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山形六日町教会

2023年1月15日

聖書:エズラ記3章2~5節 ヨハネの黙示録4章10~11節
「天上の礼拝、地上の礼拝」波多野保夫牧師

ちょうど1週間前の1月8日、かつて礼拝をごいっしょして来ましたIさんが神様の御許へと召され、11日に葬儀を持ちました。ご高齢になってからは「六日町あいあい」に入所されていましたが、何よりも礼拝に出席して共にみ言葉に聞き祈り賛美し献げることを喜びとしていらっしゃったIさんです。「聖書に聞き、祈る会」では、ご一緒に礼拝を守ることが回復できます様にと祈って来たのですが、収束を見せないコロナ禍でそれは叶いませんでした。葬儀の際に次の様に申し上げました。【神様は、今日この様にIさんの写真を囲んで礼拝を共にすることで私たちの祈りを聞き届けてくださったのです。】さらに、先ほど読んでいただいたヨハネの黙示録が伝えています天上における主イエス・キリストと共に守る礼拝に、諸先輩方といっしょに集っていらっしゃるに違いないのです。

本日の説教題を「天上の礼拝、地上の礼拝」としましたが、旧約聖書が語る礼拝に関してみ言葉を聞くことから始めて行きたいと思います。調べてみたところ聖書に「礼拝」という言葉が最初に登場するのは旧約聖書創世記22章で、アブラハムが愛する独り息子イサクを神様の命令に従って「焼き尽くす献げもの」としてささげる場面においてです。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは従う者たちに言い残してイサクを連れて進んでいきました。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。正にその時に彼は聞きました。「アブラハム、アブラハム その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」手を止め目を凝らしてみると、木の茂みに角をとられた雄羊がおり、息子の代わりにその羊を供えました。「主の山に、備えあり」と言うハッピーエンドです。私は中学生の頃、教会学校の礼拝でこの話を聞いて、「神様ってこんなやり方でアブラハムの信仰をテストするなんてひどいし、イサクの代わりになった雄羊がかわいそう。」この様に思いました。皆さんはどの様に感じられるでしょうか? 
実は聖書には最愛の独り息子を献げるよく似た話が記されています。そうです。主イエス・キリストの十字架の出来事です。ただし、木の茂みに角をとられた雄羊はいませんでした。主は私たちの「罪」の為に死なれたのです。「聖」なる方である故に、罪をいい加減に出来ない神様は、私たちの「罪」を最愛の独り子に負わせることで清算してくださったのです。
確かに聖書には理解しにくい箇所がありますし、私たちの人生にも理解を越えたことは確かに起きます。
神様、なぜなのですか? なぜ私なのですか? なぜ今なのですか? 残念ですが理解できない事は起きます。私はいつもお話ししています。この主イエス・キリストの十字架の出来事は神様が私を、私たちを愛してくださっていることの証拠です。神様は私たちを愛したくてしょうがない方なのです。このことを前提として、理解できないことを見つめ直すのです。アブラハムの神様への信頼、すなわち信仰がこの出来事によって強まったことは確実です。彼の生き方を見れば分かります。
それでは「雄羊がかわいそう」はどうでしょうか? 確かにそう思う面はありますが、神様は人を創造された時におっしゃいました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 動物の命を粗末にすることは許されませんが、人間の肉体を支える食物であり魂を支える神様への献げものとしての羊です。山形はジンギスカン発祥の地でもありました。

