山形六日町教会
2026年2月15日
聖書:ホセア書11章1~9節 ヨハネの手紙Ⅰ2章28~3章10節
「惑わされないようにしなさい」波多野保夫牧師ヨハネの手紙Ⅰ の3回目になります。2章28節以下を読んでいただいたのですが、聖書の印刷がチョットおかしなことに気づかれたことでしょう。2章28節の前に段落があり、「神の子たち」と小見出しがつけられている一方、3章は2章の終わり29節とくっついてしまっています。私たちが手にする新約聖書ですが、西暦100年前後にギリシャ語で書かれた聖書原典は残っていません。残っているのは何代にも渡って書き写しされた写本です。もっとも古いものは2世紀前半に葦を加工したパピルスに記された断片だそうで、ヨハネによる福音書18章の中の5節ほどが残っているとの事です。18章の5節ほどと言いましたが、章や節は大変便利で、みんなで同じ聖書個所を読むことが出来ます。しかし、古い写本はギリシャ語の大文字が並んでいるだけで句読点もありません。章がつけられたのは13世紀。節は印刷術が発達した16世紀、1517年にルターによって始められた宗教改革に重なる時代です。それまで字を読めるのは宗教家や役人や商人など、ほんの僅かな人達だけでした。聖書は自分で読むのではなく、教会で朗読されるのを神様のことばとして聞くものだったのです。ルターがラテン語の聖書をドイツ語に翻訳したことで、初めて一般の人が直接手にとって神様の言葉に触れることが出来る様になったのです。最初の日本語訳聖書は1549年鹿児島にたどり着いたフランシスコ・ザビエルが「マタイ福音書」の一部をもってやって来たもので、それ以後多くの先人たちの努力によってたくさんの日本語訳聖書が出版されています。それらを比べて読むのも楽しいものです。神様のお考えを余すことなく伝えてくれる聖書にさらに親しんでいただきたいと思います。なお、私たちの新共同訳聖書には太字で書かれている小見出しがついていますが、これは聖書原典にはない言葉で、その聖書個所を理解しやすくするために神学者がつけたものです。確かに理解しやすくなる半面、生きて働かれる聖霊が語りかけようとしていることと一致している保証はありません。ですから、礼拝では小見出しは朗読しないのです。
話は変わりますが、神様が創造された私たちが住んでいるこの世界は、たて、よこ、たかさの3次元空間と時間からなる4次元の世界だと言われます。そして聖書が語る時間は一方向に流れていき過去、現在、未来に分けられます。聖書の一番初め、創世記1章1節は 初めに、神は天地を創造された。 この様に語り始め、神様は「光あれ。」とおっしゃって光を創造されました。これが第一日です。二日目には大空を。そして三日目以降、陸と海や植物、さらに天体や動物を。そして六日目には人間を創造されたのです。創世記1章31節です。 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。 聖書は、神様がお造りになった全てのものは極めて良かったと伝えるのです。人間は神様が造られた自然や動物や植物を大切にする。そして人間を大切にするのです。2000年前にイエス様が「隣人を愛しなさい」とおっしゃったことは、神様が良いものとして造られた人間同士、お互いを大切にしあう事に他なりません。時間についての話でした。戻りましょう。神様は七日目は休まれたのですが、一週間ですべてのものを創造されました。日を追って創造されて行かれたと言う事は、神様はここで時間も創られたことになります。物や命と同じ様に時間も神様が創られました。聖書の最初にある天地創造の出来事を見て来ましたが、反対に聖書の終わりにあるのはヨハネの黙示録22章20節21節です。20以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。21主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。2000年前のクリスマスの日に誕生され、33歳の時に十字架で亡くなり墓に葬られた主イエス・キリストは3日目に復活なさいました。そしてその40日後に天に帰られ、2026年の今日は神様と一緒に天にいらっしゃいます。その主イエスがやがてこの世界にもう一度来てくださる。その時を終末と呼びます。