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山形六日町教会

2022年9月11日

聖書:詩編34編1~15節 ローマの信徒への手紙12章1~3節
「最高の人生を送るには」波多野保夫牧師

夏期説教シリーズの10回目、最終回となりました。7月10日からアルファ・コースで取り上げられている、キリスト教信仰の中心にあるテーマについて、聖書のみ言葉を聞いて来ました。主イエス・キリストとはどの様な方なのか? 聖書とは? 祈りとは? 教会とは? さらに、悪魔が支配しているのではないかとさえ思える現代にあって、悪魔に負けないで力強く生きて行くにはどうすれば良いのか。
シリーズの中で何回かアルファ・コースの講師、ニッキー・ガンベル牧師の話をビデオで見ていただいたのですが、これは環境が整ってアルファを再開できれば、皆さんに知り合いの方を誘っていただきたい。その為にはコースの雰囲気を知っていただきたい。この様な思いで見ていただきました。
アルファ・コースでは軽食を共にしてから、ビデオを見て話し合いの時を持ちます。同じ釜のメシを食べた者同士がビデオを見た後、心を開いて話し合い、理解を深めて自分のものとしていくと言う訳です。現在、食を共にするのに適さない状況が続いていますので、改善を待って始められればと願っています。

さて、本日の説教題を「最高の人生を送るには」としましたが、皆さんは今日に至る人生において、様々な思い出がおありでしょう。辛い・苦しい・悲しい・寂しい・うれしい・楽しい。様々なことがあったことでしょう。「それぜんぶです」とおっしゃる方もおありでしょう。「人生には浮き沈みが付き物だ」と言いますから、確かにいろいろなことが起きます。さらに、私たちは人との関係を持ちながら社会の中に生きているので、ほっといて欲しい。反対に聞いて欲しい、喜んで欲しい、祈って欲しい。こんな時もあったことでしょう。
私たちは過去の出来事自体を変えることは出来ません。私は1949年1月15日に生まれ、坪内小学校と花水小学校に通い、浜竹中学を卒業しました。1964年のことです。過去の出来事であり、すでに起きてしまったことを変えることは出来ません。しかし、その意味を変えることは出来ます。私は1966年10月2日の宗教改革記念日礼拝で同学年の5人が一緒に洗礼を授けていただきました。当時は「信仰深い友人がまず受けるって言い、みんなが受けるって言うから、じゃあ一緒に。」こんな感覚でした。 1966年に洗礼を授けていただいた出来事は変わりません。しかし、その意味であり大切に思う気持ちは全く違います。さらに、あの時でなかったら、仕事の忙しさを理由にして今でも主の聖餐に与ることは無かったことでしょう。
余談になりますが、日本基督教団の一部の教会で、まだ洗礼を受けるに至っていない方への配餐が行われています。未受洗者陪餐と呼ばれますが、一緒にあずかれないのは、気の毒だし差別だと言うのです。私は56年前に初めて与った聖餐式で一つだけ忘れられないことがあります。当時、母教会では赤玉ポートワインが用いられていました。その時いただいたポートワインが食道を下って行き、それこそポーっと暖かくなる感覚です。
これは後になってなのですが、エマオに下って行く途中、復活されたキリストにお会いした弟子たちは言いました。 「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ24:32) この出来事に重なるのです。未受洗者陪餐は、この生涯に渡っての感動を奪うものでしょう。聖霊が信仰へと招いてくださることに差別はありません。洗礼をまだ受けるに至っていない方にもぜひ主と歩む喜びを共にしていただきたいと思いつつ、やはり順序は大切なのです。
私たちは過去に起きた出来事自体を変えることは出来ないのですが、その意味合いは変わる、あるいは変えることが出来るのです。 私たちはこの2022年9月11日午前10時35分と言う時に、一緒に礼拝を守っています。そして聖書を通して主のみ言葉を聴いています。私はみ言葉を取り次ぐと同時にそれを聴いています。時間と場所を共にしている、これが私たちの現在です。
次に、これから起こることに目を向けましょう。礼拝が終わると家路に着きます。以前、「礼拝が終わって教会から出ていくことは、主の福音を伝えるためにこの山形の地に派遣されることです。このことを覚えて、新しい一週の歩みを始めましょう。」この様に述べました。
私たちは1週間後に再び礼拝へと呼び集められます。間もなく周辺の田は黄金色に輝き収穫の秋もピークを迎えるでしょう。周りの山も白くなり、アドベントを迎えクリスマスの準備に忙しくも喜びの時がやってきます。コロナが落ち着いて愛餐会が回復できると良いと思います。
その1週間後には2023年を迎えます。現在は満年齢で数えますから、この日に皆が年を取るわけではありませんが、1年たてば全員が平等に一歳ずつ歳を重ねます。しかし、これが永遠に繰り返されるわけではありません。
私たちには2つの終わりがあります。
1つは、いつの日にか神様の御許に召されることです。何時なのかは神様がお決めになるのですが、例外はありません。その日から天上の教会でキリストと共に守る礼拝への出席が許され、すでに召された方々と礼拝を共にする。素敵じゃないですか! 主の大いなる愛は、死の向こう側にまで続くのです。教会墓地に「我らの国籍は天に在り」(フィリピ3:20)と刻まれている通りです。
もう一つの終わりは終末の時です。使徒信条は、「主イエスは かしこより来たりて、生ける者と死ねる者を裁きたまわん。」と告白します。私たちの罪を負って十字架に架り、墓に葬られ、3日目に復活された主、そして40日目に父なる神のもとに帰られた主が再び地上に来て裁きを行い、すべての悪を滅ぼしてくださる。真の平和をもたらしてくださる。それが終末の日です。ですからクリスチャンにとっては決して破滅の日ではなく、希望の日なのです。
「でも、波多野先生。いつも主イエスと一緒って、なんか見張られていてチョットでも悪いことをすると叱られそうで困っちゃいます。」主イエスは今も一緒にいて下さり、全てをご存知なのだから今でも隠し事は無意味です。神の国では、みんなが同じように愛されていることを感じているのですから、「自分はいい子に見られたい」なんて考える必要はないのです。終わりの日の向こう側を気にするのではなく、私たちに問題なのは明日から、いや今からと言って良いでしょう、この二つの終わりの時のどちらかがやって来るその時までを「どの様に過ごすのか」と言うことにつきます。経験によれば、その日々は決して平坦ではないでしょう。

