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山形六日町教会

2020年10月4日

聖書:イザヤ書43章16~20節 コリントの信徒への手紙Ⅰ14章1~5節
「預言と異言」波多野保夫牧師

夏の間お休みして来ましたが説教シリーズ「祈るときには」の20回です。およそ1年前のシリーズ第一回はマタイによる福音書6章7節以下から「主の祈り」に関してのみ言葉を聴きました。再開にあたって、振返ってみたいと思います。ある教会の長老さんが「主の祈り」の我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。この部分に来ると黙ってしまうと言うことをお話ししました。誠実な方なので、我らがゆるすごとくと、出来もしないしやってもいないことを祈れないと言うわけです。しかし、主はできないことをご存知に上で 我らがゆるすごとく と祈るように求められるのです。その際に一つの寸劇をご紹介しました。「主の祈り」を祈る一人の男と神様の会話です。
【 神様: 「主の祈り」を祈ることは、ある意味で危険なことなのだ。祈った後、君は変わっているだろうし、その変わることこそが君の為に私が十字架に架かった理由なんだ。 いいかい、君が「天にまします我らの父よ」と私のことを呼んだから私はここに、こうしているんだよ。続きを祈りなさい。次のところが興味深い。さあ続けて。男: 我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。神様:例の田崎君の件はどうなんだ。男: 神様、田崎は私からお金をだまし取ったんです。神様:でも君は、我らがゆるすごとく、って祈ったじゃないか。その祈りはどうなんだ?男 :大した意味はありません。神様:そうか、正直なとこは良しとしよう。でも心の中で苦(にが)いものを感じているだろう。男 :仕返ししてやりたいんですけど、こう祈ると少し心が軽くなります。神様:君の心は軽くなるんじゃなくて、重くなるんじゃないかな? 仕返しは心を軽くしやしない。私がそれを変えてあげよう。男: 変えて下さるんですか? どうやって?神様:田崎君を赦しなさい、私が君達を赦したように。憎しみの原因は田崎君が抱える問題であって、君のじゃない。確かに君はお金を失ったが、心まで失う必要はない。心を私に向けなさい。男:それってとっても難しいことです。でも確かにやってみる価値はあります。神様ありがとうございます。本当にそうできると良いと思います。】
あれから一年、私たちは何回「主の祈り」を祈ったことでしょうか。今日も祈ります。「主の祈り」はあなたの心を軽くするのでしょうか? 重くするのでしょうか? それとも、何も影響を与えない祈りなのでしょうか?

説教シリーズ「祈るときには」では、まず主イエスが「祈りの人」であったことを覚える必要があります。ルカ福音書に沿って復習してみましょう。ルカ福音書3章21節 ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時です。21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
5章15節はガリラヤ地方で宣教を始められたころのことです。 15 しかし、イエスの評判はますますひろまって行き、おびただしい群衆が、教を聞いたり、病気をなおしてもらったりするために、集まってきた。16 しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた。6章12節 12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。13 朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。 12使徒を選ぶに際して神様のみ心を問われたのです。主イエスは「祈りの人」なのです。9章16節は5000人の給食です。 16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。大勢の人が主を慕ってやって来る。人気絶頂といった時期にあっても、主イエスは「祈りの人」なのです。9章18節 18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。ここでペトロの模範解答があります。 あなたは「神からのメシアです。」28節 28 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。
山上の変貌と呼ばれる聖書箇所ですが、やがて受けられる栄光の姿を弟子たちに示されました。それは祈りを伴ってのことだったのです。11章1節 1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 この一人の弟子が誰だかは分かりませんが素晴らしい働きをしてくれました。彼の求めに応じて「主の祈り」を教えてくださったからです。私たちには苦しみの中で祈りの言葉を失う、祈ることが出来ない。残念ながら、そんなことが起こり得ます。しかし「主の祈り」があるのです。もちろん「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」この言葉を欠くことは出来ません。どんな時にあっても揺らぐことのない祈りの言葉、それが「主の祈り」なのです。「祈りの人」主イエスの姿をルカ福音書によってもう少し追っていきましょう。
最後の晩餐の席で聖餐式を制定してくださいました。ルカ福音書22章です。17 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」イエス様が私たちの罪を負って十字架に架かって下さる前の晩の出来事です。聖霊の働きのもとに教会は2000年に渡って、主の愛を目に見える形でそこに見てきました。大勢の方が信仰をもって洗礼を受け、ご一緒に聖餐の恵みに与っていただきたいと思います。22章32節 その晩ペトロは恐れから鶏の鳴く前に3度主を知らないと言うことになるのですが、主はそのことをご存知の上であらかじめ祈って下さいました。わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
どうでしょうか、私たちの弱さを知っておられる主は、私たちが主を裏切る前から私たちの為に祈ってくださっているのです。「今も変わらずに」です。十字架上での主イエスです。23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。これこそが究極の祈りの言葉です。主イエスが「祈りの人」であり、神様との対話をどれほど大切になさったのを見てきました。天地を創造なさった父なる神様と、神様の愛を言葉と業で示してくださった主イエス・キリストは、その本質を一つとなさる方であるにもかかわらず、なおも主は「祈りの人」でした。どんな時でも神様に祈られました。だとしたら私たちが祈りを絶やすことはあり得ません。「主イエス・キリストのみ名によって」あるいは「主イエス・キリストを通して」。この様に祈る時、祈りは確実に神様に届き、そしてその答えが必ず与えられるのです。

