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山形六日町教会

2022年12月18日

聖書:イザヤ書11章1~5節 ヨハネの手紙Ⅰ3章5~10節
「正しい人」波多野保夫牧師

アドベント第4週です。8時45分から始まるCSの礼拝で、お友達が灯してくれた4本のロウソクが明るく輝いています。先週の礼拝ではアドベント・クランツの歴史を紹介し、さらに毎週灯されるロウソクにつけられた意味合いを3本目まで紹介しました。クリスマス礼拝は12月25日以前の日曜日に守る習慣があります。25日が日曜日以外の年はクリスマス礼拝の日に、クランツの緑の輪の上にあります4本目のロウソクを灯し、中央のロウソクは12月24日クリスマス・イブ礼拝の日に灯すのですが、今年は12月25日が日曜日に当たりますので、今日18日に4本目を灯し、来週クリスマス礼拝の時に中央のロウソクに灯を灯すことになります。
そもそも私たちが日曜ごとに礼拝を守るのは、十字架に架ってくださった主イエスが復活された日を覚えて、神様の大いなる愛を思い起すためです。日曜日と、神様の独り子が「真の人」として来てくださった記念の日が重なるのは、長いコロナのトンネルの中にある現在、特にうれしく思います。クリスマスの礼拝を大勢の方と豊かに持ちたいと思います。

さて、先週アドベント第一週に灯される1本目のロウソクは「預言者のロウソク」と呼ばれることをお話ししました。神様のみ心を伝えるイザヤの預言から700年以上待ち続けた人たちにもたらされた「世の光」は、2700年後の私たちに与えられる「希望の光」なのです。
2本目は「ベツレヘムのロウソク」と呼ばれ、「キリストが寝かされた飼い葉桶」を表します。貧しさと弱さの中での誕生は、私たちに寄り添ってくださる方の愛の象徴です。多くの方々と分かち合いたいと思います。
3本目は「羊飼いのロウソク」と呼ばれ、喜びを表します。羊飼いは、貧しいだけではありません。町に住む人たちから、胡散臭い連中だと疎(うと)まれ虐(しいた)げられていました。神殿での礼拝に参加できない羊飼いたちに、まず喜びの知らせは届けられたのです。現代において主の福音を届ける務めが教会に委ねられていることを覚えたいと思います。
さて今日灯された4本目は「天使のロウソク」と呼ばれ平和の象徴です。ルカ福音書2章13節14節が読まれます。 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」神様がなさる事を天使たちが賛美しました。私たちも地に平和を願いたいと思います。祈りたいと思います。
そして来週、クリスマスの日に灯しますクランツの中央にある白くて太いロウソクは「キリストのロウソク」と呼ばれます。私たちのところに来てくださった主イエス・キリストの地上における生涯の象徴です。白は純潔を表し、罪を犯すことが無くシミの無い救い主に相応しい色です。そしてキリストを救い主としてお迎えする者もまた、罪が洗われて雪よりも白い者とされるのです。
イザヤ書1章18節が読まれます。 論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも 雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても 羊の毛のようになることができる。心の扉を開いて主イエス・キリストをお迎えすることで、私たちは罪のない者と見なしていただける。この約束はすでに2700年前に与えられています。
先週次の様にお願いしました。「後ほど、お子さんに、お孫さんにそして何よりご自分の心に、主をお迎えする喜びを語っていただきたいと思います。愛に満ちたクリスマスの思い出を自分の心に、そして主に語り掛けて感謝する。これが祈りです。その時、私たちの心の中のアドベント・クランツに主が希望の光を灯してくださることでしょう。」いかがでしょうか? 皆さんの心の中のアドベント・クランツにも灯が灯され、明るさを増したことでしょう。

