HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2023年2月5日

山形六日町教会

2023年2月5日

聖書:詩編24編7~10節 ヨハネの黙示録5章12~14節
「巻物を開く」波多野保夫牧師

説教シリーズ「わたしはすぐに来る」の7回目です。旧新約聖書全66巻の最後に位置します、ヨハネの黙示録からみ言葉を聞いています。ヨハネは西暦96年ころ、ローマ皇帝ドミティアヌスによってキリスト教が厳しい迫害にさらされた時代に、エーゲ海にあるパトモス島に島流しになっていました。その際に、イエス・キリストが天使を送ってヨハネに与えられた「黙示」を巻物に書き綴って、直接的にはアジア州にある7つの教会に、さらに世々の教会に、そして新約聖書に編纂されて、今山形六日町教会に送られているのです。
「黙示」とは「覆いをとる」「ベールをはがす」という意味で、隠されている世界の歴史が行きつくところ、すなわち「終末」について明らかにしています。 この説教シリーズの名前「わたしはすぐに来る」は、ヨハネの黙示録の最後の章22章に3回繰り返されています。22章7節 「見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」山形六日町教会と集う私たちはこの書の伝える「終末」に備える幸いな者でありたいと思います。婚礼に遅れてやって来た花婿を出迎える際に、油の準備をチャントしていた賢いおとめたち(マタイ25:1-13)でありたいと思います。
22章12節13節。見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。この世界は天地創造の時から終末に至るまで、三位一体の神様、父・子・聖霊の神様の大いなる愛のもとにあるのです。そして新約聖書はこの言葉で閉じられています。22章20節21節。以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。

