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山形六日町教会

2022年10月30日

聖書:箴言14章16節 19章1節 ルカによる福音書12章13~34節
「愚かな者よ」波多野保夫牧師

説教シリーズ「たとえて言えば」の20回目になりますが、現在主日礼拝に於いて3つの説教シリーズを並行して進めています。この「たとえて言えば」では福音書から、主がたとえを用いて語られたみ言葉を聞いています。
シリーズ「あなたへの手紙」では新約聖書に多くあります手紙を紐解いています。ペンテコステの日に誕生した教会が地中海沿岸地方を中心に発展していく際に、それぞれの教会を励ましたり、正しい福音理解を教えたり、教会が抱えていた様々な問題に対応するために送られました。さらに、これらの手紙は2000年後に地球の裏側に位置する山形六日町教会とそこに集う一人一人に宛てた手紙でもあるのです。なぜなら私たちは同じ様に罪を抱えた罪びとであり、同じ様に主によって生かし用いていただいており、同じ様に恵みをいただいているからです。同じ様に主の大いなる愛の中を歩んでいるからです。
説教シリーズ「わたしはすぐに来る」では、聖書の一番最後にある「ヨハネの黙示録」からみ言葉を聞いています。現在、天の国で神様の右に座っていらっしゃる主イエス・キリストが再び地上に来てくださる再臨の日は、この世の歴史が行きつくところ・終末の日です。この日、私たちを含めてすべての者が裁きの席に立たされ、すべての悪は滅ぼされます。ですから救いが約束されえているクリスチャン、即ち主イエスを救い主と告白して従う者にとっては終末の日は希望の日なのです。まだ洗礼に至っていない方はこの恵みへと招かれているのです。

さて、この様に異なった三つの新約聖書箇所からみ言葉を聞いていますが、山形六日町教会は改革長老教教会の伝統に立ちますから、礼拝では旧約聖書も併せて開きます。3000年以上前に書かれた旧約聖書、主イエスの誕生から西暦30年頃の十字架と復活の出来事を伝える4つの福音書。そして、教会が誕生した後の時代、西暦50年頃から100年頃に書かれた手紙。さらに私たちのこの2022年を通り越して終末の出来事を語るヨハネの黙示録です。
皆さんは説教を聞いて「毎週、同じようなことばかりだな。」この様に感じられるのではないでしょうか? 私も準備をしながら聖書を読み込むほどにその様に感じます。ちょくちょく顔を出して「波多野先生」と質問して来る彼ならば、「またですか、そんなのわかっていますよ!」 この様に言うかも知れません。でも、そうなんです。この分厚い聖書はただ一つの事を伝えているだけなのです。「神様は、あなたをそして私を愛してくださっている。どんな時であっても。」このことだけです。そして主は私たちが、神様の愛の中にあって豊かな人生を歩むために「神様と、自分と、隣人を愛しなさい。」と命令されるのです。