そして終末の時、すべての悪は主イエスによって滅ぼされ、愛と真理に満ちた神の国がすべてを覆う。これが聖書が語る天地創造から終末に至る時間の流れです。この会堂の右の壁を天地創造の時としましょう。旧約聖書が語る過去の出来事があり、さらに預言者が伝えた、救い主、イエス・キリストの誕生があり、私たちの罪のための十字架の死。そして3日目の復活。それから50日目の教会の誕生と発展。世界史や日本史が語る様々な歴史上の出来事が起こりました。フランシスコ・ザビエルは日本に聖書を伝えました。そして2026年2月15日10時XX分私がここに立っています。さらに時間は左側の壁に向かって流れていきます。未来の世界です。それがいつのことなのかは神様だけがご存じなのですが、時間は左の壁に行き当たります。これが終末、神様の愛と正義が地上に完成する時です。
長々と聖書が語る世界について語って来ましたが、この時間の流れの中の一日一日をクリスチャンは確かな証拠をもって、神様の愛を感じ希望をもって歩んでいきます。その確かな証拠とは、聖書が証言する主イエス・キリストが十字架で示して下さった大いなる愛の出来事です。だから世界中の教会はキリストの愛のシンボルとして、2000年間十字架を高く掲げ続けているのです。なぜ、右の壁から始まり左の壁に至る時間の流れについてお話ししたかと言うと、今日与えられたヨハネの手紙Ⅰ2章28節から3章10節は、時間について二つに分かれていることを意識したかったからです。3章4節から10節が皆さんから向かって右側の出来事、すでに起こった事です。5節に「御子は罪を取り除くために現れました。」8節に「神の子が現れたのです。」 すでに2000年前にイエス・キリストがこの世界に来てくださった結果、現在の私たちがどうなっているのかが語られています。英語の現在完了形でしょうか。一方、2章28節と3章2節には「御子の現れるとき」とあります。これはみなさんの左側の壁、終末の出来事です。
まず、すでに起こった事。天地創造から現在まで、皆さんから見て右の壁から私が立っている2026年2月15日までです。最初に旧約聖書ホセア書11章9節を読んでいただいたのですが、預言者ホセアはイエス様誕生の700年ほど前に北イスラエル王国で神様のお考えを伝えました。右側の出来事です。当時の北イスラエル王国は、繁栄の絶頂から急速に崩壊へと向かっていました。政治的混乱に加えて社会的不正が蔓延していました。さらに偶像礼拝。これは神様ではないものに心を向けることです。名誉や地位やお金などに心を奪われれば、それは偶像礼拝です。ホセアはそんな時代のただ中で、神様の愛と裁きを語った預言者です。「愛と裁き」と言うと何か矛盾している様に聞こえるかも知れませんが、神様の裁きは神様に立ち返ることを願っての愛の業なのです。ホセア書11章1節から8節までは、北イスラエル王国の罪、神様に逆らい続けた姿を指摘します。続く9節です。 わたしは、もはや怒りに燃えることなく エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。 ここで神様の大いなる愛、逆らう人間を滅ぼすのではなく救うのだと宣言されました。主イエスの十字架の出来事が、その700年前に告げられたのです。
新約聖書、ヨハネの手紙Ⅰ3章に戻ります。4節5節です。3:4 罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。5 あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。ホセア書で指摘された人間の犯す「罪」。「罪」と言う言葉が何度も繰り返されます。私も繰り返し語っています。聖書の言う「罪」は神様の法律を犯すこと。「神様と自分と隣人を愛しなさい」と言うご命令をいささかでも守らないこと、守れないことです。自分の苦手な人、いやな人、敵であっても愛しなさいと主イエスはおっしゃいます。全員がこれを守る世界を想像してみてください。その時、飢えに苦しむ人、絶望に涙する人はいないでしょう。真の平和が実現します。しかし、自分だけが良ければ、自分の家族だけが良ければ、うちの会社だけが儲かれば。もちろん努力することは大切ですが、相手を貶(おとし)めたり不正をしてまで、となると話は別です。聖書はこれと全く逆のことを語ります。14あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。 15喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマの信徒への手紙12:14,15) たとえ自分を迫害する者、自分をいじめる者であってもその者のために祈りなさい。しかも祝福を祈りなさいとあります。自分をいじめる者の幸せを神様に祈る。こんなことが出来るのでしょうか? 大変難しいことですが、私は次の様に祈ることを勧めています。「神様、私をいじめるあの人はかわいそうな人です。イエス様の愛を知らないからです。どうぞあの人がイエス様の愛を知ってイエス様に近づく様にしてください。アーメン」もちろんいじめを受けた時、自分に閉じこもってはいけません。信頼できる人に相談することは大切です。それが警察かもしれませんが、とにかく自分に閉じこもってはいけません。そして祈るのです。「どうぞあの人がイエス様の愛を知ってイエス様に近づく様にしてください。アーメン」
さて、3章4節は「罪を犯す者は皆」と語り始め6節にも「罪を犯す者は皆」とあります。さらに8節には「罪を犯す者は悪魔に属します」とあり、神様と自分と隣人をいささかでも愛しきれない者は悪魔の仲間だ、あるいは悪魔の手下だと断言するのです。確かに人を愛することにおいて欠けがあり、自分中心になってしまう私ですが、さすがに悪魔の手下だと思ったことはありません。皆さんはいかがでしょうか? さらに9節は追い打ちをかけるような言葉です。神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。 何度も申し上げている様に、残念ですが私は「神様と自分と隣人をいつも愛しています。」と自信をもって言い切ることが出来ないのです。そんな私を「お前は罪を犯す人間だ。だから神から生まれた者ではない。悪魔の仲間だ、悪魔の手下だ!」ペトロはこの様に厳しく言っているのでしょうか?ここで聖書が語る悪魔についてです。アダムとエバをだまして神様のご命令に背く様にさせた蛇を始め、サタン、悪霊、ベルゼブル、レギオン、さらに竜や獣など様々な名前を持って登場しますが、彼らの目的であり喜びはただ一つです。それは人間が神様に従って生きることで得る幸せ、その幸せを奪い取ることです。この悪魔はアダムとエバを神様に逆らう者として以来、多くの勝利を挙げて来ました。しかし、負けたことが2度聖書に記されています。2000年前に主イエスを荒れ野で誘惑した時です。「石をパンに変えてみろ。神殿の屋根から飛び降りて見ろ。お前が神の子なら出来るだろう。」そして「私を拝むなら世界の富を全てあげよう。」 主イエスがこんな誘いにのるはずがありません。悪魔は敗れました。その数年後には、主イエスを十字架に架け墓に葬らせることに成功した悪魔だったのですが、勝利の美酒に酔ったのは3日間だけでした。主は復活なさり死に勝利されたのです。そんな悪魔は、今なお元気です。人間が神様に従って生きることで得る幸せ、その幸せを奪い取ろうと活躍しています。残念ですが2026年の世界に多くの憎しみや争いがあるのです。
3章9節に戻ります。神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。この様にヨハネは語ります。これは、古代ギリシャ語で書かれている聖書を現代語に翻訳する際の問題なのですが、私たちが手にしている新共同訳聖書が「神から生まれたので、罪を犯すことが出来ません」とあるのを「罪を犯し続けることができません」と翻訳している聖書もあります。(New Century Version. The Lexham English Bible. リビングバイブル。現在形不定詞:習慣的に罪を犯すことはできない)確かに罪を犯すことがある。しかし、罪を犯し続けることはできないのだ。なぜならば、命を与える神様の力、すなわち聖霊の種が私たちの内に播かれているのだから。このような意味になります。罪を犯すことができません。と言われてしまうと、これは立派な人の話であって、悪魔の誘惑に負けて隣人を愛しきれないことがある私。「罪」を犯してしまうことがある私とは無関係な話になってしまいます。「罪を犯し続けることができません」 私たちは主イエスの愛に気づいたとき、ハットして立ち返るのです。2026年の世界にあって、人間が神様に従って生きることで得る幸せ、その幸せを奪い取ろうと躍起になっている悪魔に負けたままではいけないのです。「罪」を犯すことがあっても主イエスの愛に立ち帰るのです。ではどうすれば良いのでしょうか? 本日の説教題を「惑わされない様にしなさい」としました。
