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山形六日町教会

2022年10月23日

聖書:箴言15章31節 20章12節 ヨハネの黙示録2章1~7節
「教会への手紙」波多野保夫牧師

説教シリーズ「わたしはすぐに来る」の4回目です。このシリーズではヨハネの黙示録を読み進めています。前回は皇帝礼拝を拒否したためにパトモス島に島流しなっていたヨハネが、聖霊に満たされた際に告げられた言葉を聞きましたが、1章11節には次の様にありました。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」先ほどエフェソ教会宛の手紙だけを読んでいただいたのですが、主イエスから7つの教会に宛てた、いわば通信簿を順にみて行きます。この通信簿を私たち山形六日町教会に送られたものとして聞いて行くのが本日の趣旨です。
ヨハネの手紙は、それぞれの教会の良い点を指摘した後、スミルナの教会とフィラデルフィアの教会を除いた5つの教会は厳しく叱られてしまいました。その理由が3章19節です。先に見ておきましょう。 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。これが主イエス・キリストのお考えです。子供の成長にはスキンシップであり、甘えさせることは自己肯定感を高めさせるために欠かせないと言われますが、自分の求めたものは何でも応えてもらえると認識させてしまうような甘やかしは、精神的にも社会的にも自立できない大人を作ってしまいます。また、愛情を持たずに叱ったり、鍛えたりするのは「いじめ」であり「虐待」です。神様は愛の神様だと証言している聖書は次の様に語っています。 
旧約聖書箴言3章11節12節。わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父のように 主は愛する者を懲らしめられる。ヘブライ人への手紙は苦しみの中にある人々にこの事実をハッキリと告げています。12章4節以下です。聞いてください。12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。5 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、 力を落としてはいけない。6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、 子として受け入れる者を皆、 鞭打たれるからである。」7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。 確かに私たちの人生は楽しいこと嬉しいことだけではありません。さらに続きます。10 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 愛の神様に対してこの信頼をもって歩む私たちであり、山形六日町教会でありたいと思います。旧約聖書の時代 初代教会の時代、そして私たちの2022年を通り越して終末の時に至るまで、主の愛は変わることなく深く、そして大きいからです。

