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山形六日町教会

2022年10月16日

聖書:箴言3章34節 11章2節 コリントの信徒への手紙Ⅱ11章29~31節
「弱さを誇る」波多野保夫牧師

箴言始めから2か所読んでいただきましたが、11章2節にあります「謙遜」、この言葉が本日のテーマです。ご一緒に聖書の語るみ言葉を聞き「神様と自分と隣人を愛する」時に、人は「神様と自分と隣人」に対して謙遜でなければならないことを学びたいと思います。関係する聖句を週報の裏面に記しました。
ペトロの手紙一 5章5節。 同じように、若い人たち、長老に従がいなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、 「神は、高慢な者を敵とし、 謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。 教会が制度として整いを見せて来た西暦100年ころにペトロが書き送った手紙です。私たちの言葉に直せば、「教会員となって日数の浅い人も、教会政治の務めを担う長老会の決定に従いなさい。」となります。長老個人にではないことは明らかですが、注目点はそこではありません。ペトロは最初に読んでいただいた箴言3章34節を引用して、皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、 「神は、高慢な者を敵とし、 謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。この様に言います。皆互いにですから教会総会の選挙で選ばれて長老会の構成員となった人も、選んだ人も、そして教師も「互いに謙遜を身に着けなさい」です。
それでは謙遜であるとはどの様なことなのでしょうか? 4つ挙げましょう。
1. 自分自身を適切かつ正確に評価すること
2. 生涯に渡って学び本物に目を向け続けること
3. 自分の人生の真の姿を知りそれにふさわしく生きること
4. 父なる神様こそが全能の神様だとハッキリ知って日々を生きること
間違えてはいけことは、決して自分なんかダメな人間だ、役に立たないんだ。そんな思いを持つことが謙遜ではありません。自分を正しく知ることが大切なのです。過大評価はもちろんですが過小評価も謙遜とは別物なのです。
自分自身を正確に知ることになった二人の人の話から始めましょう。一人目はパウロです。ローマの信徒への手紙7章15節以下で、 15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。 この様に冷静に自分を見つめた彼は続けます。19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 皆さんはいかがでしょうか? 本当にやらなきゃいけないことは、大体分かっているんじゃないでしょうか。私の場合、もう一つあります。それは、チャントやらなかった時に言い訳を見つけ出すことです。子供のころ夏休みの終わりになって宿題が終わってない理由に、「だってCSのキャンプに3日間も行ったもん!」 この辺が始まりだったのでしょう。とにかく言い訳を見つけるんです。でもこれって全てをご存知の神様の前では空しい事ですね。パウロは罪の奴隷になっている自分に気づいて、さらに続けます。24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。心の中で、正しいことをしなさいと言う聖霊の諭しと、ちょっとくらいいいじゃないと言う悪魔のささやきが争った時に、しばしば悪魔の誘いに負けてしまう私なのですが、パウロは十字架に架ってまで愛してくれた主イエス・キリストを思い起すことで謙虚さを取り戻したのです。
二人目はジョン・ニュートン牧師、讃美歌アメージング・グレースを作詞しました。1725年に熱心なクリスチャンの家庭に生まれた彼はやがて奴隷貿易船の船長になりました。黒人奴隷たちを身動きの出来ないほど詰め込んだ悲惨な状態で大西洋を渡ってアメリカに運んだのです。かわいそうに思いつつもみんながやっていることなので、奴隷解放運動に目覚めたわけではありませんでした。そんな彼に転機が訪れたのは、嵐で船が沈みそうになった時でした。子供の頃から祈りの言葉は口にしていたのですが、この時、初めて真剣に助けを祈りました。救われた彼は神様の愛を強く意識したのでしょう。やがて英国国教会の牧師となり、奴隷貿易禁止運動を支援したのです。
彼の作詞したアメージング・グレース「くすしきみ恵み」は讃美歌21の451番に収録されていますが、元の歌詞を意訳してみました。≪アメージング・グレース、驚くばかりの神様の恵み。ああ、なんと美しい響きだろう。奴隷船の船長として富を得ていた、わたしの様な者までも神様は救ってくださった。かつて歩むべき道を見失ってしまっていた私だけど、今はハッキリとそれが分かる。見えていなかった神様の恵みを今はハッキリと見ているのだから。≫ 
彼は人生と言う航海の途中で、船が難破して命の危機を経験したことで、謙虚さを取り戻しました。そして驚くばかりの神様の恵みに気づくことが出来た喜びがアメージング・グレースなのです。
