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山形六日町教会

2022年12月25日

聖書:イザヤ書44章6~8節 ヨハネの手紙Ⅰ4章11~21節
「愛には恐れがない」波多野保夫牧師

クリスマスおめでとうございます。4週間に渡ってアドベントの礼拝を守って来ましたが、このクランツの中心にあります白いロウソクに灯がともされています。「キリストのロウソク」と呼ばれ私たちのところに来てくださった主イエス・キリストの地上における生涯の象徴です。白は純潔を表し、罪を犯すことが全く無かった救い主に相応しい色です。そしてキリストを救い主としてお迎えする者もまた、罪が洗われて雪よりも白い者とされるのです。 心の扉を開いて主イエス・キリストをお迎えすることで、私たちは罪のない者と見なしていただけるのです。
アドベント第2週、12月4日の礼拝から旧約聖書イザヤ書と新約聖書ヨハネの手紙Ⅰから、2000年前のクリスマスの日に「真の人」すなわち100%人間として乙女マリアから誕生された「真の神」主イエス・キリストがどういう方なのかを聖書の証言によって聞いて来ました。
今日もまず旧約聖書イザヤ書から読んでいきましょう。イザヤ書44章6節。イスラエルの王である主 イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。 このイザヤ書には、紀元前6世紀バビロニア帝国との戦いに敗れたユダヤの人たちが奴隷としてバビロンに連れて行かれたバビロン捕囚の時代に、預言者イザヤが語った神様のみ心が書き留められています。
チョット余談になりますが、ユダヤ人、イスラエル民族、あるいはヘブライ人とも呼ばれますが、主イエスが来られる以前の時代にあって、天地を創造された唯一の神様に選ばれて愛された民族であり人々のことです。呼び名は違っても同じだと考えてください。
イエス・キリストが誕生される以前の時代に於いて、神様はアブラハムの子孫に当たるイスラエル民族を選んで、まず神様に従う幸せを得させようとされました。旧約聖書には神様がイスラエル民族を依怙贔屓(えこひいき)される場面が沢山登場します。実はこれは神様の作戦だったのです。まずイスラエル民族が、神様に従うことで幸せを手にする。その様子を目の当りにした他の民族も神様に従うようになり、その結果私たち日本人も含めてすべての人が神様の許で幸せを手にする。しかし、この作戦はイスラエルの人たちが神様に従おうとしないで勝手なことばかりしたために前進しませんでした。
「だったら神様は何でもできる方なのだから、世界中の人に命令して従わせちゃえばいいのに。」もっともな考えですが、神様は人間がロボットみたいになることを望まれません。心と体を与えて自分で判断し行動することを望まれます。なぜそんなまだるっこいことをなさるのでしょうか? その理由は分かりません。でも、逆らい続ける人間をロボットにする代わりになさったことが何なのかは分かります。 クリスマスの出来事に始まった主イエス・キリストの生涯がそれを証ししているからです。いや主イエスの生涯だけではありません。
誕生に先立つ時代も、そして今日2022年12月25日においても、神様が全て創造された者を愛していらっしゃる。皆さんを、そして私を愛してくださっている。この事実が世の終わりまで続くことを聖書が語っているからです。
イザヤ書44章6節。 イスラエルの王である主 イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。
神様は「初め」であると言われます。天地を創造された方です。「終わりである」と言われます。キリスト教の世界観には世界の初めだけでなく終わりがあります。聖書は「終末」、すなわち今神様の御許にいらっしゃる主イエス・キリストが再び地上に来られて裁きを行い、この世の悪を全て滅ぼされる勝利の日を語っています。絶対的な苦しみの中にあった黒人奴隷たちが祈り、希望を託したのがこの「終末の日」でした。 わたしは初めであり、終わりである。 神様は歴史上の全ての時代において唯一の神様であり、その神様の愛は変わることの無い愛なのです。だったら黒人奴隷たちをすぐに開放してあげれば良かったのに。残念に思いますが奴隷商人や農園主たちをロボットの様には扱われませんでした。多くの人を奴隷解放運動の為に立ち上がらせ用いられたのです。  現代においても社会正義に反することが多くあります。例えば、子供の世界から大人の世界にまで及ぶ“いじめ”。神様は私たちにその解決を委ねられていることを覚えたいと思います。 44章8節。恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ 告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。神様のなさったこと、与えてくださった恵みを思い起して 恐れるな、おびえるな。神様を信頼しなさい。この様に告げるのです。そしてこの真理はそれから2500年以上たった今日の私たちにも、聖書の証言を通して告げられるのです。当時のイスラエルの人と私たちとに注がれている神様の愛は変わりません。しかし、大きな違いが2つあります。私たちがクリスマスの出来事によって始まった主イエス・キリストの出来事を聖書の証言によって知っていることと、神様の愛がイスラエルの人たちだけではなく全世界の人に注がれていることです。
