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山形六日町教会

2023年1月29日

聖書:詩編19編8~12節 ローマの信徒への手紙1章18~25節
「神の真理」波多野保夫牧師

説教シリーズ「あなたへの手紙」の23回目です。このシリーズでは、新約聖書に収めている手紙が、現代に生きる山形六日町教会であり、集う私たちに向けて語られている神様の言葉なのだと理解しています。
司式の細矢長老にローマの信徒への手紙1章18節以下を読んでいただきましたが、暫らくは使徒パウロがローマの教会に宛てて書き送った手紙を中心にみ言葉を聞いて行きます。彼がこの手紙を送った背景から始めましょう。律法に忠実であろうとするファリサイ派の指導者であり、サウロと呼ばれていたパウロが、キリスト教を迫害するためにダマスコに向かっていた時です。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いたのは、西暦34年、主イエスの十字架と復活の出来事から数年経っていました。パウロはこの時を境として、キリストを迫害する者から、キリストの故に迫害される者へとなったのです。
西暦47年から56年にかけての10年程の間に3回の伝道旅行を行って、小アジアから地中海の東の端にあるエーゲ海沿岸地方にある都市に教会を生み出すことが出来ました。 しかし、それらの教会が順調に発展して行ったわけではありません。外からはローマ帝国やユダヤ人たちから迫害を受け、教会内部からは偽教師たちが伝える誤った福音であり、クリスチャン同士の争いに悩まされ続けたのです。
そんな教会の混乱に対して、パウロは心を砕き祈りを持って、例えばエフェソの教会へは再び訪問したのですが、2000年前の交通事情です。問題や疑問を抱えた教会に手紙を書き送ったり、弟子を派遣したりして真の福音に立ち返る様に強く求めたのです。
実は、彼が多くの手紙を書き送ったことで、私たちは2つの影響を受けています。一つは聖書通読で読む分量が増えたことですが、もう一つは、正しい福音の理解であり、教会のあり様であり、クリスチャンの生き様(いきざま)をハッキリと知ることが出来るのです。
聖書は聖霊に導かれて書かれ編纂された書物ですから、パウロの2000年前の祈りと労苦は、現代に生きる私たちを愛して止まない神様のご計画ということになります。すごいことだと思います。 教会内部に起こった福音理解の違いですが、ユダヤ教からキリスト教に入ったユダヤ人クリスチャンは律法に浸りきって育った人たちであり、断食や食物規程や割礼などを大切にする傾向を引きずるのは当然でした。様々な神様に仕える文化を持って育った異邦人クリスチャンと福音理解に差が生じるのは、ある意味当然のことでした。 その縮図が、各地から様々な文化を持った人たちが集まる世界の中心、ローマに立てられた教会にあったのは、これもまた当然のことでした。
西暦30年頃の十字架と復活の出来事から50日目に聖霊が降って教会が誕生したのですが、ローマにキリスト教が伝えられたのは、それからさほど時間が経っていない時期だろうと言われます。ペンテコステの日にペトロの説教を聞いて主の福音を信じて洗礼に導かれた3000人の中の何人かが、福音をローマに伝えたのではないかと言われています。
パウロは西暦56年頃にコリントからローマの教会にこの手紙を書き送ったといわれますが、そのころ、ユダヤ各地でローマ帝国に対して民衆の不満が高まっており、メシヤと自称する預言者が大勢現れ、社会は混乱していました。パウロは、各地で力ある福音を語り、力ある業を行ったのですが、メシヤに祭り上げられることを避け、また独立運動に加わることもありませんでした。

