山形六日町教会
2026年1月11日
聖書:イザヤ書1章16~20節 ヨハネの手紙Ⅰ1章5~10節
「神は光」波多野保夫牧師早いもので、新年を迎えてすでに11日目となりました。「一年の計は元旦にあり」と言う言葉は戦国の武将、毛利元就(もうりもとなり)の書いた手紙にあるそうですが、皆さんの2026年に懸ける思いはいかがでしょうか? クリスマスの時に、「朝毎に主イエスをお迎えするのであれば、毎日がクリスマス」と申しました。旧約聖書哀歌に次の言葉があります。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。(3:22,23) 「元旦の計」は、今からでも遅くないそうです。 「毎日聖書に親しんで短く祈る。」プラス面を伸ばす計画です。一方、「スマホやSNSに生活や考えを支配されない。」マイナス要素との決別計画です。いかがでしょうか。ぜひ成し遂げていただきたいと思います。毛利元就(もうりもとなり)の手紙には、さらに「一日の計は晨(あした)にあり」「一月の計は朔(ついたち)にあり」とあるそうです。一年の計画を漫然と行うのではなく、チェックポイントを設定しておくのです。この点で私は神様のご計画のすばらしさを感じます。それは一週間を7日とし、さらに安息日を礼拝の日となさったことです。私の意思の弱さをご存じの神様は、7日ごとにみ前に召しだしてくださるのです。信仰の友と一緒に、聖書のみ言葉に聞きその解き明かしの説教を受ける。賛美の歌声を合わせる。アーメンと祈りをあわせ、感謝の献げものを献げる。神様の愛を一週間ごとに新たに感じることが出来るのが礼拝です。「毎日聖書に親しみ祈る」元旦の計を週ごとに新たにできるのではないでしょうか。礼拝がもし1月に1回だったらどうでしょう? 怠惰な私は「聖書に親しみ祈ることを」きっと忘れてしまうでしょう。私は律法的に「礼拝を休んではいけません」とは言いません。「キリストの愛を強く感じられる礼拝を休むと損ですよ!」この様に申し上げるのです。毛利元就(もうりもとなり)の「一年の計は元旦にあり」を紹介しましたが、彼の有名な言葉に「1本の矢は折れるが、3本の矢は折れない。」と言うのがあります。三兄弟が協力して毛利家を支えるよう諭した言葉だそうです。実は聖書の方が2000年近く古いのですが、旧約聖書 コヘレトの言葉4章12節です。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。歴史的に両者の関係性は証明できないのですが、内容的に毛利元就(もうりもとなり)は武家社会に於ける結束を説いたのに対して、聖書はクリスチャンの友+イエス・キリスト。すなわちイエス・キリストを仲立ちとした関係は破綻することが無いと言っています。さらに私が気になったのは、続くコヘレトの言葉4章13節です。貧しくても利口な少年の方が 老いて愚かになり 忠告を入れなくなった王よりも良い。 老害と言われない様に私の「元旦の計」に加えたいと思います。 「毎日聖書に親しんで短く祈る。」と言う「元旦の計」、いかがでしょうか? 聖書は、私たちを愛して止まない神様のみ心とご計画を示してくれる人生の導き手です。「毎日聖書に親しんで短く祈る。」そして週ごとに礼拝を守り、信仰の友と一緒に、聖書のみ言葉に聞きその解き明かしの説教を受ける。賛美の歌声を合わせる。アーメンと祈りをあわせ、感謝の献げものを献げる。喜びの時を共にする2026年でありたいと思います。
さて、最初に新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ1章5節から10節を読んでいただいたのですが、これから5週に渡ってヨハネの手紙Ⅰを読み進めて行きたいと思います。多くの神学者は、西暦100年近く、主の十字架と復活の出来事から70年程経って書かれた手紙だとします。その背景には、2章では反キリスト(2:18)、4章では偽預言者(4:1)と呼ばれている、教会から離れ主イエスを救い主とも神の独り子とも認めなくなった人たちが現れたことで生じた混乱がありました。1章4節で、 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。この様に語り語り始め、何度も「子たちよ」と呼びかけることで、教会員を不安から喜びへと導くのです。この手紙の前半、2章までは「神は光」だと繰り返し語ります。そしてそれ以降「神は愛」だと繰り返し繰り返し語るのです。ある神学者は、『このヨハネの手紙Ⅰは、信仰的な混乱の時代にあって「真の信仰とは何か」を光・愛そして確信という三つの言葉で描く牧会書簡である。』この様に言いました。牧会書簡とは信仰が混乱した時代に有って、間違った教えに、どの様に向き合うのか。教会の中で、何を大切にし、何を避けるべきなのか。次の世代へ主イエス・キリストへの信仰をどの様に受け渡すのか。教会のリーダーはどうあるべきなのか。この様な教会が進むべき道を指し示す聖書に記された手紙です。
現代にあって、聖書全体に基づいて短い言葉で私たちの信仰を言い表す「日本基督教団信仰告白」も導き手であることを付け加えておきます。
