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山形六日町教会

2022年11月20日

聖書:詩編130編 ルカによる福音書18章1~14節
「祈る時には」波多野保夫牧師

説教シリーズ「たとえて言えば」の21回目です。本日与えられましたルカ福音書18章1節から14節には、主が語られました祈りに関しての2つのたとえ話があります。司式の寒河江長老に9節以下だけを読んでいただいたのですが、どの様な状況で語られたのかを見ることから始めたいと思います。
直前の17章20節以下は小見出しに「神の国が来る」とあり、ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのですか? と尋ねたことに対して「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と答えられました。「いつ?」と質問したのに対して「あなた方の間にある」と、分かりづらい答えですが、「あなた方と一緒にいる私が神の国なんだ、神様の愛は私と共に在るのだから。」この様におっしゃったのです。
続いて弟子たちに向かって、主が再びこの世に来られる時に旧約聖書の時代に起こったのと同じことが起きると語られたのです。 17章37節 そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言うと「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」と答えられました。これまた分かりづらい答えですが「霊的に死んだ者たちには、滅ぼしつくす裁きが与えられるのだ。」といった意味でしょう。これを聞いた弟子たちは、かつてノアやロトたちに起きた天変地異が終末に際して起きるのだ、そして裁きが行われるのだと聞いて、非常に恐れたのです。私たちにとって終末とはどの様なものでしょうか? 聖書はこの世には始めと終わりがあると告げています。
歴史上、救いを見出せさない、たいへん厳しい状況に有って終末の到来、すなわち主イエス・キリストが再び地上に来て下さり、悪を滅ぼしてくださる終末の到来に希望を託さざるを得なかったことが確かにありました。
例えば解放以前の黒人奴隷たちであり、ナチスの迫害下にあった人達です。 現代の私たち、少なくとも日本の教会は、聖書が終末での勝利を語っていますから、頭では希望の時とし理解するのですが、切実感あるいは切望感は薄まっているのではないでしょうか?
どれほど心に響いているのかです。それに対して弟子たちは、終末の出来事は自分たちが生きているうちに起こるに違いないと考えていましたし、パウロも 主が来られる日まで生き残るわたしたち(Ⅰテサロニケ4:15)と言っています。 しかし、2000年後の現在、終末の時は来ていません。主は「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」(マタイ福音書 24:36)この様におっしゃいましたし、ペトロの手紙二3章9節には次の様にあります「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」 これは教会に伝道する時間を与えてくださっていることを意味しています。
全てを創造された神様は時間も創造なさいました。ペトロの手紙Ⅱ3章8節です。愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。 2000年の時は神様にとっては2日なのでしょうか? いずれにしろ終末の時がやって来ることは確かです。そしてそれが何時であっても、しっかりと準備をしてその時を迎える必要があり、あの花婿を待つ10人のおとめの話が思われます。花婿の到着が遅れて深夜になり、10人は眠ってしまいました。これは現代の教会であり私たちなのでしょうか。突然の花婿到着の知らせは、終末の到来です。主が裁きを行うためにこの世界に来られたのです。賢い5人は油を用意していました。油は信仰です。花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に着きました。主はおっしゃるのです。「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(マタイ25:1-13)山形六日町教会には一人でも多くの人が救われる様に、努力が求められています。
ルカによる福音書18章に戻りましょう。不安に駆られた弟子たちにまず語られたのが「やもめと裁判官」のたとえですが、18章8節には人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。とあります。主は弟子たちが、そして私たちが信仰を持って終末を迎えるために欠かすことのできない祈りについて、教えられたのです。
18章1節。イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちに そして私たちにたとえを話されたのです。 登場人物は2人です。一人は裁判官。彼は「神など畏れないし、人を人とも思わない。」この様に言ってはばかりません。ローマ帝国によって任命されて、その権力を笠に着て、わいろを受け取ったりコネによって有利な判決を出す様な裁判官でした。もう一人はやもめです。古代のイスラエルにおいて、やもめの社会的地位は極めて低く、経済的困難も抱えている大変弱い存在でした。
