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山形六日町教会

2022年10月9日

聖書:エレミヤ書2章11~13節 ガラテヤの信徒への手紙4章8~11節
「神に知られている」波多野保夫牧師

説教シリーズ「あなたへの手紙」の19回です。前回から3か月ほど経ってしまいましたが、この説教シリーズでは新約聖書の1/3以上を締めています手紙が私たちに宛てられた手紙との思いで読み進めています。
主イエス・キリストの十字架における死と復活の出来事を契機として誕生した教会が、ローマ帝国の支配の下にある地中海沿岸地方を中心に発展して行く際に、多くの困難が待ち構えていました。教会の外からはローマ帝国やユダヤ教指導者たちからの圧力を受け続けていましたし、さらに内部には主の福音理解についての対立がありました。当時の教会にキリスト教と同じ天地を創造された唯一の神を礼拝するユダヤ教から転向した人が多かったのですが、彼らは何世代にも渡って、ユダヤ人が神様から選ばれた民族であり律法に忠実であることこそが正しい信仰だと教えられて来たので、その影響が様々なところに現れるのは致し方ないことでした。
しかし、それはイエス・キリストが世界中の全ての人を愛してくださったことであり、人の罪を負って十字架に架ってくださったことを無にするものだったのです。各地に立てられて行った教会は外からの迫害と共に、内側から福音の本質が失われてしまう両面の危機を抱えていました。多くの手紙が残されている使徒パウロの場合、3回の伝道旅行の際の生まれた教会がその後正しい福音から逸れないように祈り続けたのですが、コリントの教会やガラテヤ、フィリピ、テサロニケなどそれぞれの教会がそれぞれの問題を抱えていました。今ならば、飛行機や新幹線で直接訪ねて行ったり、あるいはネット会議で問題に対処するのでしょうが、当時は長い時間をかけて危険な旅をして訪問するか、弟子を派遣して対応させるか、後は手紙に書いて送ることくらいしかできませんでした。パウロはこの3つの方法を用いて教会が主イエス・キリストの福音に正しく立ち続けるように導いたのです。
そして特に手紙による指導は、手紙のあて先とされた教会だけではありません。書き写した手紙がほかの地域の教会にも送られました。それだけではありません。私たちを含めて時代を超えてすべての教会に、主の福音をただしく告げるものとして、聖書に編纂されたのです。
さてパウロがこの手紙を書き送ったガラテヤ地方の教会は、現在のトルコの内陸部に位置しており、使徒言行録によれば第3回伝道旅行の最初に訪問しています。(使徒言行録18:23)彼は次に地中海に面したエフェソの教会を訪問したのですが、そこでガラテヤの教会に起こった問題を知らされました。
パウロが去った後、ガラテヤ教会の指導者となったユダヤ教からキリスト教の信仰に入った人たちは、三位一体の神様に一生懸命に従おうとしていたのですが、幼い時から律法を守ることが神様の愛にこたえることだと教えられて育った者たちです。
一方、ガラテヤ地方には異邦人、即ちユダヤ人以外の異教徒が住んでいましたから、彼らの中からキリストの福音を受け入れてクリスチャンになった人たちが教会にいました。この様な状況で、教師たちは異教徒からクリスチャンになった人たちに律法遵守、具体的には割礼を受ける様に求めたのです。
ガラテヤの信徒への手紙1章6節です。 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。パウロが教会を去ると主の福音に生かされるのではなく、律法に支配される信仰に戻ってしまった彼らは、律法を守れと言う明快な方針を示した偽教師に魅力を感じたのでしょう。
1章7節8節。 ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。大変強い言葉です。パウロが伝えた、主イエスに従う信仰によって救われる福音ではなく、律法を忠実にまもらなければ救われないと教える偽教師どもは呪われてしまえ! です。
「波多野先生。二つ質問があります。
一つは「律法」についてです。マタイ福音書の5章17節18節で主はおっしゃってます。 わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。パウロが言っているのと違って、やっぱり律法はキチンと守んなきゃいけないんじゃないですか?」 
聖書を良く読んでますね。そうです、当然律法は守らなければいけません。私たちも同じです。しかし、その守り方が問題なんです。当時、安息日に仕事をすることは律法違反だと厳しく言われていました。人々を律法の規定で縛り上げていたファリサイ派の人に言われたのです。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」 律法は「神様と自分と隣人を愛する」様に守らないといけないのです。もちろん十戒が言う殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、人のものを欲しがるな。こんなことが隣人を愛することには絶対になりませんし自分を幸せにする事も決してありません。だから厳しく禁じるのです。
「二つ目の質問です。パウロが偽教師に対して「呪われるがよい。」と言っていますが、人に向かってこんなこと言って良いのですか? 彼もローマの信徒への手紙12章14節では あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。 て言ってるんです。」本当に良く聖書を読んでますね。辞書によれば「呪う」は、「他人の不幸を神などに祈り願うこと」とあります。そんなことしちゃいけません。
聖書原典が書かれているギリシャ語での説明になってしまうんですが、呪ってはなりません こちらはカタロウマイ(καταράομαι)と言う言葉で文字通り「呪う」と言う意味です。人の不幸を神様に願ってはいけないのです。そんなことしたら、敵を愛することにならないですね。
一方、偽教師に対して「呪われるがよい。」と言っている方はアナテマ(ἀνάθεμα)と言う言葉で、「呪う」と言う意味の他に、「神様の裁き神様の怒りに引き渡す」と言う意味を持っています。「私が伝えた福音は律法の縄目からガラテヤ教会の人を自由にするのだが、偽教師は律法に縛り付けようとしている。神様どうぞ偽教師たちを裁いてください。」パウロはこう言っているのです。
「でも波多野先生、それじゃパウロは自分の語る福音は絶対に正しい。ガラテヤの教師たちは間違っている。こう言っていることになるのですが、何で自分のは正しいって分かるんですか。キリスト教の歴史で異端と言われた人たちだって自分の福音は正しいって言ってたんでしょう。」
主イエスに出会ってキリストに従う者に変えられたパウロです。彼が正しいんじゃなくて、彼に聖霊が語らせた言葉であり、聖霊が働いて聖書に収められた彼の手紙が伝える福音が正しいんです。私たちの信仰の正しさについて言えば、それは2000年の歴史を通して伝えられて来た聖書が語る信仰に立っていることです。
「でもこの前悪魔も聖書の言葉を用いるって言って、悪魔が荒れ野でイエス様に言った言葉、マタイ福音書4章6節を読んでくれたじゃないですか。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、 あなたの足が石に打ち当たることのないように、 天使たちは手であなたを支える』 と書いてある。」これって、たしか詩編91編11節12節ですね。」
そうです。聖書は正しく読むことが必要です。最近新聞紙上を騒がせている宗教団体は、聖書の言葉を盗んでいますから、神様の愛に基づいた「平和」「家族愛」「死後の世界」などを語ります。彼らの教義からだけではカルトだと分かりにくいのですが、教祖自身がメシア宣言をしてくれたことでそれがハッキリします。
私たち日本基督教団の教会は、信仰告白で信仰の内容を明らかにします。さらに教憲・教規と呼ばれる規則で教会の形を明らかにしています。この日本基督教団信仰告白は2000年の間にあった様々な信仰の戦いを通して、教会が告白して来たいくつかの信仰告白に立っています。使徒信条はその一つなのです。
ですから、六日町教会で説教者が信仰告白から外れた説教、例えば三位一体の神様を否定する説教をしたときには、長老会は「呪われるがよい。」と祈るのです。神様この説教者を裁いてくださいと祈るのです。
いろいろと話しましたのでまとめをしておきましょう。パウロは、第3回伝道旅行でガラテヤの教会に主の福音を伝えたのですが、次に訪ねたエフェソにいる時、ガラテヤ教会の教師が、律法を守ることを強制していることを知りました。これはキリストの福音とは違います。絶対に受け入れることが出来ません。私たちは信仰によって、イエス・キリストを救い主として信じ従う信仰によってだけ救われるのです。そして救われた喜びから自然に出てきてしまうのが善い行いなのです。隣人を愛すると自然に出てきてしまうんです。本当に神様を愛するとき、自分と隣人を愛さないではいられません。なぜならば、神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)皆が神の独り子を信じるようにとの祈りが自然に出てきてしまう。これって伝道の第一歩ですね。

