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山形六日町教会

2022年12月11日

聖書:イザヤ書9章1~6節 ヨハネの手紙Ⅰ5章13~21節
「命を与えて下さる」波多野保夫牧師

アドベント第3週となりました。アドベント・クランツの光が明るさを増しています。世の光として来てくださったイエス・キリストをお迎えするクリスマスが近づいて来る喜びが感じられます。アドベント・クランツはアドベント・リースとも呼ばれますが、もちろん聖書に記されているものではありません。しかし、クリスマスが近づいてくる喜びを目に見える形で表してくれる素晴らしい習慣です。起源は16世紀まで遡る様ですが、今日のこの様な形の原型になったのは、19世紀にドイツのハンブルクで大変貧しい人たちが多く住む地域の子供たちの為に、ヨハン・ハヒンリッヒ・ヴィヘルン牧師が始めたそうです。しかし、私たちのこのクランツと違って緑の輪の上に白いロウソク4本とその間に赤いロウソクが6本立っていました。日曜日ごとに白いロウソクを灯しますが、その間にある6本を毎日灯して行ったのです。寒さの厳しいハンブルクの町です。貧しい子供たちが、夕方になるとヴィヘルン牧師のところに集まって来て、灯すロウソクを毎日増やしていくのです。なぜか、主が誕生されたベツレヘムの馬小屋の情景、貧しい羊飼いたちが尋ねて来た情景に重なります。やがてヨーロッパ諸国へ、さらにアメリカへと広まって行った習慣は、教会だけでなく家庭でも行われるようになりました。聖書を開いて子供たちにクリスマスの中心はイエスさまだと語る大人も、それを聞く子供たちもプレゼントや飾りや食事が中心ではないことをロウソクを灯すたびに思い起すのです。
ここに並んでいます1本1本のロウソクに意味を重ねる習慣もあります。聖書に書かれていないことにあまり意味付けするのは、用心しなければいけないのですが、このアドベントの4週間の日々にあって、主イエス・キリスト、「真の神」が、肉体をまとって、「真の人」として誕生してくださった。その意味を思い、心の準備を整えて過ごすことは大切です。紹介しましょう。
アドベント第一週に灯される1本目のロウソクは「預言者のロウソク」と呼ばれ、次の聖書を読んで灯を灯します。イザヤ書7章14節。 わたしの主が御自ら なたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。神様のみ心を伝えるこの預言から700年以上待ち続けた人たちにもたらされた「世の光」は、2700年後の私たちに与えられる「希望の光」なのです。
2本目は「ベツレヘムのロウソク」と呼ばれ、「キリストが寝かされた飼い葉桶」を表します。愛の象徴です。多くの方と分かち合いたいと思います。ルカ福音書2章10節以下が読まれます。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
3本目は「羊飼いのロウソク」と呼ばれ、喜びを表します。ルカ福音書2章2節から11節。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。貧しいだけではありません。町に住む人たちから、胡散臭い連中だと疎(うと)まれ虐(しいた)げられ、神殿での礼拝に参加できない羊飼いたちに、まず喜びの知らせは届けられたのです。
4本目のロウソクについては来週お話しすることにして、後ほど、お子さんに、お孫さんにそして何よりご自分の心に、主をお迎えする喜びを語っていただきたいと思います。愛に満ちたクリスマスの思い出を自分の心に、そして主に語り掛けて感謝する。これが祈りです。私たちの心の中のアドベント・クランツに主が希望の光を灯してくださることでしょう。

さて、市川長老に読んでいただいたイザヤ書9章1節には、闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。この様にありました。「闇の中を歩む民」であり「死の影の地に住む者」とは当時の南ユダ王国でありアハズ王の置かれた状況を示しています。強国アッシリアの支配は巧妙でした。ユダ王国を亡ぼすことはせずにアッシリアの神々を祭る偶像礼拝を強制し、多くの貢物を納めさせたのす。その時の様子がイザヤ書8章19節以下にあります。 人々は必ずあなたたちに言う。「ささやきつぶやく口寄せや、霊媒に伺いを立てよ。民は、命ある者のために、死者によって、自分の神に伺いを立てるべきではないか」と。困難の中にあって、生きて働かれる神様に頼るのではなく、口寄せや霊媒などの迷信を信じてしまう人々の誤りを、預言者イザヤはなおも指摘します。そして、教えと証しの書についてはなおのこと、「このような言葉にまじないの力はない」と言うであろう。 こんな苦しみの中で聖書の言葉なんて何になるんだ! おまじないの方がよっぽどマシじゃないか。この様に人々は言い、アハズ王は偶像礼拝に走り、神様のみ言葉を伝えるイザヤにはだれも耳を貸そうとしないのです。現代において、なかなか主のみ言葉を聞いてもらえない現実がある一方で、占い師は繁盛しおみくじも良く売れている様です。私たちにとって悲しい現実がイザヤの嘆きに重なります。