さて、2章1節以下はエフェソの教会に送られた手紙ですが、 右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。 とあります。1章20節で教会が燭台にたとえられていますから、教会を尋ね歩く主イエスからの通信簿だと申し上げました。2節3節でまずエフェソ教会の良い点が指摘されます。2 「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。 エフェソの町は現在のトルコ西部に位置するエーゲ海に面した商業都市で、古くから栄えていたのですが、この町は豊穣神アルテミスを祭る壮大な神殿が建てられていることでも有名でした。 使徒言行録によれば、パウロは第3回伝道旅行の際に生まれたばかりのエファソ教会に2年間滞在して指導したのですが、(使徒言行録19:1-40)彼に先立ってアポロと言う伝道者がやって来ていました。
使徒言行録18章24節25節です。さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。 アポロが詳しかったと言う聖書は私たちにとっての旧約聖書です。彼は主の福音を受け入れて伝道者として各地の教会を訪ねて洗礼を授けていたのですが、バプテスマのヨハネの洗礼しか知らなかったとあります。悔い改めて神様に立ち返ることを求め、水によって心と体を洗い清める洗礼です。
私たちの洗礼は主イエス・キリストの名による洗礼です。聖霊と水によって罪を洗い清めていただくとともに、主の体なる教会の交わりに入れていただく洗礼です。ですから罪赦され永遠の命を生きる希望が与えられ、喜びの人生が始まる洗礼です。この意味でアポロは洗礼理解だけではなく福音理解も不十分だったのです。
パウロの教えを受けていたプリスキラとアキラは、このアポロの説教を聞いた時、もっと正確に主の福音を彼に説明したと言うのです。(使徒言行録18:26)   使徒言行録のこの記事は、説教者が神のみ心を正しく語るために、教会員の祈りが欠かせないことを伝えています。このアポロの後にやって来たパウロは教会の人に尋ねました。「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。 パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。(19:1-2) 私たちの神様が三位一体の神様だと知らない歪んだ信仰は危険を伴います。パウロは2年間エフェソに留まって正しい福音、正しい信仰を伝えたのです。
ヨハネがこの黙示録を書き送ったのは、パウロやアポロの時代から40年近くが経っていたのですが、その間にもエフェソ教会は、偽の福音を語る偽使徒たちに惑わされることなく、パウロが伝えた正しい福音を守ったのです。
主はエフェソ教会を素直に誉めます。2章3節。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。しかし、4節5節には厳しい言葉があります。あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。 
主はエフェソ教会をつぶしてしまうとおっしゃるのです。悔い改めて正すのでなければ、お前たちは私の教会ではないとおっしゃるのです。初めのころの愛から離れてしまった と言われるエフェソ教会がどの様な状態だったのかは語られていません。神様への愛が薄れたのであれば、礼拝をおろそかにしたのでしょう。自分への愛が薄れたのであれば倫理的な問題を抱えたのかもしれません。隣人への愛が薄れたのであれば、伝道をおろそかにしたり、教会員同士が裁き合ったのかも知れません。そんな教会は存在しない方が良いとおっしゃるのです。
「波多野先生、でも山形六日町教会の教会規則には、戒告とか聖餐停止、場合によっては除名まで裁きがあったはずです。」 戒規ですね。確かに長老会には戒規を執行する権限と責任が与えられています。教師の場合は教会員ではありませんから、教団の教師委員会に同じ機能があります。しかし、戒規は裁きでも懲罰でもありません。道から外れた者が悔い改めて立ち返るための愛の業なのですが、戒規を受けた者が反省して広い心でそれを受け止めるのは難しい現実があります。
こんな話を聞いたことがあります。一生懸命教会に仕えていた長老さんが、社長をしていた会社の不正経理の件で逮捕されました。深く反省したこの長老さんは長老会とよく話し合った結果、聖餐停止の戒規を申し出て長老を辞任したのですが、長老職以外の奉仕をしっかり続け、聖餐停止期間が明けた教会総会で再び長老に選出されたそうです。罪を犯した者の為に祈りを合わせる信仰訓練が、普段からしっかりとなされていた教会だったのです。黙示録3章19節のみ言葉 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。 このみ言葉をしっかりと受け止めることが出来たのです。私たちもこのような教会でありたいと思います。6節では再びほめられていますが、ニコライ派については良く分かっていません。異教の習慣をためらいもなく受け入れてしまい倫理的な潔癖さに欠けた者たちではないかと言われています。

次に、2章8節のスミルナにある教会に宛てた手紙です。苦難や貧しさの中にあるが本当はあなたは豊かなのだ。と言われます。主は山上の説教で言われました。「貧しい人々は、幸いである、 神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、 あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、 あなたがたは笑うようになる。」(ルカ6:20,21)
神様の前でおごることなく謙遜になり易いでしょう。さらに願いがかなえられた時の喜びは大きいでしょう。しかし苦難や貧しさの極限にある時にそれが幸せだとはなかなか思えません。主にある兄弟姉妹への祈りであり、隣人への愛の業が私たちに求められるのです。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 主のみ言葉です。(マタイ5:45)
9節にサタン、10節に悪魔、他にもこの黙示録には悪霊や竜や蛇などが登場しますが、区別する必要はありません。主イエス・キリストの愛から離れさせ、罪を犯させることを無上の喜びとするの者たちで、いつも私たちを狙っています。誘惑に負けない唯一の方法は主から目を反らさないことです。