「波多野先生。」またあなたですか。なんでしょう。「この二人って、私とは違って、やっぱり特別な人じゃないですか?」たしかに、二人の働きは私とは大きく違います。聖霊によって与えられた信仰の言葉を聖書に残して2000年に渡って世界中の人に主の福音を伝えて来たパウロですし、300年に渡って世界中の人に「神様のくすしき恵み」を思い起させたニュートンです。彼らが生み出したものは私と大違いです。しかし、彼らに与えられた聖霊の導きと恵みは、同じように私たちに与えられているのです。
先週もお読みしました。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ福音書3章16節です。聖書はハッキリと私たちの罪、即ち「神様と自分と隣人を愛する」ことから外れてしまうことが「罪」の本質だと指摘します。私は皆さんの前では善人で信仰深く振舞うことが多いでしょう。しかし、知っている人が誰もいないところでは、あるいは逆にごく親しい友人や家族の前では自己中心的になることもあります。いや、しょっちゅうそうかも知れません。
皆さんは家族や親しい人から「あんたは、教会に行っているのに!」と言われたことないでしょうか? これって、多くの場合本質を見抜かれているわけですから、言い訳をしても無駄でしょう。実は、「あんたは、教会に行っているのに! 洗礼受けたのに!」この言葉はすぐに悪魔の誘いに負けて罪に陥ってしまう私に、神様が一番おっしゃりたいことではないでしょうか? 「あなたは、クリスチャンになって私に従うと誓約したのに!」です。高慢さが打ち砕かれたパウロとジョン・ニュートンを紹介しました。
2番目。生涯に渡って学び本物に目を向け続けること  これはカルチャー教室の勧めではありません。謙遜になって学ぶ、学ぶことで謙遜になる。皆さんもいろいろな趣味をもってらっしゃるでしょう。上手な人、達人と呼ばれるような人の作品や業に出合うことは大きな喜びであり、上達するために役立ちます。骨董屋さんが弟子を育てる時に、贋物と比較して見せることはしないそうです。本物に親しむことでしか、真贋を見分けられる様にならないと言うのです。
私たちです。聖書を読み祈ること。信仰の友と礼拝を守ること。これが本物に目を向け生涯学び続けることの本質です。その上で、みんなで学んだり奉仕をする。あるいは一緒に遊ぶのも良いでしょう。主にある交わりは楽しいものです。
3番目は、自分の人生の真の姿を知りそれにふさわしく生きること です。自分のことを正確に知る。お相撲さんならば星取表でしょうし、歌手ならばCDの売り上げ枚数、国会議員なら当選回数なのでしょうか。中には預金通帳と言う人もいるかも知れませんが、それらは人生の一面でしかありません。
私たちには誕生があり死があり、肉体はこのことから逃れられません。しかし、先ほどお読みした 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。この主の言葉を前提にすれば、主と共にある永遠の命が約束されている私たちです。まだ洗礼を受けてらっしゃらない方は永遠の命へと招かれているのです。だとしたら、私たちの人生は誕生から死に至る有限の時間として考えるのではなく、主と共にある永遠の命として考えるのです。現在私たちはその第1章を一緒に歩んでいます。
神様がどの様な恵みや導きを与えてくださったのか? 与えてくださっているのか、数え上げてみてください。私は思い浮かぶことが沢山あるのですが、今こうして招かれて皆さんと一緒に礼拝を献げていることは、大きな恵みに違いありません。
さらに永遠の命が約束されている。これこそが私の人生の真の姿だと思うのです。もちろんそこには様々な障害もあります。これからもあるでしょう。しかし、主が共にいて下さり大きな愛の翼で覆ってくださっているのです。
ダビデ王は歌いました。36:8 神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ9 あなたの家に滴る恵みに潤い あなたの甘美な流れに渇きを癒す。10 命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたしたちは光を見る。11 あなたを知る人の上に 慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に 恵みの御業が常にありますように。(詩編36編)
自分の人生の真の姿を知りそれにふさわしく生きること 真の姿は主の大いなる翼に覆われている姿です。どの様にそれにふさわしく生きるかは一人一人異なるのでしょう。しかし、共通していることがあります。そうです。聖書に導かれ祈り礼拝に心を向けることです。隣人を愛する働きはそこから出てきます。
