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山形六日町教会

2026年2月1日

聖書:ミカ書6章6~8節 ヨハネの手紙Ⅰ2章1~11節
「神を知っている」波多野保夫牧師

寒さの最も厳しい2月に入りました。「冬来たりなば春遠からじ」これは、パーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley)と言うイギリスの詩人が詠んだ詩の一節だそうですが、「辛い時・冬を耐え抜けば、必ず幸せな時・春がやってくる」という希望を込めたことわざとして親しまれています。 旧約聖書雅歌では ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。この里にも山鳩の声が聞こえる。いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。(2:11-13a)この様に苦難の先にある喜びの時を歌っています。
私たちは先週開催された臨時教会総会で山本孝根教師を4月からお迎えすることを議決しました。ご承知の様に、現在日本の教会は会員数の減少と高齢化に加えて教師の極端な不足と言う3重苦の中にあります。そのような中にあって2年間に及ぶ私たちの祈りが聞き届けられ山本教師が与えられました。神様に感謝し、主の福音の前進のために祈りを合わせて参りたいと思います。
話は変わりますが、毎週木曜日の10時から持たれています。1月の「聖書に聞き、祈る会」では詩画作家 星野富弘さんの作品から聖書のみ言葉を学びました。ご存じの様に富弘さんは体育の教師として初めて中学に赴任した数か月後の事故で首から下が麻痺し、一生回復することの無い寝たきりの生涯を送る様になってしまった方です。しかし、事故から数年後にキリスト教の信仰が与えられ、口にくわえた筆で描いた絵に詩を綴った多くの作品を残しました。1000点近い作品の一つです。「いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった。」彼はインタビューの中で語るのです。「いろいろなこと、嫌なこともあったけど、みんな神様のご計画。聖書に書かれている神様の存在を知ってすべてを任せて生きられるようになったことが一番よかった。こういうことを言うと叱られそうな気がするんだけど、ケガしてチョット得しちゃったかな。」 様々なことが起きる私たちの人生です。山形六日町教会の歴史も同じです。しかし、私たちは知っているのです。神様はどんな時であっても共にいてくださる方です。どんな時であっても愛し続けてくださる方です。ローマ人への手紙 12章12節 「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。」(口語訳) 厳冬期の2月ですが「冬来たりなば、春遠からじ」です。美しい山形の春を待ち望み、祈りを共にして参りたいと思います。
ここで、宣伝を一つ。「聖書に聞き、祈る会」は毎週木曜日10時から、7名ほどで持たれています。礼拝では、神の言葉の解き明かし、説教を聞くことが中心となりますが、「聖書に聞き、祈る会」では皆さんが語ることが中心です。そして祈るのですが、全てにおいてパスありです。そこで話した秘密は守られます。大勢の方の参加をお勧めします。
さて、ヨハネの手紙Ⅰ1章は「神は光で在り、神には闇がまったくありません。」と語り始めました。本日は2章です。丁寧に読んで行きましょう。1節。わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。 私たちの「罪」については前回1月11日に次のみ言葉を聞きました1章8節です。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。そして「罪」について、次の様に述べました。大切なことですから繰り返しましょう。
前回からの20日間ほどをどの様に過ごしたのか、思い起こしながら聞いてください。【聖書の言う「罪」とは、私たちを愛し続けてくださる神様、私たちと共にいてくださる神様、そして全てをご存知の神様のご命令に逆らう事、あるいは従い得ないことです。神様のご命令は具体的には十戒に代表される「律法」ですが、全部で613に及びます。主イエスはそれをマタイ福音書22章に記されている2つにまとめてくださいました。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。(22:37-40)私はさらに縮めて「神様と自分と隣人を愛しなさい。」この様に申し上げています。これは、日々の生活の中で主の戒めを心に留め、さらにそれを生かして行きたいと思うからです。】「神様と自分と隣人をいささかでも愛すことが出来ない。」それが聖書が語る「罪」の本質です。
ヨハネの手紙Ⅰ 2章1節は あなたがたが罪を犯さないようになるためです。と語り始めます。実際「罪」に対して「鈍感であったり寛大過ぎる」。あるいは反対に「敏感過ぎたり厳格すぎる」。こういった人も見られます。ここで「あなたはどちらですか?」とは問いません。両方の性質を持っている、あるいは使い分けていることが多いからです。俗に「笑ってごまかせ自分の失敗、あくまで追求他人の失敗」などと言います。ダブル・スタンダードですね。
