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山形六日町教会

2020年3月1日

聖書:詩編51編1~6節 ヨハネの手紙Ⅰ1章8~2章2節
「素直になる」波多野保夫牧師

ただいま、讃美歌297番では「栄えの主イエスの十字架をあおげば、 世の富、ほまれは 塵にぞひとしき。」このように賛美しました。
私たちは先週の水曜日に始まりました、レントの日々を歩んでいます。4月12日のイースターへの40日間は、十字架の主のみ苦しみを思い、そこに示された大いなる愛と恵みを感謝しつつ歩む者でありたいと思います。
5節で賛美しました。「ああ、主の恵みに 応うる道なし、わが身のすべてを、主の前に献ぐ。」 これが私たちの祈りでありたいと思います。

説教シリーズ「祈るときには」の12回です。先週はルカによる福音書5章12節以下からみ言葉を聞きました。重い皮膚病の男を癒され、大いなる御業を示されたことから、そのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。聖書はこの様に証言しています。
イエス様は、人々が神様に立ち返るように導くことを地上での使命と理解されていました。伝道を開始された際の最初の言葉です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)ですから、大勢の人が力ある業と力ある言葉を求めて集まって来たのは、伝道の絶好のチャンスでした。現代の日本において、伝道の厳しさが叫ばれて久しくなりますが、多くの教会がまず話を聞いてもらおう、教会に足を踏み入れてもらうために、音楽会や様々な催しを行っています。その努力がなかなか報われないで残念ですが、大勢の人が集まって来た時に主がなさったことは、人里離れた所に退いて祈ることだったのです。
「独りになって祈る」と言う説教題を掲げ、終わりに1分間の祈りの時間を設けました。みなさん、この一週間「独りになって祈る」時間を持つことが出来たでしょうか? 車の運転中は止めて欲しいですが、電車やバスの中は絶好の時間です。もちろん寝る前に祈る方もいらっしゃるでしょう。
イエス様に従う喜びを伝えたい方のために祈る、願い事を祈る、新コロナウィルスをめぐる事態が改善されるように、あるいはウィルスと戦っている方に知恵と力とを祈る。祈り始めると時間が瞬く間に経ってしまうのに驚かれたことでしょう。
祈りは神様との対話の時間です。心に移り行く様々なことをお話しするのもまた楽しいものです。苦しみの訴えであったとしても、聞いていてくださる方は、独り子を十字架に架けてまで私たちを愛していてくださる方なのです。
マタイによる福音書7章7節以下をお読みします。7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」神様が私たちを愛してくださっている。これだけは絶対に変わりません。