私達が命をいただいている2023年ですが、新聞を開けば、心温まる出来事も報じられるのですが、何でこんな残酷なことが起きるのだろうか、どうしてこんな不正がまかり通るのだろうか! 毎日理不尽な記事があふれています。使徒信条は復活された主は、天の国で「全能の父なる神の右に坐ざしたまへり」と告白します。その主イエス・キリストが再び地上に来て下さり、裁きを行ってこの世の悪を全て滅ぼしてくださる時。既に地上にある教会に届いている「神の国」が地上の隅々にまで覆いつくす時。そんな「終末」の時をもたらしてくださる方は「然り、わたしはすぐに来る。」とおっしゃいます。ですから、アーメン、主イエスよ、来てください。これが2000年間の教会の祈りです。この世界に神様の愛の支配が行き渡ることを願う教会の祈りなのです。
しかし、問題があります。主は「わたしはすぐに来る。」とおっしゃるその「すぐに」が何時なのか分からないことです。既に2000年の時が経っていますから「終末の遅れ」と呼ばれます。確かにペトロは  愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。(ペトロの手紙Ⅱ3:8,9)この様に言います。一人でも多くの人が主イエスを救い主と信じて「終末」の時を迎えるようにと「裁きの時」を待っていてくださるのですから、教会に主の福音を告げ広める責任が委ねられていることは明らかです。
政府の地震調査研究推進本部と言うところは、必ず起きると言われている大地震の30年以内の発生確率を発表して、自治体や各人が備えをなすように促しています。山形六日町教会にとっても、真剣に受け止めなければいけない課題です。私は「終末」も30年以内にやって来る確率が分かると、伝道の真剣さが増すのではとチョット不謹慎なことを考えてしまいます。
確かにマタイ福音書24章やこの黙示録はいくつかの兆候に触れていますが、「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。この様に語るのです。しかし、私たちは知っています。クリスチャンには最終的な勝利が約束されていること、そしてすべての人がこの勝利へと招かれていることを知っているのです。
今日与えられたヨハネの黙示録5章では、神様の真理が記された巻物を開くことになったのですが、それにふさわしい方は小羊、すなわち主イエス・キリストです。ベールをとって神様の真理を明らかにするのにふさわしい方は、既に十字架で私たちに与えられている大いなる愛を示してくださった主イエス・キリストなのです。
12節。 天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、 力、富、知恵、威力、 誉れ、栄光、そして賛美を 受けるにふさわしい方です。」聖書にたびたび登場する天使は、神様によって創造された者ですから礼拝の対象ではありませんが、神様に仕えることを喜びとしています。11節にはこの時の天使の数は、万の数万倍、千の千倍であった。とあります。その天使たちが大声で言ったのです。「屠られた小羊は、 力、富、知恵、威力、 誉れ、栄光、そして賛美を 受けるにふさわしい方です。」十字架上で命を献げることで、私たちの「罪」を清算してくださった主イエス・キリストは力と富と知恵と威力を持った方だ。天使たちは大声でそう言ったのです。
ちょっと不思議に思うのは「小羊は富んだ方」という指摘です。主が富について語られたことを思い起こすからです。 だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。(マタイ福音書6:24) さらに 富んでいるあなたがたは、不幸である、 あなたがたはもう慰めを受けている。(ルカ福音書 6:24)確かに主は富の危険を指摘されます。富は際限ない欲望にいざない神様の愛を忘れさせる力があるからです。
主は72人の弟子を選んで町や村に派遣されたのですが、その際に「財布を持っていくな」と言って送り出されました。(ルカ福音書10:4)主は、自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。(ルカ福音書12:33,34)この様におっしゃいました。私たちが忘れてはいけないみ言葉です。 
しかし、十字架を前にして最後の晩餐の席からゲッセマネの園に向かう際には 「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。」この様におっしゃいました。間もなく天の父のもとに帰られる主は、教会が、そして私たちがこの世に生き、この世に福音を伝えるために、お金が必要なことをご存知だったのです。
私は献げものについて「喜びの範囲で献げてください。ただチョットだけ無理をしてください。主は、その無理を喜びに変えてくださるでしょう。」この様に申し上げています。もちろん余ったものを献げるのではありませんし、献げものの多さで信仰をはかることは誤りです。
使徒パウロはこの様に言います。 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。(Ⅱコリント8:9)主の貧しさとは、「心を貧しくする」こと、すなわち神様の前で「へりくだる」ことです。ゲッセマネの園で「この杯を取りのけて下さい。しかし、私の願いではなくみ心のままに。」(ルカ福音書22:42)この様に祈られました。神様の前での究極的な「へりくだり」です。「従順」です。しかし考えてみてください。私達の罪を負っての十字架なのですから「へりくだる」「神様に従順になる」これは私たちこそがそうあるべきです。
山上の説教です。 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。 「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。」(マタイ:2,3) 謙虚さをもって主に従う人生。そして私たちがいただく「豊かさ」あふれる人生。それは主の愛の中を歩む人生そのものなのです。ある時イエス様はたとえで語られました。豊作が続いて新しく建てた倉もいっぱいになり、これで一生楽に暮らせると言う金持ちに神様は『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』とおっしゃるのです。そして、自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。 とおっしゃるのです。(ルカ福音書12:20,21)
神様からの恵みを忘れる「尊大な思い」を神様は嫌われます。わたしたちは、聖霊の働きによって週ごとの礼拝に招かれています。忙しさの中から礼拝へと招かれています。そして礼拝において、神様の大いなる愛を思い起すほどに、私達の尊大さが示され、その尊大な思いが砕かれるのであれば、それは大きな恵みに違いないのです。
天使たちは「屠られた小羊は、 力、富、知恵、威力、 誉れ、栄光、そして賛美を 受けるにふさわしい方です。」 万の数万倍とありますから数億の天使がこの様にキリストを賛美したのです。私たちもこの後、讃美歌356番によって力強く主を賛美したいと思います。
13節。 また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊とに、 賛美、誉れ、栄光、そして権力が、 世々限りなくありますように。」ヨハネは天と地と地の下と海にいるすべての被造物が神様とイエス・キリストを賛美する声を聞いたのです。ここで注意したいのは「地の下」にいる被造物です。これはモグラやミミズの事ではありません。ユダヤでは「地の下」は陰府(よみ)を意味しました。使徒信条が「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり」と告白する陰府です。
私はいつも信仰を持たずに亡くなられた方の為に祈ることが大切だと申し上げています。クリスチャンは亡くなった後に神様の御許、「天の国」へ招かれることが約束されています。一方、信仰に至らないで亡くなった方は一旦陰府へ行きます。十字架で亡くなり墓に葬られたキリストは、陰府に降って、福音を受け入れるように伝道してくださるのです。信仰を持たずに亡くなった方がキリストに心を開く様にと祈ることが大切です。そうです。「地の下」の世界、すなわち「陰府」から主を賛美する声が聞こえてくるのであれば、それは主を受け入れること無くして、信仰を持たずに亡くなった方が、キリストを救い主として受け入れたからに違い無いのです。わたしたちの祈りが聞かれたに違い無いのです。なぜなら、「陰府」もまた神様の御支配の下にあるからです。
 
