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山形六日町教会

2020年1月12日

聖書:詩編107編1~3節 エフェソの信徒への手紙6章10~20節
「神の武具を身につけなさい」波多野保夫牧師

先ほど司会の山口長老に読んでいただいたエフェソの信徒への手紙6章10節以下には「悪と戦え」との小見出しが付けられています。4年に1度のオリンピックイヤーですが、新年早々中東情勢の不安定化が伝えられていますし、お隣の国との関係もギクシャクしたままです。さらにそのお隣の国がどんな手を打ってくるのか不気味さを感じさせられます。オリンピック後の経済不安も語られ、例年にない温暖な気候が続く一方で、重苦しさの感じられる年明けでもあります。気候変動も含めてまさに不確実性の時代を生きる私たちであり、またそんな時代の中で育っていく子供たちです。ぜひ強い信仰を持って欲しいと願っています。
確かに様々なこの世の悪が目に付きますが、聖書は私たちクリスチャンに「悪と戦う」ことを求めます。ではどの様に戦うのか、それが今日のテーマです。

6章10節 パウロは言います。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。有名な言葉に「天は自ら助くる者を助く」というのがあり、「他人に頼らないで、自分で難関を乗り越えようと努力する者を、神様は助けて下さる。」この様な意味なのでしょうか。これは聖書にある言葉に違いないと思われるかもしれませんが、まったくの誤解です。聖書の言葉ではありません。レイモンド・チャンドラーという作家の言葉です。「強くなければ生きられない。優しくなれなければ生きている価値がない。」 こちらはかなり聖書的ですが、「強くなければ生きられない」は強靭な肉体を意味するのではありません。
それではパウロが言う 主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。これは何を意味しているのでしょうか?詩編49編13,14節です。 人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。14 これが自分の力に頼る者の道 自分の口の言葉に満足する者の行く末。箴言28章26節 自分の心に依り頼む者は愚か者だ。知恵によって歩む人は救われる。箴言の語る知恵とは神様の偉大な御業を知って畏れ敬うことでした。聖書はまず神のみ心を聞くことから始め、神により頼む。そして指し示された道を努力して進む。これが難問解決の道であり、幸せな人生を歩むコツだと語るのです。