さて、本日はルカ福音書12章13節以下からみ言葉を聞いて行きます。細矢長老には、譬えを用いて語られた部分だけを読んでいただきましたが、12章13節は、 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 と始まっています。権威ある者(マタイ7:29)として、神様のみ心を語っていらっしゃったので、律法に基づいて裁判行っていた律法学者の一人と思ったのでしょう。兄弟の相続問題を自分に有利に裁いて欲しいと頼んだのです。律法によれば父親が亡くなった際に兄が三分の二を相続し母の面倒を見ることになっていた(申命記21:15-17)のですが、兄はこの弟の取り分を渡さなかったのでしょう。
イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 主は「その様な争いごとの調停は私の仕事ではない」と拒否されました。「法の定めに従って解決しなさい。私は、神様の愛の中を歩む際に妨げとなることについて、さらにその妨げに支配されないためにどうすれば良いのかを語ろう。聞きなさい。」と話し始められたのです。
13節から21節には「愚かな金持ち」のたとえ」との小見出しがあり「貪欲」について語られ、22節から32節には「「思い悩むな」との小見出しがあり、33節34節はそれらに支配されない豊かな人生のマニュアルが簡潔に示されています。
順に読んでいきましょう。 15節で 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」とおっしゃり、続いて愚か者の譬えを語られます。金持ちが登場します。収穫が多くて倉に入りきらなかったのですが、ギリシャ語で倉は複数形になっていますから、もともとかなり裕福でした。そこに来ての豊作です。どこにしまうのかが一番の悩み事になりました。そんな彼に素晴らしい考えが浮かんだのです。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 ギリシャ語に忠実に翻訳すると、「私はこうしよう。私は私のいくつもの倉をこわし、そして私は大きいのを建てよう。そして、私は私の全ての穀物や財産を集めよう。そして私は私の心に言ってやろう。」
いかがでしょうか、私、わたし、ワタシの連続です。自分の快適で安全な生活にしか関心を示していません。農場の労働者や家族、あるいは地域の人たち、特に貧しい人たちの幸せを考えることなど全くありません。自己中でありミーイズムの極みです。「波多野先生、わたしは倉なんて持っていないし金持ちじゃありません。確かに自分の都合や将来を考えちゃうことはあるけど、これほどの自己中ではないつもりです。」 私も同じですから、一緒に主のみ言葉を聞きましょう。
20節21節です。しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」いかがでしょうか? 心の中にうずくものを感じるのではないでしょうか?
「波多野先生、イエス様は、人の命は財産によってどうすることもできないからである。っておっしゃったのですが、現代ではそうとばかりは言えないんじゃないですか? いいお医者さんに診てもらうにはお金がかかるなんて言われています。俗に言う「地獄の沙汰も金次第」なんてことあるんじゃないんですか。」
確かに最近の医療の進歩は目覚ましいものがある反面、健康保険が効かない薬や治療が高額だったり、外国で移植手術を受ける費用の募金が報道されたりもしています。私たちの社会が解決しなければいけない重い課題ですが、iPS細胞を用いた再生医療では誰もが受けられる仕組み作りが進められています。人類の知恵によってQOLと呼ばれます「生活の質」の向上ははかられるでしょう。しかし、高い薬が100%効くわけでも、難しい手術が100%成功するわけでもありません。さらに、私たちの心の健康はお金では解決できない部分が多いのではないでしょうか。
ショッキングな事実があります。首相官邸に「人身取引対策推進会議」と言うのがあるのですが、その報告書に臓器売買が指摘されています。臓器売買の裏側には、移植のための臓器をお金で買いたい人がおり、お金で臓器を提供してしまう貧困が指摘されています。途上国の一部では親が金品を得る代わりに臓器売買組織に子どもを売ってしまうことすらあるのです。これが世界の悲しい現実です。私達に何が出来るのかと考えると無力感を感じますが、祈りをもって主に解決を委ねたいと思います。もう一度主のみ言葉をお読みします。しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
12章22節以下です。 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏(からす)のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏(からす)を養ってくださる。あなたがたは、鳥(とり)よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。
この山形においてもカラスはあまり好かれない様ですが、実は私は自分がカラスに似ていると思うところがあるのです。もちろん好かれていない点は似ていない様にと思っているのですが、聖書に出てくるカラスを見てみましょう。
旧約聖書申命記14章には食べて良い物といけないものが記されています。11節以下に 清い鳥はすべて食べてよい。 しかし、次の鳥は(汚れているので)食べてはならない。とありカラスは食べてはいけない鳥です。神様は罪びとの私を汚れているとおっしゃるのですが、食べられてしまうことから守っていてくださいます。
創世記はノアの洪水の物語を伝えますが、雨が止んだ後ノアが水が引いたかどうかを知るために最初に放したのはカラスです。四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。(創世記8:6,7) 次にノアは放した鳩がオリーブの葉を加えて帰って来たことで水が引いたことを知ったのです。カラスはあまり役に立たなかったようです。
列王記上によれば預言者エリヤは紀元前850年頃に北イスラエル王国に遣わされ、バアルと言う偶像を拝む様になっていたアハブ王に悔い改めを迫ったのですが、命を狙われるようになった時です。主の言葉がエリヤに臨んだ。「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。(17:3-6)このあとエリヤは神様の為に大きな働きをします。私はエリヤの様な働きは出来ないでしょう。しかし、神様に従う時に、私を用いてくださるのだと思うのです。
イエス様はおっしゃいます。神は烏(からす)を養ってくださる。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。確かに、私たちに悩み事は多くあるでしょう。思い通りにいかない事、理不尽な事、許せない事。聖書は 無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けていきていた。私の目から見れば信仰深いとしか言いようのないヨブの悩み苦しみを伝えます。詩人は わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは悩みの中にあってうろたえています。わたしは不安です。(詩編55:3)と悲痛な声をあげます。当時世界一の知恵者と言われたコヘレト、即ちソロモン王は言います。 知恵が深まれば悩みも深まり 知識が増せば痛みも増す。(1:18) そして、預言者イザヤはバビロン王によって苦しめられている人々に約束の言葉を語ります。主が、あなたに負わせられた苦痛と悩みと厳しい労役から、あなたを解き放たれる日が来る。(イザヤ14:3)
うまくいったこと、順調なことよりも、思い通りにいかない事、理不尽な事、許せない事は、社会や学校に有って、家庭に有って、教会に有って、沢山あるでしょう。もちろん自分の思いを実現するために努力する。うまくいかないことを何とかする、素晴らしいことです。その努力がより良い社会を作って来た歴史があります。しかし、努力が人を蹴落としてもとか、ズルをしてもと言うことに変質すれば話は別です。神様は全てをご存知です。