主イエスは鋭く指摘されます。 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。(マタイ福音書7:3-5)多くの方がこの主のみ言葉を聞くと思い当たることがあるのではないでしょうか? 他人に厳しく自分に甘い。まったく自分の不完全さに目を向けようとしない人が敬われることはありません。それでも、私たちはその様な人も愛さなければいけません。「あなたの隣り人を愛せよ」と言う神様のご命令に例外はないからです。反対に「罪の意識」に囚われてどんどん底なし沼の様に引きずりこまれて行ってしまう人もいます。どの様に寄り添えば良いのでしょうか? 私たちの先輩が開局に努力された「山形いのちの電話」は確かに隣人を愛する一つの姿です。さらに、主イエス・キリストの愛を知っていただきたいと思います。
2章1節の後半から2節。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償(つぐな)ういけにえです。ヨハネは、はっきりと言います。全世界のすべての人の「罪」のために神様は主イエス・キリストを遣わし、しかも十字架での死をもって罪を贖(あがな)うための「いけにえ」とされたのです。「贖う」とは辞書によれば、お金をだして買い取ると言うのが元来の意味ですが、大切なものを犠牲にして手に入れることです。「神様は大切な独り子、イエス・キリストの命を犠牲にして、神様に従わない人間の「罪」を買い取られた」のです。なんでそんなことをなさったのかと言えば、天地を創造され、全知全能の神様は聖なる方なので「罪」をそのままにすることはできません。神様に従わない者。「罪」の中にある者は生きて行くことはできない、すなわち死です。しかし、ここに奇跡が起きました。神様と自分と隣人を愛しきることのできないこの私、罪びとの私に代わって主イエス・キリストが「罪」の責任、すなわち「死」を引き受けてくださったのです。その結果、素晴らしい変化が起こりました。私たちは主イエス・キリストを信じて従う。すなわち信仰を告白して洗礼を授けていただくことで、永遠の命が与えられるのです。「永遠の命」とは肉体の死が訪れないことではありません。生きている時も、いつかは必ず訪れる死、その死の向こう側においても、ズーっと主の愛の中にあること、これが「永遠の命」です。
2章3節。わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。神様を知る、自分が神様に愛されていることを知るほどに、「神様と自分を愛する者」となっていく。極めて自然なことです。
4節から6節。 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。 神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。ここでヨハネはクリスチャンの2つの特徴を挙げます。「神を知っている」ことと「神の内にいる」ことです。皆さんは「あなたは神様を知っていますか?」と問われたらどうでしょう。こんな人がいます。「私は千歳幼稚園の時から教会学校に通ってました。高校生の時に洗礼を受ました。初めて仕事に着いた頃は忙しくて暫く教会に来なかった時があったけど、あとは大体来ています。聖書通読もしたことあるし、新約聖書だけなら3回読みました。神様のこと、大体知っています。」素晴らしいですね。これからも続けてください。ところで、あなたは神様の掟を守っていますか?ヨハネはこの様に問うのです。あなたは日々の歩みにおいて、もっと具体的には「先週、神様と自分と隣人を愛して過ごしましたか?」もちろん皆さんはそうありたいとの思いで毎日を過ごしているでしょう。私もそうです。しかし、先ほど「まったく自分の不完全さに目を向けようとしない人も愛さなければいけません」と言いましたがこれは大変です。この様な苦手な人、いやな人が波多野だとして、次の様に祈ることをお勧めしています。「神様、あの苦手な波多野さんがあなたに近づく様にしてください。アーメン」 周りの人を愛せない。あるいは自己中心になり自分自身の愛し方を間違ってしまう。そんな時であっても主イエス・キリストは私たちを愛し続けてくださっています。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ福音書14:6)この様におっしゃる方は、私たちが歩むべき道、「永遠の命」への道を示し続けてくださっているのです。もしその道が見えて来ないのであれば、それは主イエスを見失っているからです。そんな時の最も良い回復方法があります。それはこの様に礼拝に集い聖書が伝えてくれる神様のみ言葉を聞き、祈り、賛美し、献げる事です。
ある牧師は次のように語りました。「私は主イエス・キリストを何度も十字架に架けてしまっている。」イエス・キリストの愛を知りながら従いきれない自分へのもどかしさを述べたのでしょう。もちろん主の十字架は2000年前の一回だけの出来事です。そこに示された愛は二度目を必要としません。パウロは次の様に語っています。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマの信徒への手紙5:6-8)この牧師は日々の暮らしの中でしばしば主イエスを見失ってしまうことを、この様に表現したのです。日々、聖書に親しみ、祈りの時を持っているこの牧師もやはり「罪」の縄目から完全に自由にはなれないのです。