次は2章12節以下のペルガモン教会です。わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたはわたしの名をしっかり守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。 ペルガモンには、自分は神だとするローマ皇帝を祭る神殿があり、ヨハネはサタンの王座と呼んでいます。アンティパスが殉教死するほどの迫害にあっても、ペルガモン教会は皇帝礼拝を拒否したのです。 14節には、バラムの教えとありますが、6節と15節に登場するニコライ派と同じように、異教に対しての潔癖さに欠け、しかも倫理的な問題を抱えた教えだったのでしょう。クリスチャンはこんなものとはハッキリと一線を画す必要があるのです。
2章18節以下はティアティラ教会です。この教会は愛、奉仕、信仰、忍耐を知っており、成長する教会です。パウロはいつまでも残るもの、即ちキリスト教の中心にあるのは、信仰と希望と愛だと言っていました。迫害に時代にあって終末への希望を持って忍耐し続けたティアティラ教会は、奉仕を忘れず成長する教会でした。
しかし、主は、イゼベルという女預言者を好き勝手にさせていることが赦せないと言われます。イゼベルは教会の一部の人をも惑わして、偶像礼拝とみだらな行いへと導いたのです。主に仕えるのではなくサタンに仕える者が教会に影響を与えていたのです。この女には悔い改める機会を与えたのに悪事を続けている。最終的な裁きは私が与えると主はおっしゃいますが、サタンに心を向ける者を教会内で勝手にさせておくことは許されません。先ほど戒規の話をしましたが、大変難しい問題です。そこにまで至らない段階でどうするのか。教会の祈りに支えられての、牧師であり長老会に託された大切な務めなのです。
 
3章1節以下は、サルディス教会です。この町は当時商業都市として栄えており多くの人は繁栄を謳歌していました。その空気は教会内にも流れ込んで来ていたのです。そこそこの人数が礼拝に集い、そこそこの献金が献げられ、そこそこの働きがなされていました。
3章2節は、信仰的に目を覚ませ。信仰的に死にかけている者たちを強めよ。といいます。社会的にも経済的にも厳しさを増す世界の中に有って日本は安定を保っている方でしょう。サルディス教会の状況を置き換えれば、土曜日まで忙しく働いたので、日曜日はお布団の中でぐずぐずしていよう。そんな怠惰な気持ちが教会内部にまで及んでいたと言うのです。しかし、数少ない者たちは白い衣を着ていました。キリスト者に相応しい生活をし、礼拝を喜んで守る者たちです。神様は彼らの名を命の書に記さすことを喜ばれるのです。

 
3章7節以下はフィラデルフィア教会です。スミルナ教会と同じように、この教会を非難する言葉はありません。8節に あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。とあります。小さな教会ながら礼拝を整え、正しい信仰をきちんとまもっていたのです。私たちもこの様な教会でありたいと思います。 自分はユダヤ人だと主張する者とは、自分の信仰を過信している者です。私たちは聖書の外側に福音が存在しないことをあらためて確認する必要があります。礼拝から始まる恵みの一週をあらためて心に留める必要があります。
 
最後は14節以下のラオディキア教会です。この町は金融業と羊毛の生産で有名であり、サルディスに勝って反映していた町です。教会は既にローマ皇帝ネロによる迫害の時代を経験していたのですが、その時代が過ぎると、ラオディキアの町の繁栄にどっぷりとつかっていたのでしょう。堕落した教会は手紙が送られた7つの教会の中で最も激しく非難されています。15節から17節です。「15 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。16 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。17 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」 いろいろあるけれども、3度の食事に困るわけでは無いし、何とかやってます。神様ありがとうございます。この様な私に主はおっしゃるのです。お前は生っちょろい腑抜けのクリスチャンだ! 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。 お前は自分の惨めさが分かっていないのだ。18節。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。火で精錬された金とは、清められた聖なる物、高価な物とは、十字架を負ってくださった主イエス・キリストへの信仰です。その信仰は私たちが心を開くときに、主が喜んで与えてくださいます。目に塗る薬はこの複雑化した人間関係であり、複雑化した世の中に有って、真理を見分ける力です。祈りによって聖霊が与えてくださいます。
週報の表面に、山形六日町教会が2022年度総会で承認した 主題、主題聖句を、裏面に活動方針を記しました。活動方針は後ほど読んでいただき思いを新たにしてください。主題と主題聖句をお読みします。2022年度主題 「恵みと平和をいただいて」 主題聖句『今おられ、かつておられ、やがて来られる方、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。』 (ヨハネの黙示録1章4,5節) 2022年度の後半を主に喜ばれる教会として歩んで参りましょう。祈ります。