3章5節6節です。3:5 あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。6 御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。そうです、「罪」の無い方、悪魔に勝利された方、イエス・キリストに従うのです。御子の内にいる人とは、主の愛を知っている人のことです。その主の愛を忘れさせよう、忘れさせようとするのが悪魔の得意技ですが、そんなのに負けないために欠かせないものがあります。それは教会が2000年間、休むことなく続けて来た日曜日ごとの礼拝なのです。私たちがキリストの愛を感じて、共に聖書を読み、聖書の解き明かしである説教に心を開き、賛美し祈り献げる時、悪魔が入り込む余地はありません。これが、3章4節から10節まで、現在完了形で述べられている神様の愛のご計画です。それでは2章28節から3章3節にある未来形で語られる神様の愛はどうでしょうか。皆さんの左側にある壁、終末に向けてです。
3章1節。3:1 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。私たちは神様に愛されている。独り子、主イエス・キリストを十字架に架けてまで私たちの罪を赦そうとなさる神様に、私たちは神の子と呼ばれるほど愛されている。しかし、神様の愛を知らない多くの人は教会を知りません。続いて2節です。3:2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。 洗礼を授けていただいた者たちは、すでに神の子として、神様の大いなる愛によって悪魔から守られています。まだ洗礼に至っていない方は神様の大いなる愛へと招かれています。礼拝出席が叶わない方は祈られています。
マタイ福音書25章に、主が語られた「10人の乙女」のたとえがあります。ユダヤの結婚式の風習を用いて終末の時にこの世界に来られる主イエス・キリストが花婿にたとえられ、どのようにして終末を待つべきなのかが語られます。花婿の到着が遅れて眠ってしまった乙女たちに、突然花婿の到着が告げられます。終末は突然やってくるのです。その時、花婿の到来に備えて油を用意していた賢い乙女と、準備を怠った愚かな乙女。 ヨハネは油を準備した賢い乙女の様に、終末の時に来られるキリストに備え、信仰をしっかりと保つように様に促します。ヨハネの手紙2章28節。御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。花婿を待つようにと婚礼に招かれた10人の乙女たち。ヨハネ3章2節。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子です。私たちも10人の乙女たちと同じ様に主の婚礼、すなわち終末の時の栄光に招かれています。5人の賢い乙女は信仰の油を準備していました。ヨハネ3章3節。御子が清いように、自分を清めます。私たちは主イエスに従う事で清い者であり続けるのです。悪魔に心を赦してはいけません。私たちは2026年と言う、いつかはやって来る主イエスの裁きの時、終末に向かっている時間の中を生きています。聖書が語る主イエス・キリストの言葉です。「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(マタイ福音書 25:13)
本日の説教題を「惑わされない様にしなさい」としました。悪魔の元気な現代において、そしてやがてやって来る終末への最高の備え。それは教会が2000年間、休むことなく続けて来た日曜日ごとの礼拝です。私たちがキリストの愛を感じて、共に聖書を読み、聖書の解き明かしである説教に心を開き、賛美し祈り献げる時、悪魔が入り込む余地はないからです。今日、礼拝に集えたことを感謝しましょう。集えなかった方のために、そしてまだ教会のすばらしさを知らない人の為に祈りましょう。