パウロは言います。 自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤの信徒への手紙5:1)共にいてくださる主イエス・キリストを最も身近に感じられる時。それは聖霊の導きによって、み言葉に聞き祈り賛美し献げるこの礼拝の時ではないでしょうか。そして礼拝から帰る際の私たちは「神を知っている」人であり、「神の内にいる」人となって、喜んで家路につくのです。喜びに生かされる私たちは、この山形の地に主の福音を伝える者として派遣されるのです。2章6節です。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。イエスが歩まれた道、それはたとえ神様に従うことで苦しみに会うとしても、神様に従うことで復活に与る栄光の道です。
さて、ヨハネは「新しい掟」と言う小見出しがつけられている2章7節以下で語ります。「私が伝えたいのは、1000数百年以上前にモーセに与えられた十戒に代表される律法の中の特に隣人愛の戒めなのだ。」なぜこの戒めが「古く」もあり「新しく」もあるのでしょうか。その理由は、この「古い戒め・十戒」がイエス・キリストの誕生と十字架の死によって、新しく具体的な形を与えられたからです。この点で最初に読んでいただいた旧約聖書ミカ書6章6から8節と深く響き合います。預言者ミカは紀元前750年頃にユダ王国で活躍したのですが、この時代のユダ王国はアッシリア帝国と言う外敵の圧力が高まる中で、極端な貧富の差が生まれ、指導者は堕落し裁判も腐敗しており、正義と慈しみ、隣人愛に欠ける時代でした。礼拝の中心は、エルサレム神殿で子牛や雄羊や高価な油を献げるささげことによって、自分たちの犯した「罪」を神様に赦していただく儀式になっていました。堕落したご利益宗教になってしまっていたのです。現在、私たちの礼拝で「罪」を赦していただくために動物を献げることはありません。これは、私たちが「罪」を犯さなくなったからではなく、主イエス・キリストがご自分の命を献げてくださったからです。私たちが主イエス・キリストに従って歩むときに、神様は「罪の無い者」と見なしてくださるからです。
ミカ書に戻ります。6章8節です。人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。「何をささげれば神は満足して私たちの「罪」を赦してくださるのか」という問いに、預言者ミカは「神様が求めておられるのは、子牛や雄羊や高価な油ではない。あなたの生き方そのものだ。」この様に告げるのです。そしてヨハネも同じことを私たちに告げるのです。
ヨハネの手紙Ⅰ 2章9節10節。「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。 兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。神様が問われるのは「私たちは今、光の中にいるのだ」と答える信仰理解の正しさではありません。そうではなくて、実際にどう生きているかを神様はご覧になるのです。そして、兄弟姉妹を愛する人は、いつも光の中にいるのです。キリストの愛の中を歩むのです。だから「その人にはつまずきが無い」のです。しかし、兄弟姉妹を憎み、のけ者にし、裁くのなら、その人は闇の中にあるのだとヨハネははっきり言います。11節ではさらに厳しく語ります。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。「憎しみ」がもたらす結果は単なる感情の問題ではなく、人生の方向感覚を失わせます。ミカ書6章8節の言葉で言えば、正義を行わず、慈しみを愛さず、神と共に歩まない状態です。憎しみは人の目を暗くし、何が正しいのか、誰と共に歩いているのかを見えなくします。
この悲惨な状況からの救いをヨハネはすでに2章8節で語っています。わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。そうです。すでに闇は過ぎ去り、まことの光が輝いているのです。預言者ミカの時代、人々は「何をすれば神様に喜ばれるのか。罪を赦していただけるのか」と問いました。ヨハネの時代、人々は「正しい信仰とは何か」を争いました。その答えは明らかです。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって主イエス・キリストと共に神様の愛の中を歩むことです。これが「古くて新しい戒め」なのです。あなたは兄弟姉妹を愛していますか? 隣人を愛していますか? その答えは、正義と慈しみとして私たちの生き方に現れます。光の中を歩んでいますか? その答えは、主イエスと共に、隣人と共に、へりくだって歩む私たちの生き方に現れます。そしてそれら全てにとって欠かすことのできないのが、神様のみ心を知る時、すなわち主の日の礼拝、この礼拝なのです。祈りましょう。