3回の伝道旅行の際に生まれた教会は、それぞれの指導者に委ねることが出来るようになっていましたから、彼の伝道は一段落を迎えていました。そんな折、彼の目はまだ福音の種の蒔かれていない地、遠くスペインへと向けられたのです。そしてスペイン伝道の拠点として、ローマに立ち寄り、ローマの教会の支援を受けて遠くスペインの地へ主の福音を伝える。そんな幻を描いたのです。手紙の後半で彼は言っています。イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。(15:24)世界の中心、ローマにはユダヤ人も含めて、帝国の各地からやって来た人達が住んでいましたし、福音が伝えられてから四半世紀の間に様々な教師たちがやって来ており、主の福音理解に相当の幅が生じていたことが容易に察せられます。そんな状況にある教会の協力を得てスペイン伝道を共に行いたいと考えたパウロがまず行ったこと。それは聖霊によって与えられた正しい福音に共に立つ様にと、訪問に先立ってこの手紙を送ることでした。
この手紙を通して主イエス・キリストの福音について語り、私たちが神様から正しい者と見なしていただく為に必要なのは、主イエス・キリストを救い主とする信仰だけなのだ。いわゆる「信仰義認」について語ります。そして、神様に正しい者として受け入れていただいた者は、愛と謙遜と赦しをもってお互いに仕え合い、主イエスを頭とする教会を形作るのです。
福音の中身、特に「信仰義認」については、これから何回かにわたって聞いて行きたいと思いますが、パウロがとった戦略には私たちが受け止めるべき一つの示唆があります。それは教会が一致して歩むためには、共通の福音理解が不可欠だと言うことです。私達の信仰は、日本基督教団信仰告白に表されていますから、洗礼を受け教会員となる際に同意が必要です。それだけではありません。この信仰告白と異なる信仰理解、極端な例ですが、例えば三位一体の神を否定したり、聖書の権威を認めなかったり、キリストが真の神であると同時に真の人であることを否定する。その様な教会とのお付き合いはかなり限定されたものとなるのです。