しかし、神はいつもやもめたちを愛し続けられたことを聖書は告げています。 詩編146編です。146:8 主は見えない人の目を開き 主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し146:9 主は寄留の民を守り みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。新約聖書ヤコブの手紙1章27節です。1:27 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。このたとえに登場するやもめは公正な裁きを願っていました。何についての裁きなのかは語られていませんが、裁判官のところに何度も何度も押しかけて『相手を裁いて、わたしを守ってください』『相手を裁いて、わたしを守ってください』この様に言い続けたのですが、裁判官は訴えを聞こうとはしません。訴えが正しいことは分かっていたのですが、賄賂を持ってくるわけではないし、裁判を行っても手間がかかるだけで何の得にもならないからです。それでも、やもめは何度も何度もやって来るのです。遂に裁判官はそのしつこさに音を上げて言うのです。 『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』 主はおっしゃいました。この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。どうしようもない不正な裁判官ですら、その執拗さに負けて願いを聞くのであれば、あなた方を愛して止まない方が祈りに耳を傾けて下さらないことがあるだろうか。あなた方は自分の抱えている問題を何回神様の下へと持って行ったのか、祈ったのか。
実際、天の国にいらっしゃる私たちの神様は、全ての事をご覧になっており、全ての事を承知した上で、祈りを聞き、そして常に最もふさわしい回答を与えて下さる方です。ですからもし、心の中に嘆き悲しみを抱えたり、癒しを求めたりするのであれば、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない。」のであり、神様にその願いを訴え続けなければならないのだと、主イエスはこのたとえを通して教えられるのです。なぜならいつかは必ずやって来る終末への備えとしてそれが必要だからです。
それでは、この譬えは自分の望みが聞き入れられるまでしつこく祈りなさいと言っているのでしょうか? 神様は全てを見ておられる方ですから、私たちが祈る前から全てをご存知です。それではなぜ真剣で執拗な祈りが求められるのでしょうか? それは執拗に祈っているうちに、祈りが浄化される。すなわち祈る自分が謙虚にされることが起こるからです。本当の自分を神様の前にさらけ出さざるを得なくなります。その結果自分の思い上がりや自己中心的だったことに気づかされるのであり、神様の深い愛が見えて来るからなのです。祈り始めた時には自分の思いが全てであり、気付かなかったに違いありません。しかし祈り続けるうちに、神様の正しい答えを聞くことが出来る、神様のお考えを知ることが出来る、こんなことが起きるのです。
私はいつも「何を祈っても良いのだ。祈りの自主規制は必要ないのだ。」と言っています。この確信があるからです。もちろん、最初から祈りの真剣さを理解してくださり、すぐにその通りにかなえて下さることもあるでしょう。しかし、そうではない時にも「気を落とさずに絶えず祈らなければならない。」この様に教えられるのです。
さらに、ここで私たちに教えられるのは祈り続けることだけではありません。18章7節8節です。18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。ここでまず、叫び求めている選ばれた人たちと言われています。ご一緒に礼拝を捧げている私たち、あるいは例え礼拝に集うことが叶わなくても、主のみ言葉に耳を傾ける者たちは 選ばれた人たち であり主に選ばれ、招かれていることを自覚し感謝する者です。
日本では1%に満たないクリスチャンと呼ばれる恵まれた者だからです。さらに、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。 この様におっしゃっています。人の子が再び地上に来られる時とは、主イエスが裁きを行って全ての悪を滅ぼしてくださる、クリスチャンにとっての希望の日、即ち終末の日ですが、その日に 果たして地上に信仰を見いだすだろうか。 とおっしゃるのです。
それではどの様な信仰を主は求めていらっしゃるのでしょうか?9節以下の「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえに進みましょう。ファリサイ派とは当時の宗教指導者であり、神様のご命令、律法を守ることこそが人を幸せにするのだと固く信じて、一生懸命教えを守ろうとしました。この点において彼らは正しいのですが、守ろうとしない人を激しく非難したのです。 このファリサイ派をしばしば非難されたのですが、その原因は彼らが「愛に欠けていること」とそこから生じる尊大さです。11節12節 『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