さて、本日与えられましたヨハネの手紙Ⅰ1章8節以下です。8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
「あなたは罪びとですか?」 このように問われたら何と答えるでしょうか? 洗礼を受けられている方、あるいは聖書に親しんでいる方の多くは「はい」と答えるでしょう。「私は罪びとの中で最たる者です。」(Ⅰテモテ1:15)パウロの言葉が頭をかすめます。それでは「あなたと、あなたの隣に座っている人とドッチが凄い罪びとでしょうか?」と問われたらどうでしょう? 
あなたが友達5人と一緒に海賊につかまって「今日は、一番罪の軽い一人だけ助けてやる。後は皆殺しだ!」と言われたらどうでしょうか? 延々とお互いの罪を指摘し合って、最後には殺し合いになって、生き残った一人が、「私が一番罪びとではありません!」と叫んだとしたら、これはおかしいですよね。
隣人と罪の重さを比較することは全く意味ありません。私たちは自分がどれほど神様に逆らう者であるのか、その自覚が問われています。神様と自分と隣びとを愛して、この一週間を過ごしたのかが問われています。
8節 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。この世の真理とは、主イエス・キリスト、その方の全体です。私たち罪びとのために、私たちを愛するが故に、十字架に架かってくださった、その方全体です。私が、「自分には罪がない」と言い張るのであれば、主イエスは必要ありませんし、キリストの愛もいらないことになります。「真理は私たちの内にありません。」このようにヨハネは述べるのです。
9節 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。自分の罪を公に言い表すとあります。もちろん、「私は罪びとです! おばあさんが、のろのろと横断歩道を渡ろうとしていたので、止まらないでサット走り抜けてしまいました。」こんなことを人前で言うことではありません。最もこれは、横断歩行者等妨害等違反となります。
「公に言い表す」とは、神様に申し上げる。礼拝や信仰の友との祈りの中で、あるいは独りになっての祈りの中で、神様の言いつけに逆らったことを申し上げ、わびるのです。「でも、波多野先生。神様は全てをご存知なんだから、そんなことわざわざ言わなくてもいいんじゃないですか? 私の罪はバレちゃってるんですから。」 大変に良い質問です。確かに神様は私が親切でなかったことも、自己中心であったこともご存知です。では、なぜわざわざ罪を「公に言い表す」ことを求められるのでしょうか?それは、私たちは自分の言葉にして話す時に、一番深く理解できるからです。グループ研究の発表会で、発表を担当する人は大変ですが、一番よく理解できるのは発表を引き受けた人ですね。
では、何を理解するのでしょうか? 神様がいかに私を愛して下っているのか、そしていかに私にとって神様の愛が必要なのかです。神様は私の罪を全て知ってらっしゃるにも関わらず、自分の言葉で言い表す様に求められるのです。そうすれば、私は絶対に犯した罪を反省します。神様に近づくことが出来ます。
だから、「公に言い表す」ことを神様は求められるのです。これは、大いなる愛に違いないのです。10節 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。8節と良く似ています。8節では「真理」と言い、10節では「神の言葉」と言われているのは、主イエス・キリストです。神学的にもう少し正確に言えば、今神様の右に座ってらっしゃる主が遣わしてくださった「聖霊」です。聖霊が私たちに宿ってくださるから、私たちは、「信仰と希望と愛」を持って主の愛の内にある人生を歩むことが出来るのです。
さて、どの様にして「罪を公に表す」のでしょうか? 私たちプロテスタント教会は、聖書にその根拠が認められる、洗礼と聖餐の二つだけをサクラメントとしました。サクラメントとは“目に見る事が出来る、神様の聖なる恵み”とでも言うのでしょうか、カトリック教会は伝統的に7つのサクラメントを守っています。プロテスタント教会の他に5つ持っていますが、その中に告解があります。自分の犯した罪を、司祭に告白して赦しを願うのです。罪の痛みを感じるように、「教会の周りの掃除をしなさい」とか「ヘブライ人への手紙を全部書き写しなさい」このような償いを与えることもあるそうです。
私の友人の話です。彼はカトリックの家庭で育ちました。家族で通っていた教会では告解をしないと聖餐に与ることが許されませんでした。私たちの伝統でも、罪の告白をしないで聖餐に与ることは無意味ですね。宗教改革者カルヴァンの牧会していた教会では、聖餐式の前の週に長老さんが会員宅を回って信仰の確認を求めたそうですし、本日の聖餐式においても、式辞とそれに続く祈りの中で、主の十字架が私たちの罪を贖う為であったことを述べ、「アーメン、その通りです。」と、祈りを合わせていただきます。カトリック教会ではそれを具体的な生活の中での罪に目を向けやすいようにしているのでしょう。友人にとって子供のころ、司祭に罪を告白することは恐怖を覚えることでした。なぜ怖かったかと言うと、悪い行いを本当に知られたら、絶対にしかりつけられると思っていたからです。彼は続けます。【私は一番悪いことは告白しませんでした。そして次の告解の時に「私は罪を犯しました、それは悪い行いを全部告白しなかったことです。」このように言ったのです。私が13歳になった時、母が暫らく入院したのを良いことに、告解をサボってしまいました。そしてわたしと弟は「罪が積り積もってしまうことを話し合い、いつか告解に言った時のために、罪をメモしておくことにしたのです。そうすれば赦してもらえると思ったわけです。」ある土曜日の夜のことでした。教会の告解室の前には、明日の聖餐式に備えて長い列ができていました。私の番が来た時、暗い告解室でメモを取り出して読み始めました。「僕は両親の言いつけに従いませんでした。妹の告げ口もしてしまいました。それから、兄さんのスケートボードを勝手に持ち出して・・・」そうです。これは弟のメモだったのです。司祭に大声で怒鳴られました。それ以来、告解には行かなくなったのです。司祭になるために神学校に入学するまでは。】