まず聖書のみ言葉を聞くことから始めましょう。最初に読んでいただいた詩編34編です。ダビデはイスラエルの為、サウル王の為に戦い勝利を重ねて行ったのですが、人々は「サウルは千を討ち ダビデは万を討った。」(サムエル記上 18:7) この様に囃したてたのです。
疑い深いサウル王はダビデの命を狙うようになりました。追手から逃れる日々の中で、窮地に陥ったダビデは気が狂ったのだと見せかけて(サムエル記上21)窮地を脱した際の詩です。人生の大きな危機を経験したダビデの証言を聞きましょう。詩篇34編2節以下です。 2どのようなときも、わたしは主をたたえ わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。3 わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。4 わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。 「貧しい人よ」とあるのは、主イエスが「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。」この様におっしゃったのと一緒です。へりくだった人、神様と隣人の前でです。自分に対してへりくだることも必要でしょう。
ダビデの証言は続きます。5 わたしは主に求め 主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。7節。この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。 謙虚さを保ち続ける時に、主は祈りを聞き苦難から救ってくださるのだと自分の経験をもとにダビデは言うでしょう。 「私の3000年後に生きるあなたがたも謙虚でいなさい。神様の愛は私の時代と全く変わらないのだから。」
12節以下は私たちへの諭しです。12 子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう。13 喜びをもって生き 長生きして幸いを見ようと望む者は14 舌を悪から 唇を偽りの言葉から遠ざけ15 悪を避け、善を行い 平和を尋ね求め、追い求めよ。 私たちが「豊かな人生を送るには」 神様と隣人と自分に対して謙虚でありなさい。なぜなら人がおごり高ぶると、神様の愛が見えなくなるのだからだ。
さらに続けるダビデの勧めを心に留めたいと思います。14節。舌を悪から 唇を偽りの言葉から遠ざけ15 悪を避け、善を行い 平和を尋ね求め、追い求めよ。です。