さらに蛇足になりますが、新約聖書にある21の手紙の内、テモテへの手紙一と二、テトスへの手紙を一般的に牧会書簡と呼びます。一方このヨハネの手紙はあて先が特定の教会でないことから公同書簡と呼ばれます、しかし、ヨハネの手紙も十分に『信仰的な混乱の時代にあって「真の信仰とは何か」を光・愛そして確信という三つの言葉で描く牧会書簡』なのです。今牧師交代期にある私たちは5回に渡ってこの牧会書簡、ヨハネの手紙Ⅰを読み進めて行きたいと思います。
さて、1章5節でヨハネは宣言します。 わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。 さらに、ヨハネによる福音書では 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 (8:12)あるいは「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」(12:46)この様に主の言葉を伝えています。真の神、主イエス・キリストは私たちに真理を示し温(ぬく)もりを与える光なのです。 しかし、聖書に親しんでいる皆さんはチョット疑問に思われるかも知れません。創世記1章は神様の天地創造の御業を伝えていますが、3節以下に次の様にあります。 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。ここで神様が創造されたのは、朝の窓辺に差し込む「光」であり、あるいはLEDの「光」のような物理的な「光」であって、世の光として来てくださったイエス・キリストではありません。ここで神様の「光あれ。」と言う言葉によって創造された「光」は、混沌とした地の表を光と闇に分けたのです。
一方、ヨハネが「神は光であり、神には闇が全くない」と言う時、「光」は、物理的な「光」ではなく、神ご自身の本質を表す比喩です。文脈から明らかな様に「光」は、 真理・聖さ・いのち・義(ただしさ)をしめし、逆に「闇」は、 偽り・罪・死・神との断絶を示しています。つまりヨハネは、神の存在そのものが、完全な真理と聖さであり、混じり気がまったくないと告白しているのです。 創世記は神様が光を創造されたと証言し、ヨハネは神様ご自身が光であると述べます。これは矛盾ではなく、そこには順序があります。神様ご自身が「光」である。その神様が、昼と夜に分け全てに秩序を与える「光」を創造されたのです。創世記が語る光は闇を追い払い秩序を与え命の場を生み出します。そしてそれはご自身が「光」で有られる神様の栄光を私たちに運んでくれるのです。
この二つの「光」をヨハネによる福音書1章4節5節が結んでくれます。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 神様の言、イエス・キリストは神様のみ心、私たちを愛して止まない神様のお考えとご計画を余すことなく伝えるために来てくださいました。クリスマスの出来事です。そしてヨハネ福音書1章9節。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。と宣言するのです。
それでは、ヨハネの手紙Ⅰ 1章6節以下を丁寧に読んで行きましょう。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。
創世記で神様が光が闇と分けられたように、キリストに従う私たちの歩みも光と闇の分離を必要とします。しかしそれは私たちが努力する、努力して良い行いを積み重ねることで達成できるようなものはありません。真の光である方、主イエス・キリストとの交わりが必要であり、イエス・キリストとの交わりによってのみ、私たちは光の中を歩むことが出来るのです。7節はさらに続けます。 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。 私たちが抱える「罪」が問題です。聖書の言う「罪」とは、私たちを愛し続けてくださる神様、私たちと共にいてくださる神様、そして全てをご存知の神様のご命令に従い得ないこと、ご命令に逆らう事です。神様のご命令は具体的には十戒に代表される「律法」ですが、613に及びます。それを主イエスは2つにまとめてくださいました。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。(マタイ福音書22:37-40)私はさらに縮めて「神様と自分と隣人を愛しなさい」と申し上げています。これは、日常の生活の中で主の戒めを心に留め、さらに生かして行きたいと思うからです。「自分を愛すること」を強調していますが、もちろんこれは自分勝手にするでも自己中でもありません。本当に自分を愛することは主を愛し隣人を愛することに行き着きます。これ以外の方法で自分を本当に愛することは出来ないのです。そして「神様と自分と隣人をいささかでも愛すことが出来ない。」それが聖書が語る「罪」です。神様は聖なる方ですから、80%できれば良いとはなさいません。100%でなければ「罪びと」です。