話しがそれてしまいましたが、今日聖書から聞き取るのは「礼拝」についてでした。その歴史をたどることを続けましょう。世界にある多くの宗教において「礼拝」を持たない宗教はないと言われています。古来のパレスチナ地方は、バアルと呼ばれる多神教の世界でした。農耕生活に根付いたいわゆる豊穣信仰で、豊作と子孫繁栄を願う儀式が行われていました。
アブラハムの時代、そんな土地に入って行き農耕生活を始めた古代イスラエルの人たちは、天地を創造された唯一の神への信仰を守る戦いが求められましたが、ソドムとゴモラの町は退廃した文化の故に神様の怒りによって滅ぼされてしまったのです。
創世記に続く出エジプト記はエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民の救いの物語です。奴隷生活から解放された人に与えられた「十戒」は、それを守ることで、豊かな人生を歩む様になるための命令であり指示でした。そしてその命令に反することを聖書は「罪」と呼びます。
主イエス・キリストは「十戒」を中心とする律法を「神様と自分と隣人を愛しなさい。」とまとめてくださいました。ですから私たちにとって「罪」とは明白です。「神様と自分と隣人を愛しなさい。」というご命令に従わないこと。これが「罪」です。自己中心な生き方は隣人愛の対極にありますし、神様以外のものへの欲望、名誉や出世や富などだけではありません。極端な心配事が心を支配するのであれば、それは偶像礼拝であり、神様を愛することに反しますから「罪」です。 
さて、古代イスラエルの民は幕屋、テントですね、移動可能な幕屋で礼拝をまもっていました。週報に絵を載せました。時代が下って、紀元前1000年頃にイスラエルの12部族を統合し宮殿を構えたダビデ王は、しっかりした建物で礼拝出来る様に神殿を建てて献げようとしました。しかし、神様は「それは息子のソロモンが行う。」(サムエル記下7:1-13)と許可なさいません。ダビデ王は資材や仕える祭司たちを整えて亡くなり、子のソロモン王によって紀元前965年頃に建てられ献げられたエルサレム神殿は正に礼拝の場でした。 その神殿での礼拝は祭司たちが犠牲を献げる祭儀が中心でした。旧約聖書レビ記には、あなたたちはわたしの安息の日を守り、わたしの聖所を敬いなさい。わたしは主でる。(レビ記26:2)この様に神様の言葉が記され、祭儀の種類別に献げものの規定や祭司や聖所に関して40ページ以上に渡って事細かに記されています。神様に選ばれた民が、安息日に守る礼拝は聖なる礼拝でなければならないからです。
「選ばれた民」と申しましたが、主イエスの誕生以前、すなわち旧約聖書の時代に有って、それはイスラエル民族でした。申命記7章には次の様にあります。7:6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。8 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。(7:6-8)
主イエス・キリストが来てくださって以降、今日2023年1月15日に至るまで、神様の愛は全世界の全ての民に注がれています。しかし、今の私たちの様に共に集って礼拝を守っている者は極めてわずかです。私たちよりも立派な人は多くいるでしょう。ただ、あなたに対する、そして私に対する主の愛のゆえに、この様に礼拝を守ることが出来ているのです。主は山形の地にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされているのです。私たちはこのことをシッカリと覚えて行きたいと思います。さらに申命記は私たちに語ります。 7:9 あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれる。
では古代イスラエルにおける祭儀中心の礼拝はどの様な礼拝だったのでしょうか? アブラハムに始まる選ばれた民としてのイスラエルの歴史は、羊飼いとしての遊牧生活からカナンの地での農耕生活へと変わり、さらにバビロン捕囚と言う危機を経験しました。遊牧民時代には春先に初めて生まれた子羊や子牛を献げて、恵みを感謝し災いを避けることを願いました。神様が創造された動物の血は命そのものであり聖いものとされ祭壇に注がれたのです。エジプトを出る際に鴨居に血を塗ったイスラエル人の家を災いが過ぎ越した出来事(出エジプト12:23)が思われます。この礼拝で犠牲として献げられた動物はみんなで食べたそうです。神様との交わりと隣人との交わりが礼拝の場で起こるのです。私は愛餐会が再開できることを願っています。農耕生活に移った時代には、罪を赦していただくため、和解のための動物の犠牲に加えて、穀物やぶどう酒や果物も献げられ、聖所には安息日ごとに取り代えられる12個のパンが「神様の食物」として献げられました。聖餐式においてご自身を献げられた主の体の象徴としてパンを、流された血の象徴としてワインが定められたことに通じるのでしょうか。祭儀における献げものには、与えてくださった恵みに対する感謝と、願いを叶えてくださいとの思いの双方があったことでしょう。