さて、12節で天使たちは、主イエスは誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方 と大声で賛美しました。13節では、すべての被造物は玉座の神様と主イエスとに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、 世々限りなくありますように。と賛美しました。すべての被造物の代表として人間を考えましょう。両方の賛美を比べてみると、天使たちが触れなかった「権力」について、人間は「世々限りなくありますように。」と賛美し祈っています。なぜでしょうか? 天使は主イエスを褒め称えたのに対して、人間は神様と主イエス双方を褒め称えているのだから。「なるほど」と思わせる説明ですが、三位一体の神様を褒め称えることに差を付ける必要はありません。その理由は、天使と人間との差にあるのではないでしょうか。天使は神様の近くにあって神様に仕えることを喜びとしています。一方、人間は生を受けてから召されるまでの間、この世界に留まり喜びだけでなく苦しみも経験します。
先ほど「新聞を開けば、もちろん心温まる出来事も報じられるのですが、何でこんな残酷なことが起きるのだろうか、どうしてこんな不正がまかり通るのだろうか! 毎日理不尽な記事があふれています。」 この様に申しました。この世に有る私たちは神様の「権力」を必要としているのです。この「権力」と翻訳されているのはカラトス(κράτος)というギリシャ語なのです。コロサイの信徒への手紙1章11節には神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。この様にありますが、神の栄光の力と訳されているこの「力」がカラトス(κράτος)です。私たちが日々の新聞が伝えるような現代を生きて行くには神様の「権力」であり「力」が必要なのです。そしてこの力はいかに強いものであり、信頼すべきものなのか私達にハッキリと示されています。十字架での死の三日後に主イエスが復活された。まさに神の「力」の表れです。「死」をも滅ぼす「神の力」です。そして、その同じ力が今日も私たちに注がれていることを知る時と場所、それが私たちの礼拝です。神様の「権力」栄光の「力」によって、私たちはどんなことも根気強く耐え忍ぶことが出来るのです。それが神様の愛なのです。
14節。四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。ヨハネの黙示録は象徴的な表現が沢山用いられているのでハッキリとはわからないのですが、5章6節には わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。とありますから、四つの生き物も長老たちも天上で仕える者たちです。13節「玉座に座っておられる方と小羊とに、 賛美、誉れ、栄光、そして権力が、 世々限りなくありますように。」 天の国では、この賛美であり祈りに対して「アーメン」という声が響き渡り礼拝が行われています。私たちのこの礼拝は天上の礼拝と響き合うのです。

最後に私たちになじみ深い「アーメン」についてです。祈りや賛美の後で、「そうなります様に。」「私も同じ思いです。」と同意したり賛同したりします。聖餐式や洗礼式、さらに結婚式で誓約をしていただいた後で司式者が祈りますがそこでのアーメンには誓約を固く守る決意が込められます。週報に申命記27章9節以下を記しました。祭司を務めるレビ人は、大声でイスラエルの人すべてに向かって宣言しなければならない。「職人の手の業にすぎぬ彫像や鋳像は主のいとわれるものであり、これを造り、ひそかに安置する者は呪われる。」それに答えて、民は皆、「アーメン」と言わねばならない。十戒に代表される「神の戒めを破る者は呪われるのだ。」と宣言されたのに対して「アーメン」と言うことが命じられ、厳しい誓約が求められています。しかし、誓約が求められている内容を見れば、こんなことが人を幸せにすることは無いわけですから、この誓約は私たちが幸せな人生を歩むための厳しさだと理解できます。新約聖書ルカ福音書10章27節です。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とありますが、「この言葉を守り行わない者は呪われる。」という申命記の言葉を補って読むべきです。
ローマの信徒への手紙 13章9節。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。「隣人を自分のように愛しなさい」、そして「この言葉を守り行わない者は呪われる。」「神様と自分と隣人を愛すこと」からの隔たりが「罪」なのですから、呪われることも「アーメン」なのです。申命記21章23節には木にかけられた者は、神に呪われた者だとあります。残念なことですが私たちは「罪」と無縁ではありませんから、呪われて当然な者です。しかし、その呪いをご自分が木に架けられることで代わりに負ってくださった方、その方が主イエス・キリストです。ですから、キリストに従うことで私たちは「罪」が赦され「のろい」から解き放たれるのです。これこそがキリストの愛なのです。この事実を前にして天上で長老たちはひれ伏して礼拝しました。私たちは地上に有ってひれ伏して主を礼拝するのです。 アーメン。