さらに理不尽な行いに腹に据えかねて怒りに燃え、仕返しをするとなれば論外です。ローマの信徒への手紙12章19節。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。残念なことですが、現代は人間関係が希薄になり、道で肩がちょっと触れただけでナイフで刺したり、いじめや虐待が報道されることもしばしばです。
み言葉を聞きましょう。27節以下です。 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。神様の大いなる愛を知る私たちです。信仰の薄い者たちよ! と言われないためになすべきこと。それは思い悩みを主イエス・キリストに委ねることです。
以前、電車の中で4人グループの話が聞こえてきました。それは残念なことに、嫁の悪口から始まり孫の教育がなっていないこと。あの人の服のセンスが最悪と言うかと思えば、昨日の宿屋の女将の悪口。不愉快になったのですが、この人たちは何が楽しくて旅行をしているのだろうか、ずいぶんつまらない人生を過ごしているんだなと、気の毒になってしまいました。 私が思い悩みに囚われているならば、神様はおっしゃるでしょう。「お前は、ずいぶんつまらない人生を過ごしているんだな。思い悩みは私が負ってあげる! お前に必要なことは全て分かっているのだから。」
そして、主は続けておっしゃるのです。31節32節。 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。 主イエス・キリストに従う者には永遠の命が約束されています。この世にあっても、この世での生を終えて御許に召されてからも、変わることの無い神様の愛。私たちはその愛の中に置かれています。そしてこれが永遠の命です。

3334節。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。 主はここで一切の財産を持ってはいけないとおっしゃっているのではありません。現に主イエスを裏切ったイスカリオテのユダは一行の会計係をしており(ヨハネ12:6,13:29)このお金をごまかしていたのだとも言われています。
取税人のザアカイが悔い改めて「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。」と言った時、主は言われました。「今日、救いがこの家を訪れた。」主はここで神様を信じる者が持ち物によって支配されてなはならないと強くおっしゃっているのです。この世の富を信頼すること神様を信頼することの妨げとなり、神様の愛の中を歩む際の妨げとなるのです。
神様に与えられた富であり知恵であり才能は「神様と自分と隣人を愛する」為に用いるのです。説教題を「愚かなものよ」としましたが、後ほどマタイ福音書25章31節から46節をぜひ読んでください。マタイ福音書25章31節以下です。そして、『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 この主のみ言葉を心に留める「賢いもの」でありたいと思います。祈りましょう。