さて、次に新約聖書ローマの信徒への手紙12章1節から3節を読んでいただきました。週報には12章全体を記してあります。順に読んで行きましょう。2節。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 
パウロは「何が神様に喜ばれることなのか、分かっているだろう!」と私たちに言います。いかがでしょうか? 皆さん分かってらっしゃることでしょう。 それでは、神様が自分のどこを直す様におっしゃるのか、分かってらっしゃるでしょうか?
パウロは大変厳しいことを言います。12章1節にあります。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 
いつも「波多野先生」と言って質問する彼が聞きそうです。「自分の体を生贄(いけにえ)として献げるって、譬えなんでしょうけど修道院にでも入るんですか? そんなことできません。だって二つの終わりの時が来るまでにやりたいことがいっぱいあります。」 確かにそうでしょう。これは2節にあります、あなたがたはこの世に倣ってはなりません。この言葉に注目して読むのが良いでしょう。
新聞を開くと「この世の思い」が沢山目に付きます。話題を集めている政治家の例を考えて見ましょう。彼らの多くは、「より良い社会にしよう」との志を持って政治の世界に入りますが、自分の思いを実現するには権力が必要だと思い知らされます。普段は先生・先生と呼ばれますが、「選挙落ちればタダの人」と言われる厳しい世界です。当選回数を重ねるために票欲しさのあまりに手を出してはいけない関わりを持ったり、権力をお金で買おうとしたり、名誉が欲しくなったり。幸運にもそれらを手に入れた時のおごり高ぶり。残念なことですが、最初の志と違う方向に進んでしまった記事が多くみられます。
何も政治の世界だけではありません。自分や家族の幸せであったり、力や名誉などへの誘惑による利己的な振る舞い、残念ながら「この世の思い」に飲み込まれてしまうことはしばしば見られます。
先ほど「神様が自分のどこを直す様におっしゃるのか、分かってらっしゃるでしょうか?」と尋ねましたがいかがでしょうか?主はおっしゃいます。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。(マタイ7:3) 他人の小さな欠点にはやたらに敏感なくせに、自分には甘い。神様は全てお見通しです。
逆に自分の欠点への思いが心を塞いでしまう。神様はそのどちらも望まれません。主イエス・キリストの十字架の出来事を無にするからです。
実は、自分の欠点を直していくことは大切ですが、ある面後ろ向きの作業になり大変です。一つ直しても次の課題が浮かび上がってくるでしょう。それではどうするのでしょうか。9節から20節には「キリスト教的生活の規範」と言う小見出しが付いています。そうです、欠点を直すのではなく、キリストのなさったことを「まねして行く」のです。実は、これこそが「最高の人生を送る」秘訣なのです。
ゆっくりお読みします。 9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
いかがでしょうか。1節にある 自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 この言葉の具体的な中身が6節以下なのです。なぜならこれが、主イエス・キリストがなさったことであり、なさってくださったことだからです。
「波多野先生、現在とそれから未来を「最高に生きる」のには、謙遜な心でイエス様をまねして行くことが大切なんだと分かりました。そのことを思い起こさせてくれる毎週の礼拝が大きな恵みだと分かりました。
でも、過去に負った傷はどうなんですか? やっぱり暗く重い過去の出来事は何とかならないんですか?」最初に過去の出来事自体は変えられないと言いました。しかし、その意味は変えられるとも言いました。どんなに辛い悲しい過去であっても、それは主の愛を光輝かせるための暗闇だったのではないでしょうか。真の光、主の愛にはその力があるからです。十字架での残酷な死を経験された主は墓に葬られ、陰府に降り、三日身に復活なさった方です。復活の主に従う時、暗闇は光に勝てません。ヨハネ福音書1章9節。 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 私たちは「最高の人生を送る」方法を聖書から聞いて来ましたが、最後に一つ心に留めたいことがあります。総理府が「若者の意識調査」結果を発表しています。その中に「働くことに関する不安」と言う項目がありました。多くの若者が「十分な収入が得られるか。老後の年金はどうなるか。」をあげており、「仕事を続けられるのか、働く先での人間関係がうまくいくのか。」が続きます。富の偏りが指摘されている現代です。
次に「自分の居場所、ホッとできるところ」と言う問いが目に留まりました。「自分の部屋、家庭に続いて、インターネット空間」とあるのですが、「どこにも居場所が無いと言う」答えが5.4%もありました。「教会が私の居場所だ」と言って欲しいと思います。 「最高の人生を送る術(すべ)」を与えられている私は、主の福音が広がるためにもっと祈らなければならないと思いました。
私たち自身は「礼拝が終わって主の福音を伝えるためにこの山形の地に派遣されます。」 天に国籍を持つ私たちです。「礼拝こそが私の居場所」だとしたうえで、ぜひ教会に集う喜びを伝えていただきたいと思います。礼拝に集うこと、礼拝を覚えて祈ることで一週の歩みを始める「幸せな人生を」主に感謝しましょう。 祈ります。