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山形六日町教会

2022年12月4日

聖書:イザヤ書7章13~14節 ヨハネの手紙Ⅰ5章1~12節
「真の人・真の神」波多野保夫牧師

アドベント第二週になりました。クリスマス・クランツには2本のロウソクが灯されています。先週は遠藤先生が、ルカ福音書が語ります祭司ザカリヤとエリザベト夫妻にバプテスマのヨハネが与えられた物語を通して、「すべての人のために」与えられた主イエス・キリストの誕生、その誕生に向けての備えについて語ってくださいました。

ルカ福音書はこの後、乙女マリアへの受胎告知を語ります。突然やって来た天使は「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」この様に告げるのです。戸惑う彼女にさらに語ります。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。神に出来ないことは何一つない。」そしてマリアの答えです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(ルカ1:26-38)
毎年、12月24日のクリスマス・イブ、キャンドル・サービスで読まれるこの聖書箇所ですが、マリアのことば「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」このことばを聞くたびに、私は10代の半ば過ぎだった彼女のこの素直な神様への信頼、彼女の信仰をうらやましく思うのです。
パウロは語ります。「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。(Ⅰコリント8:1) 素直さを取り戻してアドベントの時を送り、備えをもって主をお迎えしたいと思うのです。クリスマスへの準備はツリーやリース、あるいはプレゼントの準備ではありません。私たちの心の扉をたたいて待っていてくださる主をお迎えする準備です。まだ洗礼をお受けになっていない方にとっては、心の扉を開いて主をお招きする準備をするのにふさわしい時です。主をすでにお迎えした者が感謝の思いを深くするのにふさわしい時です。

本日は、私たちがクリスマスにお迎えする方はどの様な方なのかを聖書から聞いていきたいと思います。最初に読んでいただいた旧約聖書イザヤ書7章13節14節です。主イエスが誕生なさる730年程前に預言者イザヤは語りました。「ダビデの家よ聞け。」神様に忠実だった、あのダビデ王から300年程経ったユダ王国であり、そのアハズ王に対して神様のみ心を伝えます。当時ユダ王国は強国アッシリアの支配を受けていたのですが、アハズ王は主なる神を信頼するのではなく、敵国にすがるためにアッシリアの神々、偶像を持ち込んでいたのです。イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に もどかしい思いをさせるだけでは足りず わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。 神様の怒りを伝えたのですが、続いて語ったのは意外にも滅びの言葉ではありませんでした。14 それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。 偶像礼拝をするまで神様に逆らうダビデ王の子孫に語られたのは、インマヌエル、「神様が共にいてくださる」という名の男の子が誕生するという不思議な神様のお考えでした。700年以上前に与えられたこの預言は、偶像礼拝をやめて神様に立ち返るのならば、主イエス・キリストが与えれるというのではなく、神様の一方的な愛によって神様の独り子が私たちに与えられる、私たちのところに来てくださるというご計画でした。
そして、その預言がクリスマスの日に実現したのです。イザヤは続く9章でさらに神様のみ心を伝えています。これもアドベントの礼拝で読まれる聖句ですが、お読みしましょう。聞いてください。9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。2 あなたは深い喜びと 大きな楽しみをお与えになり 人々は御前に喜び祝った。5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。6 ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
主イエスが私たちのために誕生される。力ある神であり、私たちの導き手として真の平和へと導いてくださる。そして万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。 クリスマスの出来事であり、十字架にいたる生涯であり、また復活の出来事、その確かさを保証するのは 主の熱意なのだと言うのです。私たちを愛し、愛し抜いてくださる神様の熱意だと言うのです。これはすごいことだと思いませんか?