イエス様も悪魔の誘惑を受けた際、神様に心を向け祈りの時を過ごすために断食されました。(マタイ4:2)私も主の十字架の時を前にしたレントの期間に、ダニエルの断食をお勧めしていますが、ゼカリヤ書(8:19)によれば年4回の特別な日に断食が求められたのです。しかし、彼らは毎週2回断食をしていました。十分の一の献げものも申命記(14:22)によれば、特定の収穫であり収入についてだけで良かったのです。まことに立派な生活です。実際に神様のご命令を守ってこの様に生活の中で実践することは容易ではありません。自分たちを誇りに思ったとしても、もっともな面があります。
一方、徴税人ですが、当時ユダヤはローマ帝国の支配の下にあり、彼らはローマから税金を集める権利を得ていました。ですから自分たちの国のための税金とローマ帝国に収める税金を徴収するのが仕事だったのですが、ローマの権力を背景に私腹を肥やす者が多くいたのです。憎いローマの手先であるばかりか権力を笠に着て私腹を肥やす。代表的な罪人だとみんなが考えていました。13節 18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 徴税人は自分の弱さ醜さを祈りの中で神様に告白して、その赦しを求めたのです。イエス様は続けられます。14節 18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。 ファリサイ派の人は自分を誇りました。しかしパウロは言います。「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)
この世の全てを創られた神様は全てをご存知です。私たちの心の底までご存知です。私たちが他人を見る目には厳しいものがありますから、他人の驕り高ぶりはすぐ気づきます。しかし、自分の中に有るそれには鈍感なのではないでしょうか? 鈍感だからこそ平静を保っていられると言う面も確かにあります。あまりに自分の内面が抱える暗さに目が行くと精神のバランスを保てなくなるとも言われています。しかし、この事実。神様が私の心の底までご存知だと言うことが実は大きな救いなのです。チョット変な話に聞こえるかも知れませんが、なぜでしょうか? 
それは私の後ろに掲げられている十字架が指し示している事実があるからです。キリスト教のシンボルである十字架は主イエス・キリストが十字架に架かって死なれたことを思い起こすためのものです。何の罪もなかった方が、私たちの罪、神様を愛し自分と隣人を愛することから離れてしまった私たちの罪、その罰を一身に負って下さったこの歴史上の出来事を教会は2000年間語り続けています。これがキリスト教の中心だからです。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。このみ言葉が示しています様に、へりくだった心です。
ここで一つ考えなければならない言葉があります。それは「私のような者がとてもそんなこと出来ません。」この言葉はへりくだっての言葉なのでしょうか? 様々な場合があるでしょう。私はまだ聖書を良く理解していないので洗礼なんかとてもとても。」もし聖書を理解することが洗礼の条件ならば、一生誰も洗礼に値しません。本当に理解なさったのは主イエスお一人だけです。洗礼は教会の仲間として、共に主に従って行く新しい人生のスタートラインに立つことです。他にも「私はそんなお役目が務まる様なものではありません。」という言葉もあります。 モーセが神様から出エジプトのリーダーに指名された時です。 モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」 主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われ。(出エジプト:13,14)助けてとしてアロンと1本の杖を与えられたのです。
エレミヤが預言者として主に選ばれた時です。「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」この様に言うと、主は「わたしがあなたと共にいるのだから若者に過ぎないなどと言うな。」とおっしゃるのです。
確かに私たちにはそれぞれの事情があるのは確かですが、現在、日本の教会では働き手が足りません。主は「収穫は多いが、働き手が少ない。」(マタイ9:37)みんなで重荷を担って祈って行く。そんな山形六日町教会でありたいと思います。
終末の時に備えて用意する信仰の油は、祈りから始まります。祈りは人を謙遜にします。謙遜は主の大いなる愛に気づきを与えてくれます。そして主の十字架によって示された愛は私たちの罪深さを浮き彫りにします。自分の罪への思いは人を謙遜にして、徴税人の祈りへと導きます。『神様、罪びとの私を憐れんでください。』との祈りです。主の大いなる愛に気づきます。この祈りの繰り返しこそが、やもめの様にあきらめることない祈りではないでしょうか。そして、人の子が来るとき地上に見出す信仰はこの祈りのよって養われた信仰ではないでしょうか。私たちも祈ることから一週の歩みを始めましょう。