南ユダ王国の状況が続いて語られます。 この地で、彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。これが、9章1節が語る「闇の中を歩む民」であり「死の影の地に住む者」が置かれていた状況です。
悲しみ、苦しみ、重荷の大きさを他人と比較しても意味ありません。その時、その場において心を覆いつくすからです。「あなたの悩みは波多野さんに比べれば軽いですよ。」と言っても、非難の言葉にはなっても慰めにはなりません。
突然イザヤは預言の言葉を語るのです。9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。2 あなたは深い喜びと 大きな楽しみをお与えになり 人々は御前に喜び祝った。そして喜びの様子が刈り入れを祝う時、収穫の喜びと戦争に勝って戦利品を分け合う楽しみで表されています。戦争が終わって平和が回復された喜びではなく、戦利品を分け合う楽しみというのには違和感を覚えますが、当時は戦争に勝って敵から奪うことは当然とされていました。そのような文化が現代に受け継がれてはいけません。私たちは主の十字架の出来事と復活の出来事をすでに知っているからです。ミディアンの日に先祖たちが負わされていた軛と肩を打つ杖と虐げる者の鞭を神様が折ってくださった。この様にありますが、ミディアンの日とは、士師として神様に用いられたギデオンが、襲ってきた強力なミディアン人に決定的な勝利を収めた日です。(士師記6~8章)イザヤが活躍した時代の300年から400年前に神様がなさった救いの業が語り継がれていたのです。
私たちにも語り継がなければならないことがあります。それは2000年前の出来事、主イエスの誕生であり、教えと行いであり、十字架と復活の出来事です。さらに、主の愛の中を生きた諸先輩方の生きざまは、家族の間で、知人友人の間で、さらに教会や伝道所の歴史の中で語り継いでいただきたいと思います。
イザヤ書9章5節6節をお読みします。9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。6 ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。主イエス・キリストが肉体をとって私たちのところに来てくださった、その出来事は、神様の熱意に依るのです。私たちを愛して止まない神様の大いなる愛によるのです。 新約聖書ヨハネの手紙Ⅰ 5章13節。 神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。実はこの手紙よりも前に書かれた、ヨハネによる福音書には次の様に書かれています。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(20:31)ヨハネ福音書には「イエスは神の子であり救い主だと信じて欲しい、信じなさい。」とあるのですが、手紙では 神の子の名を信じているあなたがた となっています。
福音書では 信じてイエスの名により命を受け とって欲しいとあるのが、後に書かれた手紙では 永遠の命を得ていることを悟らせたい となっています。恐らく福音書を書いた時点から時間が経過したことで、手紙を受け取った教会がより良く主の福音を理解できるようになっていたのでしょう。 私たちのところに来てくださった神の独り子、イエス様を信じて従う者には、死の向こう側にまで続く永遠の命が与えられています。主が私たちを愛してくださっているからです。まだ、洗礼に至っていない方は、この永遠の命へと招かれています。主がすべての人を愛してくださっているからです。
14節15節は神様との会話、祈りについてです。祈りの要素は「賛美や頌栄」の他に三つあります。「ありがとう」「ごめんなさい」「お願いします」。すなわち「感謝」「懺悔」「願い」の三つです。
ここでヨハネは3番目の「願い」について語ります。5:14 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。15 わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。 理解の難しい言葉ですが、祈りの自主規制、「こんな事祈っちゃまずいんじゃないか」とか、「実現しそうなことだけを祈れ」と言っているのではありません。何を祈っても良いのです。私が「神様、年末ジャンボくじで10億円当ててください。半分は日本の教会の為に献金します。」この様に祈っても構わないのです。神様のみ心に叶うのであれば12月31日に10億円当たるでしょう。しかし、私が10億円を手にしたら、たぶん献金はしないで礼拝を投げ出してラスベガスに遊びにいってしまうのでしょう。