今日与えられた聖書のみ言葉を順に聞いて行きましょう。ガラテヤの信徒への手紙4章8節。ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。 ガラテヤ教会のユダヤ人以外の人たちは、かつてそれぞれの神様、天地を創造された父なる神様以外の神々を礼拝していたのです。献げものを献げ、心を献げていたのです。これって日本の教会に集う多くの人に通じるところがありますし、私たちがこれから福音を伝えていく山形の人たちも同じです。大自然や岩や木を神としているのであればそれは全て神様が創られたものですし、変なおじさん教祖が自分は救い主だと言っているのに従ってはいけません。
9節。 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。ガラテヤの教会の人たち、そして私たちは、天地を創造された父なる神様が愛の神様、私たちを愛したくてしょうがない方だと知っています。聖書が語る主イエス・キリストを見ることで、あるいは日々私たちを導き、恵みと慰めを与えてくださる聖霊の働きを感じることで、神様の愛を知っています。
それなのになぜ?とパウロは問います。あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。なんで偶像、即ちイエス・キリスト以外の者に、心を向け、心も体も支配されてしまうのですか!
イエス様は「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」この様におっしゃいました。真理とは神様の変わることの無い愛です。これを聞いた人たちは言いました。私たちは今まで誰かの奴隷になったことはありません。どうして「自由になる」なんておっしゃるんですか? イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(ヨハネ福音書8:32-34) 
私たちは主の愛を知っています。しかし、主イエスから目を反らす時に様々な偶像の奴隷になってしまいます。偶像とは自然の木や石や、あるいは人の造った彫り物や絵だけではありません。主イエス・キリスト以外のものに、心を向け、心や体を支配されるのであればそれは偶像です。
先程お話しした自分が救い主だと言ってはばからない変なおじさんもそうですが、お金に目がくらむ拝金主義、出世第一、成績第一、家族第一と言うのも危険な面があります。もちろんそれらの為に努力することは決して悪いことではありませんし、ある面で必要なことでしょう。しかし、他人を押しのけて、自分だけが、自分たちだけがとなると、それはもはや偶像です。主イエス・キリスト以外のものに、心を向け、心や体を支配されているのですから偶像です。私たちが主に心を向けて、主の御命令「神様と自分と隣人を愛すること」に心と体を用いる時、偶像に支配されることは決してありません。