さて、先ほど読んでいただいたイザヤ書11章1節です。 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育つとあります。エッサイはダビデ王の父親です。ダビデが王位についたのが紀元前1000年頃です。ルカ福音書は主イエスの誕生に関して2:4 ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。この様に語り始めています。
イザヤが預言したひとつの若枝はダビデ王の子孫として、この世に来てくださった主イエス・キリストです。ダビデ王が活躍したのが紀元前1000年、イザヤがこの神様の言葉を告げたのが紀元前700年代でした。主イエスの誕生がほぼ西暦1年、十字架と復活の出来事が西暦30年頃でした。そして私たちは2022年12月18日に、この様に恵みに満ちた礼拝を守っています。3000年もの間、神様の愛は変わることなく注がれ続けているのです。これって本当に素晴らしいことではないでしょうか?
11章2節に 主の霊がとどまる とありますが30歳になった主がヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時です。 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。(マタイ福音書3:16,17)父なる神、御子イエス・キリストそして聖霊が共にあり、私たちを愛してくださることにおいて一つなのです。

さて、聖書は主イエス・キリストが担ってくださる3つの役目について証言しています。
一つ目が預言者です。その言葉と業によって神様のみ心、私たちを愛して止まないみ心を正確に伝えてくださいました。
二つ目が大祭司、父なる神様に真心を持って仕え私たちの罪の赦しの為の犠牲を献げられました。ご自身の命を献げられました。
最後が王の務めです。世界の全ての民を治め究極の平和をもたらす王です。イザヤはここで主イエスがどの様な王なのかを語ります。知恵と識別の霊。識別とは何が真理なのか、真実は何かを知ることです。思慮と勇気の霊。軽はずみなことをしない怖気(おじけ)づかない。古代の王は国を導くだけではなく裁きも行いました。箴言は9:10 主を畏れることは知恵の初め 聖なる方を知ることは分別の初め。と語ります。主を知り、畏れ敬う霊。現代の指導者たちに一番求めたいことです。
指導者だけではありません。私たちも同じです。主を畏れることは知恵の初め 聖なる方を知ることは分別の初め。知恵と分別を欠いたところに争いが起こることは、新聞やテレビのニュースを見るまでもないでしょう。
イエス・キリストは父なる神を畏れ敬う霊に満ちている方です。十字架を前にしたゲッセマネの園で祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ福音書22:42)ここに、父なる神を畏れ敬う究極の従順を見る私たちは、この主イエスに倣う者になる様に求められています。
ローマの信徒への手紙15章5節6節。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。「波多野先生、パウロの言うことがその通りだと分かるのですが、全く罪を犯すことの無かった、クランツの真ん中のロウソクみたいに真っ白なイエス様に倣うなんて無理です。」 
確かにパウロが自分のことを「罪びとの頭」(Ⅰテモテ1:15)、一番の罪人だと言っているのですから、私が真っ白になるのは無理でしょう。しかし、主イエスに似た者なっていくことは、一歩一歩幸せな人生の階段を昇る事ではないでしょうか。自分に注いでくださっている大いなる愛を感じるほどに主に近づいて行くのではないでしょうか。主に倣って、こんなことから始めて見るのはどうでしょう。
イザヤ書11章3節「目に見えるところによって裁きを行わず」とあるのを、外見で人を判断しない。「耳にするところによって弁護することはない。」は、うわさばなしで判断して、味方したり敵に回したりしない。もっとも、裁くことは神様にお委ねして、私たちは敵の為に祈ることが求められているのでした。主は 弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護 してくださる方だから裁きはお任せすれば良いのです。
その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。とイザヤは語りますが、主に従わない者の魂は既に死んだ魂です。主の愛は「甘やかし」ではありません。もっと深い愛です。厳しく悔い改めを求めて魂と肉体の死を乗越えさせてくださる愛です。主はおっしゃいました。 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ福音書11:25,26)私たちがクリスマスの日にお迎えする方はこの様におっしゃり、信じて従う者に永遠の命をくださる王様なのです。
新約聖書ヨハネの手紙Ⅰ3章5節から10節を読んでいただいたのですが、 あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。 ヨハネはこの様に宣言します。まさにクリスマス・クランツの中央にある白いロウソクが「キリストのロウソク」と呼ばれる所以です。ご自分に罪がないこと、そして私たちの罪を除くためにクリスマスの日に誕生されたと宣言します。この5節から10節までの間に「罪」と言う字が8回、「悪魔」が4回、「御子」あるいは「神の子」が6回現れています。アドベント第2週からヨハネの手紙Ⅰを読み進めていますが、「罪」とは主イエス・キリストの御命令、「神様と自分と隣人を愛しなさい」このご命令に従わない事だと繰り返してきました。2週間前にお話ししました。 