4つ目は、父なる神様こそが全能の神様だとハッキリ知って日々を生きることです。まずどの様にしてそれを知ることが出来るのでしょうか。天地を創造された神様は大自然を通して、歴史を通して語り掛けてくださいます。預言者たちの言葉だけでなく、聖書全体を通して語り掛けてくださいます。しかし、神様がモーセにシナイ山で語り掛けられた時に モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。(出エジプト3:6)のです。神様を見た者は死ぬからです。ですから使徒ヨハネは言います。いまだかつて、神を見みた者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(ヨハネ 1:18) 私たちは主イエス・キリストを知ることに依ってだけ、父なる神様を正しく知ることが出来るのです。今日3回目になります。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神様が私たちをどれほど愛してくださっているかを知った私たちが、それにふさわしく生きるとはどういうことなのでしょうか。二人の人を見ましょう。 主イエスです。十字架を前にしてオリーブ山で祈られました。 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ福音書22:42) 「波多野先生、御心のままにって、それが究極の謙遜だと判ります。でも、私にはとても無理です。」
じゃあ二人目に行きましょう。パウロです。最初にコリントの信徒への手紙Ⅱ11章29節以下を読んでいただきました。30節。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。とパウロは言います。しかし彼は、投獄されたり、鞭打たれたり、石を投げつけられたり、嵐で船が沈んで海上を漂ったり、盗賊にあったり、この他にもありとあらゆる困難にあっても伝道旅行を辞めません。主の福音を届け続けたのです。(Ⅱコリント11:23-28)パウロに、自分は弱いなんて言われると困ってしまいますが、彼の話をもう少し聞きましょう。コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章6節以下です。パウロは自分が思い上がらないように一つのとげが与えられたと言います。眼病とか癲癇(てんかん)あるいはマラリヤだとか言われますが良く分かりません。いずれにしろ彼の伝道の妨げになったことは確かです。パウロは3度このとげをとってくださるように祈りました。12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 
「波多野先生。パウロのすごさは分かるんですけど、自分にはとても無理です。」それでは、パウロの言葉を言い換えてみます。自分の弱さを知った時、即ち謙遜さをとり戻した時に私たちは強い。なぜならば自分の弱さ、至らなさを覆いつくしてくださる主イエス・キリストの大きな愛を知ることが出来るのだから。
パウロは乗っていた船が難破して海を漂った時、「私は主の為に伝道旅行を続けている、だからこんなの平気平気」と言ったのではなく、「助けてください!」と真剣に祈ったのです。これって「アメージング・グレイス」を作詞したジョン・ニュートンと同じです。私たちも、苦しいとき・悲しいとき・辛いときに「助けて下さい!」と祈るんです。
マタイ福音書11章28節以下には「わたしのもとに来なさい」と小見出しが付けられています。11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。何度もご一緒に読んで来た主の言葉です。日々の生活の中で、あるいは人生に於いて疲れを覚えることは多いのではないでしょうか。休ませてあげよう。との言葉は慰めに満ちています。しかし、そのあとすぐにわたしの軛を負いなさいです。私と一緒にはたらきなさいです。いつもこの様に申し上げています。「休ませてあげよう」は保養所で、「わたしの軛を負いなさい。」はリハビリであり機能回復訓練です。
日々の生活で心も体も疲れ切ってしまった時、愛が満ちた保養所で癒しの時を過ごせば回復するでしょう。しかし、それで元の厳しい生活に戻れば、またすぐに疲れてしまいます。心も体も鍛えてくださる。それが主と共に重荷を負って働くことです。最初は重荷のほとんどを主が担ってくださり、回復状態に応じて自分の重荷が増えてきます。そして訓練を終えた時には「よく頑張ったね、もう一人で歩いて行けるよ。」こう言って送り出してくださるでしょう。心も体も以前よりたくましくなって、共に歩んでくださる主のことを心に強く刻んで戻って行くのです。恵みをいただく、スタート地点は私たちが謙遜になって弱さを認め主のもとに行くことなのです。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。と言われた主はわたしは柔和で謙遜な者だとおっしゃっています。
これはギリシャ語の話になるのですが、新約聖書ではタピノフォロスーネ(ταπεινοφροσύνη)と言う言葉を「謙遜」と訳していますが、私は謙遜な者だとおっしゃるこの言葉だけはタピノス(ταπεινός)と言うギリシャ語が使われていています。タピノスは、身分が低いために社会的に見下されている、そんな意味を持った言葉なのです。
主は十字架を前にした最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗ってくださいました。これは当時、奴隷の仕事でした。真の王として来てくださった方はまさに「謙遜」な方だったのです。だとしたら主に従う私たちは「神様と自分と隣人」に対して謙遜でなければなりません。そして自分の弱さを誇りましょう。なぜなら、自分の弱さに気づき謙遜になる時に、私たちが神様の豊かな愛の中で生かされていることを一番よく感じられるからです。こんな人生は素敵ですね。祈りましょう。