本日は、説教シリーズ「祈るときには」の8回目ですが、私たちがより頼むべきは自分自身ではなく、イエス・キリストの父、全能の神であり私たちを愛して止まないその方以外にはあり得ません。その時神様との対話、すなわち祈りを欠かすことができないのです。
11節12節 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。悪魔の策略あるいは、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊と言われています。
現代において「私に、悪魔や諸霊がとりついて・・・」などと言えば、恐らく警戒されるでしょう。
しかし、聖書には悪魔や悪霊、あるいはサタンやベリアルなどが登場しますし、エバをだました蛇、ヨハネ黙示録には竜や獣も登場します。それぞれの区別は良く分かりませんが、共通点があります。それは人が神様から離れることを最上の喜びとし、その為にどんなことでもすることです。
マタイ福音書4章です。週報に記しました。バプテスマのヨハネから洗礼を受けられたイエス様を悪魔は荒れ野に誘い40日間誘惑した後のことです。4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 と書いてある。」5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、 あなたの足が石に打ち当たることのないように、 天使たちは手であなたを支える』 と書いてある。」7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、 ただ主に仕えよ』 と書いてある。」11 そこで、悪魔は離れ去った。空腹時の食べ物と言う欲望、自分が神の子だと知らしめる名誉欲、世界の支配者になるという権勢欲。このような人間が持つ欲望をついてきました。
ここで注目しておきたいことが三つあります。一つは、主イエスが完全に悪魔の誘惑を退けたこと、勝利したことです。二つ目は、主イエスが用いられた武器は聖書のみ言葉でした。そして、三つ目は悪魔も聖書の言葉を使うことです。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、 あなたの足が石に打ち当たることのないように、 天使たちは手であなたを支える』 と書いてある。」実はここに礼拝に出席し説教を聞く必要性があるのです。説教は信仰告白に基づいて解釈されたみ言葉の解き明かしです。ですから私は長老会で言っています。「もし牧師が信仰告白から外れた説教をしたら、例えば三位一体の神を否定したり、あるいは主の復活はなかったと言った様な説教です。その時は牧師をやめさせなきゃダメです。長老会にはその責任があるんです。」4章11節の後半。神の武具を身に着けなさい。科学技術の発達した現代に生きる私たちですが、人生の旅路において、神様の愛から離れる、離れたくなることはあるでしょう。自分の利益を優先したくなることもあるでしょう。これが悪魔の誘いです。聖書を読まなくなる、祈らなくなる、礼拝から離れる、この様な事が目に見える現象ですが、それだけではありません。自分の行動を自分の心の赴くままに決めていく、自己絶対化と言う内面的変化が起こります。全てが悪魔の策略に負けた結果です。国際テロ集団や国家間の争いも、悪魔が喜びそうです。ですから、「この科学技術の発達した時代に、悪魔なんて言ったら笑われちゃう。」本当にそうでしょうか? 悪魔を無視するのであれば、悪魔が笑っているのではないでしょうか。
13節 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。神の武具を身につけなさい。11節の言葉が繰り返されます。
それでは神の武具とはなんでしょうか。パウロは語ります。真理を帯、正義を胸当て、福音を履物とし、さらに、信仰を盾として取り、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。完全武装です。
少年ダビデが巨人ゴリアトに立ち向かった時、サウル王が与えた鎧や兜や刀をことわって、石投げ紐だけで立ち向かって行った、あの姿とえらい違いです。この理由は私が、素手でライオンやクマから羊を守ったダビデよりも、ひ弱なことはもちろんですが、悪魔が巨人ゴリアトよりもはるかに強いのです。なぜなら悪魔は人の外面だけでなく内面、すなわち心も攻めて来るからです。そんな強敵に立ち向かう時にどうするのでしょうか? まず知るべきことは相手の目的です。「敵を知り己を知らば百戦あやうからず」です。
先ほど「悪魔は人が神様から離れることを最上の喜びとしており、その為にどんなことでもするのだ。」と申しました。悪魔に対抗して、私たちが神様にくっついちゃう、すなわち神様と共に歩む、これが最高の戦略です。この時、悪魔は手も足も出せません。
しかし、ここで勘違いしてはいけないことがあります。確かに悪魔の存在は現代に於いても否定できません。しかし、世の中の諸悪は全て悪魔の仕業なのだから、自分の内面の問題ではなく外側の問題なのだ。神様どうぞ悪魔をやっつけてください。実はこれは違うのです。聖書はそんなことは語っていません。世の中にも、私の周辺にも、私の心の中にも存在する、神様の御心に沿わない出来事や振る舞いや思い。これを聖書は罪と呼びますが、罪の責任は悪魔の誘いに負けた世の中であり、私たちであり、私にあるのです。だからこそ私たちは邪悪な日に悪魔の働きかけに対して、十分に抵抗できるように、神の武具を身に着ける必要があるのです。
具体的な神の武具が挙げられていましたけれども、まず剣に注目しましょう。 週報に記しました。ヘブライ人への手紙4章12節。4:12 というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃(もろは)の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。
神の言葉は生きている。ヨハネ福音書は「初めに言があった、言は神と共にあった。言は神であった。」この様に語り始めます。主イエス・キリストです。ですから、剣とは主イエス・キリストを私たちに語り伝える聖書と考えられます。週報の裏のページ。テモテへの手紙Ⅱ3章16節 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。さらに、ヨハネによる福音書 5章39節 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
私たちの身に着けるべき武具、それはもちろん信仰です。主イエス・キリストの愛、それは私の罪を私に代わって、ご自分が十字架に架かることで負ってくださった愛です。その主をどんな時にあっても信じて従って行くのが信仰です。先週ご紹介した結婚式の時の誓約文になぞらえれば「健やかな時もその病む時も」「順調な時も、不都合な時も」変わることなく救い主を信頼すること。これが信仰です。
では、どの様にしてその様な信仰が養われるのでしょうか? 礼拝や祈りの大切さを述べましたが、絶対に欠かせないのが聖書に親しむことです。「でも、さっき悪魔も聖書を引用するのだから礼拝に出て説教を聞くことが大切だと聞きました。勝手に一人で聖書を読むことは、それと矛盾しないのですか?」大変良い質問ですが全く矛盾しません。悪魔も聖書を引用するとお話ししたのは、「聖書がそんなに素晴らしいのなら、自分でチャント読んでいれば、礼拝に出なくたってかまわないだろう。」こう言う誤解に対してです。説教は信仰告白に基づいてみ言葉の解釈が語られると言いました。祈りに答えて働かれる聖霊の下に準備し、そして語られる説教を、聖霊の働きの下に神の言葉として聞くのです。
1500年代、宗教改革の時代には3時間くらいの礼拝説教は珍しくなかったそうです。しかし、私たちは時間の制約の中で礼拝をささげますから、毎週豊かな聖書のほんの一部が取り上げられ語られます。ですから礼拝で身に着けた聖書の伝えるメッセージの捉え方を用いて、家で聖書を開き読むことは極めて大切なのです。
先週の説教では「元旦の計」あるいは「新年の計」として、聖書通読の提案をしました。「聖書通読」が大反響を呼んでいるかどうか定かではありませんが、今日もまた「聖書通読」のおすすめをしたいと思います。