【これは「神様と自分と隣人を愛すことは良ことだよ。できるだけそうしなさい。」ではないのです。そうではなくて「愛しなさい!」「愛せ!!」です。絶対的な服従が求められるのです。この「服従」と言う言葉は、戦後の教育を受けた者にとって一番苦手な言葉ではないでしょうか? 「自分で考えて決断し、それを勇気を持ってあきらめずに成し遂げていく。」現代において「自主独立の精神」は賞賛されますが、「服従」は嫌われる言葉ではないでしょうか? 2022年に生きる私たちの習性を知りつつなお、絶対に「神様と自分と隣人を愛しなさい。」と「服従」を求め、頭ごなしに強制なさるのです。】 なぜでしょうか? 
3つ理由が考えられます。神様がこよなく愛される私たちが幸せな人生を手にする、恐らくは唯一の方法が「神様と自分と隣人を愛す」ことだからです。
2つ目の理由は私たちが、神様と自分と隣人を愛すことを最も嫌う者、そこから離れさせることを無上の喜びとする「悪魔」が勢力を強めている様にさえ感じられるこの時代だからです。
3つ目は、私たちの無力さを悟らせるためです。
ヨハネは言います。3章6節。御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。 私たちはこの目で主イエスを見たことはありません。しかし、知っています。聖書の証言によって知っています。
聖書はわたしについて証あかしをするものだ。と主はおっしゃいました。(ヨハネ福音書5:39)毎週の礼拝での説教はその聖書を解き明かします。主イエス・キリストによって神様に祈ります。三位一体の神様を賛美し三位一体の神様に、知恵と力と賜物を献げます。アテネの人たちが、『知られざる神に』と刻まれている祭壇で拝んでいた(使徒言行録17:23)のとは違い私たちは御子を知っています。しかし、残念なことに罪と無縁ではないのです。10節にヨハネの厳しい言葉があります。3:10 神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。ローマの信徒への手紙7章15節以下をゆっくりお読みします。聞いてください。 7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。 皆さんはいかがでしょうか? パウロの言うことをご自分を思い浮かべながら聞いてください。続けます。16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。「確かに、パウロが言うことはそうだと思う。だけど世間一般の人と比べて私はそんなに悪人じゃないんじゃないかな。自分だけが、自分の家族が、友人がと言った利己的な思いが浮かぶことは確かにあるけれども、それに支配されてはいないと思う。」 
そうですね。この目で主イエスを見たことは無いけど、聖書の証言によって主を知っている私たちです。そんなに悪い人間じゃ無いはずです。その私たちが、主イエスに従う幸せな人生を送ろうと思う時、隣人を愛することが求められます。そして、隣人を愛しなさいと言われた時、自分の敵、苦手な人、いやなヤツも愛すことが求められます。そして、それは敵の為に祈ることから始まります。パウロは続けます。20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
「パウロは少し悲観的過ぎるんじゃないのかな? 私は決して善人とは言えないけどそれほどの悪人でもないと思う。」こんな考えが浮かびます。主イエスの言葉です。あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(マタイ福音書5:48)
先ほど「神様と自分と隣人を愛しなさい。」と強制なさり「服従」を求められる理由の3つ目に「私たちに神様の前での無力さを悟らせる」ことをあげました。パウロの告白が続きます。24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。この私を救う為に主イエスは肉体をとって来てくださいました、神の独り子が真の人として来てくださいました。私たちの罪を一身に負ってくださることで、神様との正しい関係の中を私たちが生きるようになるためにです。だからこそ私たちはクリスマスを感謝と喜びの日として祝うのです。パウロは わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。と述べます。そしてヨハネは語ります。3:10 神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。 神様と自分と隣人を愛する正しい生活、これこそが私たちを主の愛の中を歩む幸せな者へと導いてくれます。
神様を愛することは難しいことではありません。神様を礼拝し、神様との会話、すなわち祈りを欠かさず、聖書に親しんでみ言葉を聞くことから始まります。私たちの先輩たちが守ってきたことです。世々の教会が2000年の間守っていることです。ご一緒に主イエス・キリストを喜びの内にお迎えしたいと思います。祈りましょう。