さて、本日与えられましたコリントの信徒への手紙Ⅰ 14章1節以下です。「異言と預言」と言う小見出しが付けられていますが、本日の説教題は「預言と異言」としました。なぜなのかは、ひとまず置いて丁寧に読んで行きましょう。14章1節。 1 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。 パウロはこの様に語り始めます。これは「愛の賛歌」と呼ばれます13章。中でも直前の13節 13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。 この言葉を引き継いで 愛を追い求めなさい。 この様に語り始めるのです。14章2節です。2 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。 皆さんは異言を聞いたことがおありでしょうか。日本基督教団に属する教会では、あったとしても少数派です。私は経験がないので聖書の後ろに付いています「用語解説」を見ました。【一般の人には理解しにくい信仰表明の言葉。異言を語る能力は聖霊によって与えられ「霊的賜物」(カリスマ)の一つ。】とありますが、要するに意味不明の言葉の羅列だそうです。
パウロは紀元50年頃、現在のギリシャにありますコリントを訪れ教会を立ち上げたのですが、彼が去ると教会に様々な問題が起こり混乱しました。この手紙の冒頭で 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。(1章10節) この様に書き出しているのですから争いがあり思いが一つではなかったのです。問題の一つが「異言」すなわち恍惚状態で意味不明なことを語れば語るほど、聖霊が強く働いている、信仰が深い。こういった思い違いの主張をする人たちでした。パウロは異言を否定はしません。なぜなら2節 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っている。すなわち自分の思い、人から出た言葉を勝手に神様に語っているだけなので放って置きなさい。神様は心の底に至るまで全てをご存知なのだから、何を語り掛けても見抜かれ、本当にその人の為になることを、深い愛の業で答えてくださるのだから。パウロは「異言を多く語れるから自分に聖霊が強く働いている、自分は信仰深い、自分は人よりも多く神様に愛されている。」と言った思い上がりは否定しますが、私たちの常識を超える聖霊の働きは否定しません。「異言を語る者は霊によって神秘を語っている。彼は自分だけを造り上げる。 あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思う。」この様におおらかに構えたパウロですが 「恍惚状態で意味の分からないことを述べる人、それによって自分の信仰を誇る人など放っておきなさい。もっとズット大切なことが教会にはある。それは「預言」なのだ。」 彼は教会が真の主の教会であるために「預言」がいかに大切かを述べます。「預言」の預と言う字は預金の預と言う字ですから、あずかる、すなわち神様から預かった言葉、神様のお考えを語ることです。旧約聖書の世界では神様がこれからなさろうとすること、即ち未来のことを預言者たちを用いて語られました。最初に読んでいただいたイザヤ書は、「 見よ、新しいことをわたしは行う。」との宣言です。バビロン捕囚からの解放とともに、救い主イエス・キリストに至る神様のご計画を、預言者イザヤに語らせたものです。新約聖書の世界では、すでに主イエスの十字架と復活の出来事によって、神様の御心、過去も現在も未来も変わることなく私たちを愛して下さっていることがハッキリと示されていますから、「預言」は聖霊が豊かにわたしたちを生かしてくださることを告げる言葉と言って良いでしょう。自由に働かれる聖霊がなさることですからその伝え方は様々です。祈りの中で、人との関係によって、自然の美しさや神秘の姿によって、苦しみや困難を通してと言う場合もあります。そして何よりも、聖書を通して、さらに聖書の解き明かしである説教によって。聖餐のパンとぶどう酒も主の愛を語ります。礼拝全体がそうです。14章3節 3 預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。「人を育てて造り上げる、励まし、慰める。」優れた教師や先輩、あるいはコーチはこういった人たちでしょう。クリスチャンの間でも、また教会においても全くそうです。