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山形六日町教会

2023年1月1日

聖書:詩編96編 エフェソの信徒への手紙5章6~20節
「光の子として生きる」波多野保夫牧師

新しい年、2023年を迎えました。今年は元旦が日曜日に当たり、文字通り主を礼拝することで始まる一年です。新年のご挨拶は礼拝後にみんなで行いたいと思います。
早速、主のみ言葉を聞いて参りましょう。日本基督教団信仰告白には、「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証しし、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。」この様にあり、また私たち改革長老教会にあっては、礼拝において旧約聖書と新約聖書双方から主の言葉を聞く伝統があります。
先ほど司式の細矢長老にはエフェソの信徒への手紙だけを読んでいただきましたが、大みそかに夜更かしをしたせいで旧約聖書を読んでいただくのを忘れたわけではありません。
ご一緒に交読をした詩編96編に注目してみ言葉を聞きたいと思いました。 新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。国々に主の栄光を語り伝えよ 諸国の民にその驚くべき御業を。この様に始まる詩編96編です。新しい年を主の豊かな恵みをいただきながら歩み初めて行くのにふさわしい詩編です。私たち山形六日町教会はこの2023年にどの様な新しい歌を主に向かって歌い、そしてどの様にして主のみ名を讃え、主の救いのみ業、福音を告げ知らせるのでしょうか。週報の裏面に旧約聖書歴代誌上16章を記しましたが16節以下にこの詩編96編が引用されています。ダビデ王が「契約の箱」をエルサレムに建てた幕屋に迎え入れた時のことです。この「契約の箱」には、かつてモーセに与えられた十戒を記した石の板とマンナの入った壺とアロンの杖が収められていました。(ヘブライ人への手紙9:4)この歴代誌上16章には「神の箱の前で儀式を始める」と言う小見出しが付けられていますが、この儀式とは「礼拝」です。ですからダビデ王の時代から3000年の時を隔てて礼拝に集う私たちにも語られているみ言葉です。
詩編96編を読み解いて行くと、1節から6節は礼拝に集う私たちに、「栄光の主を褒め称えよ!」と命じます。神様に向かっての賛美の歌声はもちろんですが、新しい歌は新しい祈りでもあります。「ありがとう、ごめんなさい、お願いします。」ですね。感謝・懺悔・お願いの祈りです。
5節に注目しましょう。諸国の民の神々はすべてむなしい。昨年起きた事件以来、聖書の言葉を都合よく用い、教祖をメシア・救い主だと主張するカルト集団が注目されていますが、むなしい神々はカルト集団にとどまりません。私たちの心を、富や権力や名誉その他の欲望が捉えて支配するのであれば、それは空しい神々です。私たちを支配する方、私たちがそのご命令に従がわなければならない神は、父・子・聖霊である三位一体の神以外にありません。なぜなら三位一体の神様はどんな時にあっても私たちの幸せを願い、私たちを愛してくださる「愛の神様」だからです。そして、その方を賛美し新しい歌、新しい祈りを捧げる、これが私たちの礼拝です。
7節から9節は礼拝する人達が、栄光と力の源(みなもと)が神様にあることを思い、感謝の献げものを携えて集う姿です。
10節から13節に主は諸国の民を公平に裁かれる。主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き 真実をもって諸国の民を裁かれる。とあり、裁くと言う文字が4回繰り返されています。
今父なる神と共に天にいらっしゃる主イエス・キリストが再び地上に来られ裁きを行われる時、「終末」の時、「裁き」の時が必ずやって来るのです。2022年は様々な問題を残したまま暮れました。2023年は様々な問題を抱えたまま始まりました。そんな中にあって、私たちは次の様に言うことが出来るのです。「天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ 海とそこに満ちるものよ、とどろけ 野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め 森の木々よ、共に喜び歌え」 なぜなら、私たちは終末に至るまで変わることの無い主の愛を知っているからです。これが、先ほど交読した詩編96編なのです。
新約聖書エフェソの信徒への手紙5章6節。むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。
詩編96編5節には、諸国の民の神々はすべてむなしい。とあり、三位一体の神様以外のものが私たちの心を支配するのであれば、それは空しい偶像だと語りました。そんな者の仲間に引き入れられるのであれば、そこに幸せな人生は待っていません。
8節。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 パウロは「あなた方は以前暗闇に住んでいた。」とは言っていません。「あなた方自身が暗闇だった。」というのです。「主イエス・キリストの愛を知る前は、自分が暗いだけではなしに、周りも暗くしていた。あるいは光がさすのを妨げていた。」と言うのです。
「波多野先生2つ質問があります。一つはキリストの愛を知る前の私も周りの人を暗くするようなことは、そんなに無かったと思います。もう一つは、キリストの愛を知った後もそんなに立派になったわけじゃないんです。」 二番目の質問から行きましょう。確かにクリスチャンがまだ信仰を持ってない人と比べていつも立派だと言うことはないでしょう。隣人の為に心を砕き愛を届けている素晴らしい人は大勢います。でも私たちはキリストが十字架に架ってくださったことで「罪」が赦されたこと、神様が「罪」のない者とみなしてくださることを知っているのです。そして、聖霊が心の内に住んでくださるのですから、これは大きな違いです。私たちは聖霊の導きに素直になることが必要です。
最初の質問は「キリストの愛を知らなかった時もそれほどの悪人ではなかった。」ですね。悪人かどうかの判断であり裁きは主にお任せしましょう。詩編96編10節以下で詩人は歌いました。主は諸国の民を公平に裁かれる。主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き 真実をもって諸国の民を裁かれる。 私たち主の愛を知った者がなすべきこと。それは、国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる。天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ 海とそこに満ちるものよ、とどろけ 野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め 森の木々よ、共に喜び歌え 主を迎えて。こんな2023年でありたいと思います。