以前、重い病気にかかった方の祈りを紹介しました。「神様、この病気が治ったら与えてくださった私の財産を全て献げます。どうか叶えてください。」家族や教会の祈りと現代医学の力によって病状が快方に向かうと「半分献げます。1/4献げます。」となって行ったそうです。最後がどうなったのかは知りません。祭儀に於いてささげられた犠牲は、私たちの礼拝での献金でしょう。私は「喜びの範囲でささげてください。ただしチョットだけ無理をしてください。」この様に申し上げています。献金は感謝の表現であり、献金できることは喜びです。余ったから献げるものではありません。もちろん、昨今話題となっている高価なツボを買うようなものでもありません。
古代イスラエルは安定した農耕生活の中で、ダビデやソロモンと言う優れた王の登場によって栄華を極めました。しかし、この繁栄はまた神様の恵みを忘れさせるものだったのです。神を愛することを忘れた者たちは既に「罪」の奴隷となっていました。繁栄の時代に現れた預言者アモスが伝える神様のみ言葉を週報に記しました。「祭り」とあるのは祭儀であり礼拝です。5章21節以下です。5:21 わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。 たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても 穀物の献げ物をささげても わたしは受け入れず 肥えた動物の献げ物も顧みない。 お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせよ。 イスラエルの家よ かつて四十年の間、荒れ野にいたとき お前たちはわたしに いけにえや献げ物をささげただろうか。 今、お前たちは王として仰ぐ偶像の御輿や 神として仰ぐ星、偶像ケワンを担ぎ回っている。それはお前たちが勝手に造ったものだ。 わたしは、お前たちを捕囚として ダマスコのかなたの地に連れ去らせると 主は言われる。その御名は万軍の神。 預言者アモスの預言の通りかつて栄華を誇った南ユダ王国は紀元前587年、バビロニアによって滅ぼされてしまい、バビロン捕囚が始まりました。
数年来のコロナ禍によって閉塞感の高まっている世界ですが、欧米や日本などいわゆる先進国において、教会の衰退は目に余るものがあります。残念なことですが「神様と自分と隣人を愛する」ことに目覚めた者が減っているのです。これが重い現実です。私たちが諸先輩から受け継いだ信仰をどの様に次の世代に受け継いでいくのかが問われます。近年のコロナ禍で正確な統計は難しいのですが、世界に目を向ければ、発展途上国において教会は成長を続けているそうです。希望を持つことは出来るのです。
山形六日町教会は主のみ言葉 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ福音書28:18-20) このみ言葉を重く受け止めて歩む2023年でなければなりません。
さて紀元前538年バビロン帝国の滅亡によってエルサレムへ帰ることが許された人々がどうしたのか。最初に読んでいただいたエズラ記が伝えています。祭壇を築き焼き尽くす献げものを献げました。焼き尽くす献げものは羊や牛の脂肪を焼き、立ち上る煙と香りを献げものとしたのですが、これは感謝と罪の赦しを願う礼拝です。礼拝の回復はまた神様との正しい関係の回復なのです。
ここまで旧約聖書が伝えるイスラエルの歴史の中で、礼拝について見て来ました。私たちが週ごとにささげている礼拝と大きな違いがあると思われたことでしょう。私たちは礼拝で動物の犠牲を献げることはしませんが、私たちが「罪」を犯さないからではありません。「神様と自分と隣人を愛さない、愛せないこと」は残念ですがあります。にもかかわらず犠牲が必要ない理由。それは主イエス・キリストがご自分をささげてくださったからです。完璧な犠牲ですから、主を信じて従う私たちの「罪」は許していただけます。私たちの礼拝では神様のみ言葉を聖書から聞き、信仰告白に則ったその解きあかしの説教を聞きます。共に祈り賛美し献げます。主が共にいてくださることを一番身近に感じる喜びの時、それが私たち礼拝の時なのではないでしょうか。
最初に読んでいただいたヨハネによる黙示録は、諸先輩がたが今集ってらっしゃる天上の教会での礼拝の様子を伝えています。24人の長老はイスラエルの12部族と世界に遣わされた12使徒を表しますから、全世界の民の代表です。冠を玉座の前に投げ出すとは、へりくだった姿で従順さの表れです。そして心の底から告白します。「主よ、わたしたちの神よ、 あなたこそ、 栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、 御心によって万物は存在し、 また創造されたからです。」
私たちが週ごとに献げるこの礼拝の確かさは、実は諸先輩がたがこの様に告白し献げている天上での礼拝と、主イエスキリストを通して繋がっている。この一点にあるのです。ですから地上における私たちの礼拝はそれにふさわしく守ることが求められています。
ヨハネによる福音書4章23節24節にある主の言葉です。まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。私たちは今この時、恵みの時を主に感謝したいと思います。 祈ります。