新約聖書ヨハネの手紙Ⅰからみ言葉を聞きたいのですが、その前に私たちの神様が「三位一体」の神様だと言うことに触れておきましょう。「父なる神」は全知全能の方で全てを創造なさいました。「御子イエス・キリスト」、クリスマスの日にマリアから誕生された「真の人」であると同時に「真の神」です。「聖霊」は今も私たちに働きかけてくださる神です。
「じゃあ3人の神様ですか?」そうじゃないんです。本質を一つとする一人の神様です。その本質とは「愛」です。三位とはその「愛」の見え方、感じられ方の違いでもあるのです。
分かったような、分からないような話ですね。確かに神様の本質を人間の言葉で表現しきることは出来ません。もしそれができるのなら、人間が作り出したものでしょう。父・子・聖霊の神様はその本質を一つとする三位一体の神様です。そしてその本質は「愛」なのです。チョット難しい話をしてしまいました。  新約聖書ヨハネの手紙Ⅰ 4章11節12節。 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
主イエス・キリストの弟子として3年半を共に過ごしたヨハネは神がこのようにわたしたちを愛されたと証言します。彼はどの様なことで三位一体の神様の愛を知ったのでしょうか。
主イエスの教えを直接聞き、力ある業を直接見ることで、神の独り子が「救い主」として来てくださったことを知りました。十字架の出来事に立合い、全く罪のない方が私たちの罪を全て負ってくださった、その大いなる愛を知りました。さらにその3日後に復活された主にお会いしたことで死に勝利されたことを知りました。さらに誕生した教会が数々の困難や迫害の中で成長していくことで、生きて働かれる聖霊の愛を知ったのです。
ヨハネは言います。神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。ヨハネは続けて言います。いまだかつて神を見た者はいません。
これは「天地を創造された神様を見た者はいない。」という意味です。彼は別のところでもう少し正確に語っています。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(ヨハネ福音書1:18)
あまりにも聖なる方、清い方、父なる神様を見た者は死ぬと言われていました。(創世記32:32、出エジプト3:6) 「真の人」として来てくださった主イエスだけを目にすることが出来たのです。そして主イエスは私たちを愛して止まない神様のお考えを100%正確に伝えてくださり、その主イエスをお迎えするのがクリスマスです。私たちは聖書の証言によって三位一体の神様が示された大いなる愛をしります。十字架と復活の出来事は三位一体の神様が示された大いなる愛です。そして教会は2000年の歴史を通して時々に注がれる神様の愛を知りましたし、山形六日町教会の135年の歴史も神様の愛によって導かれた歴史です。それだけではありません。私たちの日々の生活においても聖霊は働いてくださっています。
神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。イエス様はかつておっしゃいました。「神様と自分と隣人を愛しなさい。」(マタイ22:36-40) 皆さんにとってこのご命令いかがでしょうか? もちろん自分を愛することとは、好き勝手に振舞うことではありませんし、暴飲暴食を避けて健康に気を配ることだけではありません。
神様からの愛を受け止めて、皆から愛され幸せな人生を送ることが「自分を愛す」ことです。これって結構大変です。隣人を愛すること。これはさらに大変なんです。
今、となりの席に座っている人、あなたの隣人です。自分の家族や親しい友人も隣人ですし、隣の家の家族、隣人です。それだけではありません。学校や職場の同僚も隣人。食べ物が無くて困っている人、悲しんでいる人、隣人です。愛してください。神様が喜んでくださいます。
しかし、それだけではありません。イエス様はおっしゃいました。「敵を愛し、あなたを憎む者に親切にしなさい。」(ルカ6:27)さらに「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