前置きが長くなりました。1章18節です。 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。 私たちは「神の愛」を語りますし、キリスト教は愛の宗教です。しかし、パウロはここで「神の怒り」を取り上げます。実際聖書は怒る神の姿を伝えています。頑なにエジプト脱出のリーダーとなる事を拒むモーセに、退廃した都ソドムとゴモラに、部下の妻バト・シェバを奪い取ったダビデ王に。預言者たちの時代になると彼らは、契約を守ろうとしない者たち、特に主なる神を捨てて他の神々を礼拝する人々に対して神様の怒りを告げました。 心ある詩人は 神よ、あなたは我らを突き放し 怒って我らを散らされた。どうか我らを立ち帰らせてください。(詩篇60:3)この様に祈りの言葉を述べています。
人が神様を怒らせた出来ごとは、最初の人にまで遡(さかのぼ)ります。蛇の誘惑に負けて言いつけに背いたアダムとエバは、神様の声を聞くと木の間に隠れました。そして禁断の木の実を食べたことを問い詰められたアダムは「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」(創世記3:12) このように答えました。「神様、エバといる様にしたあなたが悪い。」と言うのです。そしてエバは蛇のせいにするのです。神様はエバに生みの苦しみを、アダムに食料を得る苦しみを与えられ二人を楽園から追放されたのです。その際、神は二人に皮の衣を作って着せられた。創世記3章の証言です。
神は御自分にかたどって人を創造されました。(創世記1:27)そして愛する人間が幸せな生涯を歩むようにと、戒めを与えられたのです。アダムとエバには「園の中央の木の果実だけは食べてはいけない。」とおっしゃり、モーセを通してイスラエルの民には「十戒」を与え、主イエスは私達を含めた全世界の民に613の律法を「神様と自分と隣人を愛しなさい」この様に教えてくださったのです。
神様は聖なる方ですから、そのご命令に反すること。すなわち「罪」を放ってはおかれません。これが神の「怒り」です。神様が怒られた原因。その全てが人の側にあることは明白です。それでは、その「怒り」を人はどの様に受け止めたのでしょうか? 古の信仰者はそれを神様の与える鍛錬と受け止めました。ヘブライ人への手紙12章7節。 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 列王記下23章24章によれば、古代イスラエルの人達はバビロン捕囚の辛さ、奴隷の生活であり神殿礼拝を取り上げられた辛さを、自分たちの「罪」に神様が「怒られた」のだと受け止めたのです。
私たちの人生に於いても辛いこと、苦しいことは起こったでしょうし、起こることでしょう。皆さんいかがでしょうか? そんな時に「神様、私の信仰を鍛えてくださってありがとうございます。」この様に素直に受け止められるでしょうか。これは、誰にでも起こり得る重い課題ですが、不治の病を告げられた時に示す典型的な5段階があるそうです。 ショックのあまり、事態を受け入れる事が困難な時期。「どうして自分がそんな目にあうのか?」と、心に強い怒りが込み上げる時期。事態を打開しようと必死になる時期。改善しない事を悟り、気持ちがひどく落ち込む時期。事態をついに受け入れる時期だそうです。
私たちは、主がいつも共にいてくださることを知っています。喜びの時も悲しみの時もです。主が私たちの「罪」を負って十字架に架って死んでくださったことを知っています。その主を救い主と信じて従う時に、わたしたちを「罪のない者」と見なしてくださることを知っています。さらに、主が復活なさったことを知っています。主に従う者に永遠の命が与えられることを知っています。
パウロは言うのです。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(ロマ書6:23) 主イエスはおっしゃいました。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ福音書3:16)
そしてパウロはさらに言います。 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(Ⅰコリント10:13)私たちは聖なる神様が「罪」をいい加減になさらない厳しい方だと知るのです。独り子を十字架に架けるほどに厳しい方なのです。私たちは聖なる神様が私たちを愛したくてしょうがない方だと知るのです。独り子を十字架に架けるほどに私たちを愛したくてしょうがない方なのです。 そんな私たちは残念ながら2023年1月29日においても「罪」と無縁ではありませんし、これからも無縁ではないでしょう。しかし、罪の問題の根本的な解決は、私たちが「罪」を犯す遥か以前に主が十字架を負ってくださったことに依って、なされているのです。私たちが借金して服を買うはるか前にその代金は支払われている。これが神様の愛です。私たちはその事実に気づく必要があります。感謝する必要があります。いただいた衣服は、アダムとエバが楽園から追放される際にいただいた皮の衣であり、信仰と愛の胸当て(Ⅰテサロニケ5:8)かも知れませんが、それを役立てる必要があります。
1章20節21節。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。 確かに私たちは神様が創造されたもの、大自然であり、最先端の科学が解き明かす宇宙の神秘であり、すべての物質の根源である素粒子であり、生物の進化にかかわる遺伝子であり。それらを通して神様の創造の御業の一端を知ることが出来ます。ここに、「あがめる」とありますが、日常使う言葉ではないので辞書を引いてみると、「極めて貴いものとして敬う。礼拝する。」とありました。次に「礼拝」を見ると「神をあがめること、神を愛すること。キリスト教では、神の賛美と祈祷。教会の礼拝では、これと共に聖餐と説教が中心となる。」この様にありました。神様をあがめ、神様を愛するのであれば、必然的に礼拝へと導かれます。しかし、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった時、人は神様を崇めることもせず感謝することもなくなるとパウロは指摘するのですが、そうならないためにも、この礼拝に集うことは大切です。 22節23節。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。 指摘される偶像礼拝ですが、神様でない者に心を奪われるのであれば、それは偶像礼拝です。成績、出世、富、さらに極度の心配も神様の栄光を暗くする偶像礼拝です。織田信長や豊臣秀吉に仕えた千利休は、茶室の外に刀掛けを置き、入り口に高さ66センチ、幅63センチの躙口(にじりぐち)を設けました。刀を置き頭を下げて謙虚な気持ちで入ることで、茶室のなかでは将軍も武士も商人も農民も、身分の隔てが無いことを意味しました。
主イエスはおっしゃいました。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13,14) 私は、この礼拝堂の外に荷物置き場を設け、入り口を高さ66センチ、幅63センチくらいにするのも良いのではないかと思います。ダイエットをしないと入ることが出来ません。もちろん求められるのは「心のダイエット」です。聖なる神様を正しく恐れて神様の前に出るのです。礼拝において謙虚さを取り戻す。その時に見えて来るもの。それは神様の愛に違いありません。これは礼拝が与えてくれる大きな恵みの一つではないでしょうか。
パウロは24節25節で「心の欲望」について語ります。主の言葉です。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ7:20-23) こんなものが人を幸せにすることはありません。ですから、この様な私達であれば神様は「怒り」を発せられます。私たちを愛する所以です。独り子を惜しむことなく私たちの罪を贖うために与えてくださった。その大いなる犠牲が無駄になるので「怒り」を発せられるのです。 私達をこれほどまでに愛してくださる。これが今日の説教題「神の真理」の内容です。祈りましょう。