエスと共に過ごすマリアの人生。これは正に私たちの人生です。もちろん同じ家に住んではいませんが、主の家、即ち教会に週ごとに集い礼拝をささげています。私たちの信仰は礼拝によって養われます。
先ほどたどりましたルカ福音書で、次に彼女が登場するのは23章44節以下です。「イエスの死」と言う小見出しが付けられています。49節 23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。婦人たちの中に母マリアがいたことはヨハネ福音書が伝えていました。
ルカ福音書24章。墓に行った婦人たちにみ使いは主の復活を告げました。8節以下です。24:8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。実はここに主イエスの母マリアの名はありません。我が子の十字架での死を目の当たりにしたマリアです。3日目の朝、起き上がることが出来なかったのでしょう。痛々しさが伝わってきます。
次にマリアが登場するのは、使徒言行録1章14節です。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。そこには復活の主にお会いしたマリアが喜びの内に弟子たちと祈りを合わせる姿があります。ペンテコステの日に聖霊を受けて教会が誕生するための準備が進んでいたのです。
マリアの目を通して主イエスの生涯を見て来ました。それは、主と共に多くの時を過ごした彼女の信仰の成長の物語であり、最愛の息子の十字架での死をも乗越える信仰に至る物語です。そして、何よりも主の愛の内に生かされた物語です。プロテスタント教会はマリア崇拝をしません。なぜならマリアと同じ愛と信仰の養いが聖霊によって私たちに注がれているからです。私たちは、主イエスと共に過ごす礼拝を中心とした生活によって、マリアと同じ様に、主の愛の内を歩む信仰が強められるのです。心の中に主をお迎えするアドベントの時でありたいと思います。祈りましょう。