ヨハネの手紙Ⅰに戻りましょう。まず、5章6節から8節です。5:6 この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。7 証しするのは三者で、8 “霊”と水と血です。この三者は一致しています。 2000年前のクリスマスの日に私たちのところに来てくださったイエス・キリストですが、イエスと言うのは当時よくある名前でした。現代ではキラキラネームなど様々な名前が付けられていますが、太郎ちゃんや、一郎君と言ったところです。一方、キリストは「救い主」を意味します。預言者イザヤの時代から700年以上に渡って人々が待ち望んでいた「救い主」です。ですから主イエス・キリストは「神である救い主イエスちゃん」と言った意味です。
ヨハネは、その「救い主」が「水と血によって来られた方」だと分かりにくい不思議な言い方をしています。これはこの手紙が書かれた西暦100年頃になると、福音が広がりを見せ各地に教会が立てられていたのですが、そこに主イエスが神であり救い主であることを否定する偽教師たちが現れていたことを反映しています。
私たちは後ほどご一緒に告白します日本基督教団信仰告に則って聖書を読み
全てを創造された父なる神様、独り子主イエス・キリスト、そして聖霊である三位一体の神様を愛の神様だと知ります。ですから、例えばイエスは天地を創造された神様に愛された立派な人間だったという主張を異端として退けます。当時の異端の一つは「人間としてマリアから生まれたイエスは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けた際に聖霊が宿って神の子になった。そして十字架上で死を迎える直前に聖霊が肉体を離れて元の単なる人間に戻ったのだ」とします。神様が十字架に架けられて死ぬわけがないと言うのです。これは、神様が仮に肉体を取って現れたという意味で「仮現説」と呼ばれる異端です。
5章6節は、主が「水と血によって」来られたと言いますが、「水」は異端者たちも言う様に聖霊の象徴です。そして血は生身の人間の象徴です。主イエスは真の神であると同時に母マリアから生まれた真の人として誕生されたのです。
ヨハネ福音書19章34節は主が十字架で亡くなられた時 兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。と告げています。これは肉体の死後、血液の凝固が起こり凝血塊と血漿に分離する生理学的な現象を表しています。「聖霊が宿る真の人」として地上を歩まれ、十字架の上で亡くなられたのです。ですから、私たちがお迎えするみ子は「真の神」であると同時に「真の人」なのです。「インマヌエル。神共にいます。」と言われる方は、私たちと共に喜び、笑い、共に痛みを感じて泣き、共に重荷を担ってくさる方なのです。9節に「神の証し」10節に「この証し」とあるのは主イエス・キリストがその全身全霊と生涯の全てを懸けて伝えてくださった、神様がどんな時にあっても私たちを愛してくださることの「証し」です。そして11節。その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子を信じ従うわたしたちには、死の向こう側にまで続く「永遠の命」が与えられるという事実です。「永遠の命」とは永遠に主イエス・キリストが共にいてくださることであり、永遠に愛のみ翼の下においてくださる事実です。ものすごいことだと思いませんか?
12節。 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。洗礼を受けた者がまだ洗礼に至っていない方に勝っているということを強調しているのではありません。むしろ、山形六日町教会と教会員に対して伝道の使命が与えられていることを思い起させます。いつも申し上げています。主の福音・主の恵みは分かち合うと減ってしまうのではありません。増えるのです。そして隣人を愛する最高の方法の一つは主の福音を届ける事であり教会へと案内することです。