彼の数奇な人生。主イエスの導きに従った人生において、改革長老教会の長老から信徒伝道者になり、現在、神様の愛を届ける大きな慈善団体で責任の重い務めを負っています。彼は続けます。「今では、わたしは神様に罪を赦していただく仲介者として、司祭がいる必要はないと思っています。真の罪の告白は礼拝に集うことと、真剣な祈りをささげる事です。これを欠いて、精神的に健全な人生を送ることはとても難しいでしょう。」「神様に対して正直であること。」このことに尽きます。「神様に対して正直であること。正直になること。」みなさんはいかがでしょうか?
ダビデ王は長いイスラエルの歴史の中で一番優れた王とされています。さらに、マタイ福音書1章1節には、 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。とあります。そんなダビデはバテシバとの情事、さらにはバテシバの夫ウリヤを策略をもって戦死させ、彼女を妻に迎えました。この悪行の限りを聖書は隠すことなく告げます。それだけではありません、神様は聖なる独り子、主イエスをその家系に置かれたのです。なぜなのでしょうか? ダビデが正直になったからです。もちろん「自分の欲望に正直」ではありません。全てをご存知の神様の前で、正直に自分の罪を告白し、悔い、赦しを請うたのです。最初に読んでいただいた、詩編51編はその場面を伝えています。さらに週報に記した2つの詩を読みます。
詩編32編1~5節 1 【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。2 いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。3 わたしは黙し続けて 絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。4 御手は昼も夜もわたしの上に重く わたしの力は 夏の日照りにあって衰え果てました。5 わたしは罪をあなたに示し 咎を隠しませんでした。わたしは言いました 「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを 赦してくださいました。
詩編139編23~24節 23 神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。24 御覧ください わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを とこしえの道に導いてください。このように、ダビデは全てをご存知の神様の前で、正直に自分の罪を告白し、悔い、赦しを請うたのです。
ヨハネは言います。2章1節。 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
ダビデが活躍したのはキリストの誕生する1000年程前であり、3000年後の私たちとは全く状況が異なっています。科学技術の進歩は言うまでもないのですが、一番の違いは主イエス・キリストの十字架を知っているか、いないかです。
御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。ダビデは、十字架の主を知るすべも無かったのですが、私たちは知っています。2章2節 この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。全世界の罪とヨハネは言いますが、この感覚は2000年後の私たちの感覚と一致しているのではないでしょうか。悪魔の支配下にあるのではないかと思える現代です。今日はダビデの詩を多く引用していますから詩編14編を読みます。【指揮者によって。ダビデの詩。】神を知らぬ者は心に言う 「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。 2 主は天から人の子らを見渡し、探される 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。3 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
これが3000年間変わらない世界の姿でしょう。ただし一人の例外を除いてです。 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。神に背くことなく、汚れることなく清く、人のために最高の善を行う方。主イエス・キリストです。そして、私たちは数少ない、その主イエスを知る者です。私たちが正直になる。まず自分に正直になる。そうすれば神様に正直にならざるを得ません。
なぜなら自分に正直になれば神様の大いなる愛が絶対に見えてくるのです。神様が私たちに与えてくださっている絶好のチャンスがこのレントの時ではないでしょうか。
私たちは、自分の罪を見つめます。その時の反応は3つあります。自分の罪を無視する人。一番多い言訳は、「そんなことみんなやっている。」 自分を正当化します。次に主の愛をあらためて感じる人。十字架の主を見上げます。もっと大勢になって欲しいと思います。最後は、罪深さにどんどん落ち込んで出口を見失う人です。
パウロは明確な答えを与えてくれています。週報に記しました。ローマの信徒への手紙10章9~10節 9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
カトリック教会の司祭は罪を告白した人に、その痛みを感じるようにと償いを言い渡します。私たちプロテスタント教会には、告解の制度はありません。聖書に聞くのです。
最初にお読みしたマタイ福音7章11節 あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
ヤコブの手紙4章17節 人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。このレントの時、自分に素直になる事から始め、神様の前で素直な者でありたいと思います。祈りましょう。