パウロは言います。エフェソの信徒に向かって、そして私たちに向かって言うのです。5章9節10節。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。主はおっしゃいました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12) 素晴らしい約束の言葉です。
何が主に喜ばれるのでしょうか? 喜んでいただけるのでしょうか?
「一年の計は元旦にあり」この様に言われます。戦国の武将毛利元就が長男に書き送った教訓と言う説や、中国の明時代の馮慶京(ひょうおうきょう)という学者の言葉が起源だと言う説があるそうですが、いずれにしろ、今日2023年の元旦にあって、主に喜ばれる 計画を立ててみてはいかがでしょうか。日記やメモに書き留めると良いでしょう。
それでは、どんな計画を立てれば良いのでしょうか? 「突然言われましても」と言いたくなるかも知れませんが、パウロはそのヒントを与えてくれます。
5章11節。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。 2022年の反省から初めてはいかがでしょうか? 「神様と自分と隣人を愛しなさい。」この神様の御命令に対して、自分の2022年はどの様だったのかを思い起すのですが、その前にまずやるべきことがあります。2022年にいただいた恵みを数え上げるのです。いかがでしょうか? そしてその上で至らなかったこと、犯した「罪」を思い起してください。
13節。すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。 全てをご存知の神様です。隠しても無駄です。思い当たることがあるでしょう。
次に悔い改めの祈りです。「ごめんなさい。」と心を込めて祈るのであれば 14節。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」実はこれこそが、神様が私たちに望んでいらっしゃる事なのです。主イエスはおっしゃいました。マタイ福音書5章にある山上の説教です。
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(5:14-16) 主の愛を知る私たちは「世の光」なのです。詩人の言う「むなしい神々に囚われている者。」パウロの言う「むなしい言葉に惑わされている者。」すなわち「神様と自分と隣人を愛する事」から離れて「罪」の奴隷になっている者だとすれば、主の愛の中で生きる者ではなく「眠りについている者」となってしまっているに違いありません。この14節にあるカッコに囲まれた言葉、「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」 この言葉は初代教会における洗礼式の際に語られた言葉だろうと言われています。私たちの人生は主の大いなる愛の中にある喜びの人生です。すでに洗礼を受けた方は恵みの日を思い起してください。もし、今暗闇が心を覆っているのならば「起きよ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」のです。心の扉を開いて主をお迎えしてください。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)この様におっしゃる方が心の闇を払ってくださるに違いありません。まだ洗礼に至っていない方はぜひ2023年の計画に加えていただきたいと思います。主の恵みの中をご一緒に歩んでいただきたいと思います。
さて、パウロが与えてくれる「あなたの2023年の元旦の計」へのヒントであり導きです。5:15 愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。16 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。17 だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。旧約聖書箴言は主の愛を知ることこそが最高の知恵であり知識だと語り諭しの言葉を与えてくれます。人の愚かさについてです。主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。(1:7) 浅はかな者は熟慮することを覚え 愚か者は反省することを覚えよ。(8:5) うそを言う唇は憎しみを隠している。愚か者は悪口を言う。(10:18)  愚か者は悪だくみを楽しみ 英知ある人は知恵を楽しむ。(10:23) 諭しを愛する人は知識を愛する。懲らしめを憎にくむ者は愚かだ。(12:1) 知恵ある人は畏れによって悪を避け 愚か者は高慢で自信をもつ。(14:16)
そして、神様の前で謙虚であることがいかに大切かをおごれる者ヘの皮肉を込めて語るのです。自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。(26:12) 
エフェソの信徒への手紙5章18節に戻ります。 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。 これは、最後の晩餐の席にぶどう酒が用意されていたことからも、禁酒、あるいは断酒の勧告ではなく「酒におぼれるな、酒に飲まれるな」ということです。無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。この様に語るパウロはガラテヤの信徒への手紙5章19節以下で禁止事項を述べています。5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。こんなことが人を幸せにすることは絶対にないから禁止します。そして続けて「元旦の計」のヒントを次の様に語っています。 5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
この礼拝の時を通して、さらに自宅において、2022年に神様が与えてくださった大いなる恵みを数え上げることから始めて、悔い改めるべきことに思い至り、さらに2023年の計画であり目標を祈りの課題を書き留めてください。

20節。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。こんな私たちの2023年でありたいと思います。
19節のパウロの言葉です。霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。
詩人は歌いました。新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
この後、讃美歌268番1節と4節を賛美します。
「朝日は昇りて 世を照らせり、暗きに住むひと、来たりあおげ。知恵に富みたる主 世にいでたり、この世の悟りも むなしきもの。」
「救いを賜う主 世に来ませり、すべての人びと 来たり祝え。天地のあるじ 世にあらわる、造られしものは 動きうたえ。」
クリスマスの日にお迎えした主に喜んで従う2023年を、光の子として歩んで参りましょう。祈ります。