それでは「悪の世に打ち勝つ信仰」との小見出しが付けられています。5章1節から5節に戻りましょう。イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。クリスマスの日に誕生された主イエスを「救い主」と信じる人は皆、神様の子供として愛されているのだ。そして父なる神様を愛する者は隣人をも愛するのだ。例えそれが敵であっても。ヨハネは、この様に語り始めます。
5章1節から5節の間に繰り返されている言葉がいくつかありますが、「愛」が5回出てきます。「信仰あるいは信じる」が3回あります。この様に「愛」と「信仰」が並ぶとパウロの有名な言葉が思い浮かぶのではないでしょうか? 
コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章13節 信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。主が私たちに与えてくださる「信仰と、希望と、愛」はいつまでも変わることなく残ると言います。パウロは「抽象的に「信仰」と言うもの、あるいは「希望」というもの、「愛」と言うものがいつまでも残る。」と言っているのではありません。「あなたの、そして私の「信仰」がいつまでも残る。」と言うのです。「希望」も「愛」も同じです。
しかし、これって本当でしょうか? 私の「信仰」、いつまでも残って欲しいと思います。絶対になくしたくありません。しかし、「本当に大丈夫か、悪魔の誘惑は巧妙だぞ?」 などと言われると自信がなくなります。希望について、ある皮肉屋は「成長とは希望を失っていく過程だ。」と言いました。確かに子供のころ描いた宇宙飛行士になろうといった夢が破れて行った人は多いでしょう。「愛」。誓い合った「永遠(とわ)の愛」が本当にいつまでも変わらないのかと言えば怪しさが残ります。
この答えをヨハネが与えてくれているのではないでしょうか。5章1節から5節に「愛」が5回、「信仰あるいは信じる」が3回ありましたが、他に「掟」が3回あります。2節に「その掟を守る」とあり3節では「神の掟を守る」と続け「神の掟は難しいものではありません。」と言います。 「神の掟」とは旧約聖書の時代にあっては「十戒」でありそれに基づいた613にのぼる律法を守ることでした。主はそれを「神様と自分と隣人を愛しなさい」と言う言葉で要約してくださいましたが「神の掟を守る」とは神様への絶対的な服従です。この「服従」と言う言葉は、戦後の教育を受けた者にとって一番苦手な言葉ではないでしょうか? 「自分で考えて決断し、それを勇気を持ってあきらめずに成し遂げていく。」現代において「自主独立の精神」は賞賛されますが、「服従」は嫌われる言葉ではないでしょうか? 
しかし、ヨハネは言うのです。5章3節。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。 なぜ「掟をまもれ!」と神様は言わば頭ごなしに命令されるのでしょうか?「神様と自分と隣人を愛すことは良ことだよ。できるだけそうしなさい。」ではないのです。そうではなくて「愛しなさい!」「愛せ!!」です。
この世の権威の正しさは、比べてみると他より正しい、ある面で正しい、ある時点においては正しいのですが、絶対的ではあり得ません。しかし、全てを創造された方は全てをご存知であり、常に正しい方です。そして常に私たちを愛し続けてくださるのだから、その方に服従することは常に絶対的に正しいのです。この方に服従することは絶対に幸せなことなのです。
だとしたら幸せの為に命令なさる「掟」を私たちは当然まもるべきでしょう。これこそが神様を愛することの本質だとヨハネは言っているのです。旧約聖書申命記30章11節以下で神様はおっしゃいます。30:11 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。12 それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。13 海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。14 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。私たちに与えられた主の掟「神様と自分と隣人を愛しなさい。」この掟は 難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。のです。
なぜならば、御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。のです。これもイブ礼拝で読まれる聖句です。ヨハネ福音書1章1節です。初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 その神様が私たちのところに来てくださった奇跡、これがクリスマスの出来事です。
最初に申し上げたことを繰り返しましょう。クリスマスはまだ洗礼をお受けになっていない方にとっては、心の扉を開いて主をお招きする準備をするのにふさわしい時です。主をすでにお迎えした者が感謝の思いを深くするのにふさわしい時です。 ヨハネが「信仰」と「愛」と「掟」を強調するのに対して、パウロは、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。と語ったことに触れましたが、「信仰・希望・愛」は、人からのものであり、人間同士のものである限りにおいて、脆く移ろいやすい物です。「罪」の問題を乗越えられないからです。しかし、共にいてくださり、変わることなく愛し続けてくださる主イエス・キリストを仲立ちとした「信仰」「希望」「愛」は、いつまでも変わることなく残るものとなります。
なぜならば「神様と自分と隣人を愛しなさい。」との「掟」に背くことが「罪」の本質なのですが、主をお迎えして従って行くことで「罪」を乗越えて「掟」を満たしていると見なしていただけるからです。そしてこれこそが本質的に「罪人」である人間に与えられた「最高の希望」なのです。希望に生きる人間の新しい歴史は主をお迎えすることに依って始まっているのです。私たちはこのアドベントの時を、心に灯す灯火を一本ずつ増やしていく、そんな備えの時として過ごしたいと思います。祈りましょう。