だからこそあのパウロは言うのです。 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。(Ⅰテモテ1:15) 「自分は罪びと」だと一番自覚しているのは自分だとパウロは言うのです。だとしたら私は何番目くらいの「罪びと」なのだろうか? そもそも私は自分が「罪びと」だと思っているのだろうか? そんな考えがよぎるのですが、ヨハネの手紙Ⅰ 1章8節です。 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 先ほど申し上げたように「罪がない」とはいささかなりとも「神様と自分と隣人を愛することにおいて欠けがない」と言うことです。ヨハネは続けます。9節10節。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。具体的に「自分の罪を公に言い表す」とは洗礼式での信仰告白であり誓約でしょう。自ら十字架に架ることで、人間の罪の責任を全て負ってくださったキリストに従い、教会に加わることを誓約します。私たちは毎週の礼拝で「罪の告白」として詩編を交読しますが、自分の一週間にピタッと当てはまらないこともあるでしょう。しかし、詩編には古の信仰者の祈りが詰まっています。自分の「罪」と主の愛を十分思い起させてくれます。
最初に読んでいただいた旧約聖書イザヤ書です。預言者イザヤは紀元前8世紀に南ユダ王国に遣わされました。当時の中東地域では、アッシリア帝国が急速に拡大し、すでに北イスラエル王国は紀元前722年に滅ぼされてしまいました。南ユダ王国も、政治的不安、軍事的圧迫、宗教的堕落の中にあったのです。先立ちますイザヤ書1章の前半、15節までで、神様は非常に厳しい言葉で、彼らの献げる礼拝を非難されています。14節です。お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。どの様に礼拝を守るべきなのか、主イエスはおっしゃいました。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。(ヨハネ福音書4:24) 私たちが週ごとに献げるこの礼拝が、聖霊に導かれた真心からの礼拝となっているのかどうか、一人一人が、そして長老会が常に点検する必要があります。なぜなら、私たちの礼拝の守り方であり礼拝の態度は、正にあなたの、そして私の生き方であり、生きざまを反映しているからです。
さらに続けてイザヤは神様のみ心を告げます。 お前たちの血にまみれた手を 洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ 善を行うことを学び 裁きをどこまでも実行して 搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り やもめの訴えを弁護せよ。私たちが血にまみれた手で礼拝を守ることは無いでしょう。しかし、神様に立ち返ってもろもろの悪を取り除けとイザヤは告げます。個人的な悪はもちろんですが、この世の悪も取り除けと告げ、今から3000年近く前のユダヤ社会で最も弱い立場に置かれていた孤児ややもめを助けなさいと言います。現代の日本においては当時と比べものにならない社会的な救済制度が整っていますが、社会的弱者は存在します。主イエスの次の言葉が思い起こされます。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ福音書25:34-46)
弱い立場に置かれたり苦しみの中にある隣人を助けることを主は喜んでくださいます。様々な奉仕活動や募金活動は大切です。しかし、絶対に忘れてはいけないこと。それは私たちが頂いた一番の宝物を分け合うことです。そうです。主イエス・キリストを信じる信仰です。信仰は分かち合うと減るのではありません。増えるのです。続くイザヤ書1章18節では、私たちの「罪」が緋色、すなわち燃えるような赤であっても雪の様に白くなる。私たちの「罪」が紅の様であっても羊の毛の様に白くなる。と語ります。その方法はただ一つです。すでに私たちの「罪」を清算してくださった主イエス・キリストを信じ従うことです。そして先ほど申し上げた信仰の分かち合いとは正にこのことです。隣人と一緒に主を信じ従って行くのです。その時、真っ赤な「罪」に染まった私を、雪の様に真っ白な「罪のない者」と見なしてくださり、主の愛の中を生きる幸せに満ちた人生を約束してくれます。死の向こう側にまで続く主と共にある幸せな人生を聖書は「永遠の命」と呼ぶのです。
新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ1章5節でヨハネは証言します。わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。 私たちは主イエス・キリストによって神様を正確に知るのです。神様が愛の神様であることを正確に知るのです。主イエス・キリストに従い、ご一緒に喜んで神の光の中を歩んで行きましょう。「元旦の計をやり通しましょう。」祈ります。