これはなかなか難しいことではないでしょうか? 苦手な人、いやな人、顔も見たくないヤツを愛しなさいです。出来るのでしょうか? しかし、みんながこれをすれば、本当の平和、本当に楽しい喜びに満ちた世界になることは確かに思われます。実は聖書は「神様と自分と隣人を愛しなさい。」このご命令に反することを「罪」と呼びます。
みんなを愛し幸せな人生を送って欲しいと願っている神様は聖なる方ですから「罪」を赦されません。聖書には「罪の支払う報酬は死です。」とありますが、これは肉体の死であり魂の死です。
神様との断絶、神様の愛の外に置かれることになるからです。しかし、私たちを愛したくてしょうがない神様がなさったこと。それがアドベントの間、読んできたイザヤが預言した、救い主が来てくださることであり、救い主が私たちの罪を負ってくださることです。
平たく言えば、隣人を徹底して愛すことの出来ない私たちの罪の落とし前を付けてくださり、神様の愛の中を歩む人生を取り戻してくださることなのです。クリスマスの出来事であり、十字架と復活の出来事を知る教会は2000年の間毎週の礼拝を守りクリマスを祝い、イースターを祝い感謝してきたのです。 この白い「キリストのロウソク」に象徴される、罪を犯すことの全くなかった主イエス・キリストが私たちの罪の為に十字架に架ってくださった。それだけではありません。その主を心にお迎えして従う者に永遠の命を与えてくださるのです。いつの日にか必ずやって来る肉体の死、その死の先にまで続く永遠の命を与えてくださるのです。
ヨハネの手紙Ⅰ 4章13節以下を読んでいきます。神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。私たちを愛したくてしょうがない神様です。
「波多野先生、クリスチャンは「神様と自分と隣人を愛しなさい。」このご命令を守らなきゃいけないのですか?」 その通りです。神様は守ることが一番幸せなのだとご存知の上で命令されるのです。「それでは守れるのですか?」 残念ながらいつでも守ると言うことは出来ないでしょう。クリスチャンも「罪」を犯すのです。「じゃあ信仰はあっても無くても同じですね。」 
3つの点で違います。どんな時でも主が共にいてくださることを感じます。聖書に親しみ祈り礼拝に集うことで自分の犯した「罪」、愛に欠けていたことに気づくことが出来ます。そして「罪」に気づいた時に立ち返るところを知っています。2000年前に十字架に架ることで「罪」の問題を根本的に解決してくださった方の下に帰るのです。 16節17節。 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。  ヨハネは続けます。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。 クリスマスは、神様の素晴らしいご計画を賛美し、救い主として地上に来てくださった主イエス・キリストに感謝し、今も私たちに愛をもって働きかけてくださる聖霊をあらためてお迎えする日なのです。先ほど讃美歌265番を賛美しました。4節には「み使いのうたう平和来たり、久しく聖徒の待ちしくにに、主イェスをわれらの君とあがめ、あまねく世の民 高くうたわん。」この様にありました。ヨハネは神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。この様に言いましたが真の平和は皆が主イエス・キリストを愛することで実現できます。そして真の平和への道はロボットではない私たちに委ねられているのです。この後ハートフルコースのメンバーが「アベ・マリア。おめでとうマリア」を賛美してくれます。突然現れた天使は「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。マリア、恐れることはない。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と告げました。そして戸惑うマリアに「神にできないことは何一つない。」と続けました。神様を愛していたマリアの答えです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」 4章18節。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。 それに続いて讃美歌261番です。「もろびとこぞりて いざ、むかえよ。久しく待ちにし主は来ませり、主は来ませり、主は、主は来ませり。」 クリスマスの日に「真の人」として私たちの世界に来てくださった「真の神様」を喜んでお迎えしましょう。私たちはこのクリスマスの喜びの本当の意味をまだ知らない多くの人に届けたいと思います。祈りましょう。