ところで、皆さんは自宅でどのくらいの時間聖書を読んでいるでしょうか? 総務省が発表している「平成30年版 情報通信白書」というものがあり2017年の一日平均時間が載っています。テレビ(リアルタイム)が159分、テレビ(録画)17分、ネット利用100分、新聞購読10分 これは全世代平均です。テレビ視聴時間は年齢と共に増え、60歳代では一日平均253分、4時間以上です。70歳代以上の数値はありませんが皆さんはどの位でしょうか? 実はテレビの時間はどうでも良いのですが、問題は聖書を読む時間です。皆さんは毎日どのくらい聖書を読んでいるのでしょうか。
確かに私たちは忙しい毎日を過ごしています。なかなか聖書を読む時間がない。字が小さくて読み始めると直ぐに疲れてしまう。字が大きい聖書は重くて。旧約聖書では、細かい祭儀の規定が長々と続いて意味無いように思える。戦いばかり出てくる。イスラエル民族の細かい話が続いて日本人の私にとって何の意味があるのか良く分からない。確かに読まないことの理由を挙げればいくらでもあるでしょう。
旧約が難しいのならば、新約聖書から始めてみてください。細かい祭儀規定が続く場所に来たら飛ばしちゃって構いません。ただし、通読し終わった時の達成感には欠けるかも知れません。聖書通読は創世記から順に読み始めてヨハネの黙示録22章まで読み続ける方法だけではありません。テーマごとに分けて読み、最終的に全部読む方法もあります。さらに、最近では旧新約聖書全66巻を朗読してくれているウエブサイト、ホームページもあります。このサイトがすごいのは日本語を含む世界50ヶ国語で任意の聖書箇所の朗読が聞けるのです。
先週もう一つ申しました。聖書通読はかなり強い意志を持たないと挫折しやすいものです。何人かで始めるのがよろしいと思いますので、聖書通読を始めたい方がいらっしゃったら申し出てください。通読表を準備して私もご一緒したいと思います。そして聖書の言葉をお読みしました。ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。私たちの人生にはそれこそいろいろなことが起こりますし、これからも起こるでしょう。悲しみに沈む時 悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。怒りに燃える時 柔和な人々は、幸いである、 その人たちは地を受け継ぐ。こんな言葉が思い浮かんだらどんなにか慰められるでしょう。
不信感や不安が心を支配する時 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。あるいは 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。 そして最初に読んでいただいた詩編107編107:1 「恵み深い主に感謝せよ 慈しみはとこしえに」と107:2 主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い107:3 国々の中から集めてくださった 東から西から、北から南から。 この様な思いが心に湧いたら幸せです。聖書通読は暗唱することではありませんが、神の愛であり神の言である、主イエス・キリストがより身近に感じられるに違いありません。神の武具を身に着けた私たちは、悪魔を恐れる必要はありません。悪魔がクリスチャン恐れるのです。 そしてそこから生まれる祈りは喜びの祈りなのです。祈りましょう。