ですから、新約聖書の時代から今日に至るまで、「預言」すなわち神のお考えを、言葉であり、行動でもって表す人は、信仰者を造り上げます。徳を高めるとか信仰を深めることを助けます。「人を励ます。」欠点を直してあげるのではなく長所を伸ばしてあげるのです。「慰める。」寄り添って慰める。それが必要な時は誰にでもあります。信仰を深める際に人は罪と向かい合わなければなりません。それなしに主の愛を深く覚えることは難しいからです。自分の罪深さを知れば知るほど主の愛が迫ってきます。もし、自分の罪深さや醜さだけに目を向けるのであれば、底なしの沼に落ち込んでしまいます。ですから同時に主イエスの十字架を見上げることが欠かせません。礼拝の時が正にその時なのです。だから私たちは礼拝を大切にするのです。その時大いなる「慰め」が与えられます。それは聖霊が与えてくださる「慰め」です。「人を造り上げ、励まし、慰めます。」その根源は主・イエスにあります。聖霊の働きにあります。私たちは、その働きを真似して隣人を「造り上げ、励まし、慰める」のです。
ある教会に、一生懸命依存症に苦しむ人の為に働く人がいました。しかし、彼は批判を受ける様になりました。「あの人アル中になって人を傷付け、刑務所に入ったことがあるんですって。私たちの教会で働いているなんて良いのかしら。」 牧師は言いました。「確かに彼は誘惑に負けて穴に落ち過ちを犯しました。しかし、彼はそこで穴の底にいる苦しみを知ったのです。そしてイエス様が差し伸べて下さった手にすがったのです。だからもう穴に落ちることはありませんし、落ちそうな人の為に一番多く祈っているのです。」私たちは自分の罪の重さ、神様に逆らう者であることを知るほどに、十字架の愛を知るのです。そして言葉と体で「預言」をするのです。その預言は「人を造り上げ、励まし、慰める」為に主が用いてくださるのです。繰り返しましょう。現代における「預言をする者」とは、主イエス・キリストに従う喜びを語り、隣びとを愛する人のことです。もちろん牧者はそのために立てられています。さらに、皆さんはその為に教会へと導かれているのです。14章5節 によれば、「預言する者」すなわち主を愛し、自分と隣人を愛する者によって教会は作り上げられるのです。「私が「預言者」だなんてそんな大それたことなど滅相もない。」こう言いたくなるかも知れません。聖書に登場する人物を見て行きましょう。箱舟をつくったノアですが洪水の後、ぶどう酒を飲んで酔っ払い天幕の中で裸で寝てしまいました。(創世記9:20,21)アブラハムはエジプトのファラオの前で妻サライを妹と偽りました。(創12:10-20)ヤコブは兄エサウをだまして長子の特権を取り上げ、父イサクをだまして祝福を横取りしました。(創25, 27)モーセは同胞の為とは言えエジプト人を殺しましたし、弁が立つ男ではありませんでした。(出エジプト2:12, 4:10-17)モーセの後継者ヨシュアが敵地に送ったスパイを助けたラハブは遊女でした。(ヨシュア2:1-24)ギデオンは神様の言葉を疑って2度も証拠を求めました、(士師記6:36-40)ダビデ王はバテシバとの情事に溺れたばかりか彼女の夫を殺させました。(サムエル下11:1-27)エリヤはイスラエル王アハブの妻イゼベルに命を狙われ、恐怖のあまり「命を取ってください」と祈りました。ヨナはニネベに行けと言う神様の命令に逆らってタルシュシュ行きの船に乗りました。(ヨナ書1:1-3)新約聖書です。ペテロは3度主を知らないと言いました。(マタイ26:69-75)トマスは主の手の釘穴に指を入れるまで復活を信じないと言いました。(ヨハネ20:24-29)マルタとマリアの兄弟ラザロは一度墓に葬られた男です。(ヨハネ11:1-44)そしてパウロはクリスチャンを捕まえて殺そうと意気込んでいた男でした。神様はこの様な罪びとであり裏切り者を用いられます。身も心も一度死んだ者でさえ生かして用いられます。だとしたら私たちを用いてくださらないハズがありません。私たちは「預言」すなわち神様の愛と栄光とを語るのです。そして、私たちの「預言」は祈ること、神様との対話から出発します。さもないと自分勝手で誰にも通じない「異言」になってしまうでしょう。これが説教題を「預言と異言」の順にした理由であり、説教シリーズ「祈るときには」で取り上げたで理由です。私たちを愛し生かし用いてくださる主を宣べ伝える。そのことはまた聖霊の導きのもとに「主の教会を造り上げる」ことでもあるのです。楽しくなってきませんか? 祈りましょう