神様は祈りに対して2つの「いいえ」と2つの「はい」のどれかで答えてくださいます。答えは祈りの中で聞こえることもあれば、夢を用いられることもあります。10億円当たらなかった事、起こった出来事によって知ることもあるでしょう。
2つの「いいえ」です。「いいえ、今はその時ではない。」「いいえ、お前の恵みは十分だ。」 2つの「はい」です。「ヤット願ったね。前から分かっていたよ、かなえてあげよう。」「わかった、だけどあなたが願ったものより、もっと良いものをあげよう。」
ヨハネは14節で、私たちを愛して止まない神様の答えによって、神様のみ心、最良の道筋を知ることが出来ると言っているのです。「祈りの自主規制」は必要ありません。
15節です。 願い事は何でも聞き入れてくださる とは、「触った物が全て金になる様に」と願えばその通りになると言っているのではありません。何を願っても良いが、神様のみ心に沿う形で叶えてくださる。つまり愛する子には最良の形で願いを聞き届けてくださると言うことです。小さな子供が「良く切れるナイフが欲しい。」と言ったら当然「ダメ!」て言いますね。その子を愛しているからです。15節は、私が10億円当ててくださいと願うのであれば、その答えは既に備えられており、私は、私の為に備えられた最良の答えを将来理解するのだと言います。 
次にヨハネは16節から19節で「罪」について語ります。聖書は「神様と自分と隣人を愛しなさい」と言う主の命令に反することを「罪」と呼びますが、ヨハネは「死に至る罪」と「至らない罪」があると言います。それが具体的にどんな罪なのかは語っていません。もちろん刑法の罪状で量刑に死刑があるか、ないかを言っているのではありません。
使徒パウロは「肉の業」すなわち欲望に支配された行いを指摘して、次の様に言っています5:19 それは、姦淫、わいせつ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。(ガラテヤの信徒への手紙)欲望に支配れること、言い換えれば人が神様の愛から離れること。これを最高の喜びとる悪魔の誘いに負けてこんな事をするのは、「神様も自分も隣人も愛すること」には決してなりません。ですから聖書の言う「罪」です。「罪」が人を幸せにすることは絶対にないのです。
ヨハネの手紙Ⅰ5章19節に戻ります。わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。残念ながら2022年においても悪魔は人の心に入り込み元気にしています。クリスチャンもまるで悪魔が支配するように見える世界に生きています。しかし、20節です。 わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。クリスチャンは御子イエス・キリストの内に、大いなる愛の内に生かされている、その事実を知っているのです。なぜそれが可能なのでしょう?それは神の独り子主イエス・キリストが「真の人」として私たちのところへ来てくださったからです。クリスマスの日にこの奇跡が起こったのです。だから教会は2000年の間この日を喜びの日として祝い続けているのです。
他人が犯す「罪」姦淫、わいせつ、好色、から始まり敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い などは目に留まりますが、自分の「罪」には気づかなかったり、気づいても言い訳を準備します。そんな私たちの為に主は人として来て下さり、本当の愛を示してくださったのです。神様と私たちが正しい関係を回復するために十字架に架ってくださったのです。これほどの愛は他にはありません。5章20節 わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。 だとしたら、主の愛を知る私たちは、あの人の罪は「死に値する」「いや値しない」などと裁くのではなく、裁きは主にお任せして、その人が主の愛の許に立ち返る様に祈るのです。
さらに隣人の為に、私たちがなすべきことが三つあります。それは隣人の為に祈ることから始まります。そして主を知らない多くの人にクリスマスの本当の意味を伝えるのです。主の福音を伝えるのです。三つ目は私たち自身です。5章21節。子たちよ、偶像を避けなさい。現代の偶像。地位や名誉・名声、財産、成績、そしてそのたぐいのものが主の大いなる愛を忘れさせるのならば全て中身のない偶像です。子たちよ、偶像を避けなさい。これが今日この様に3本目のロウソクを灯して主の御降誕への備えをなす私たちに与えられたみ言葉です。祈りましょう。