最初に読んでいただいたエレミヤ書は、神様に逆らい続ける南ユダ王国がついにバビロニア帝国に滅ぼされてしまう危機の時代にあって、神様の言葉を伝えた預言者エレミヤの物語です。2章11節 一体、どこの国が 神々を取り替えたことがあろうか しかも、神でないものと。ところが、わが民はおのが栄光を 助けにならぬものと取り替えた。 生ける神に従わない人たちは偶像、即ち神でないものに心と体を支配されていたのです。13節は神様の言葉です。 まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて 無用の水溜めを掘った。水をためることのできない こわれた水溜めを。不信仰とはこういうものです。
ここで主イエスの言葉が思い起こされます。ヨハネ福音書4章14節です。 わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。 聖霊が私たちの心と体の内に満ちてくださる。こんな人生を歩みたいと思います。
ガラテヤの信徒への手紙4章10節に戻りましょう。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。パウロは様々な記念日や祝祭日のことを言っているいるのでしょうが、チョット分かりにくいですね。
キリスト教の3大祝祭日はクリスマス、イースター、ペンテコステと言われます。それぞれ神様の大いなる愛とご計画を思い起すのに相応しい日です。大切にしたいと思います。しかし、その結果週ごとの礼拝がいささかでも軽んじられたり、朝毎の感謝の祈りが軽んじられるのであれば、祝祭日さえも偶像化してしまいます。
詩人は歌うのです。 いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは いと高き神よ、御名をほめ歌い 朝ごとに、あなたの慈しみを 夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは(詩編92:2,3)毎日が主と共に在る喜びの日、こんな人生を歩みたいと思います。
4章11節。パウロは言います。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。これが、信仰の友であり教会の祈りです。共に主を礼拝した信仰の友が、主イエス・キリストの愛に目を背ける様であれば、壊れた水溜に主の愛を注いでしまう様であれば、その回復を祈るのです。 4章8節以下を順に読んできましたが、一つの言葉を飛ばしてきました。4章9節の私たちは「神様に知られている」です。
実は本日お手元に届いた月報の10月長老会報告に、教会事務を軽くする必要に関連して、会計報告をどこまで月報に記載するかと言う課題があります。みんなで決めて行けば良いのですが、ある教会では月定献金の個人名と金額を全部公表しているそうです。確かに「神様は全てご存知なのだから、一生懸命ささげたものをなんら隠す必要はない。」と言うことなのでしょう。長老会は「理屈では確かにそうなんですが、弱さを抱えた私たちだと言うことも大切にしたいと考え、その方法は取らないことにしました。」 主イエスは次の様に語られました。 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。(マタイ福音書10:29-31)
主は、私たちの良い点も悪い点も全てご存知の上で、今日も愛してくださっています。今日も恵みを与え導いてくださっています。 ですから全てを知ってくださっていることは、私たちの喜びなのです。この主の愛に感謝して「神様と自分と隣人を愛する」一週の歩みを始めて行きましょう。 祈ります。