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山形六日町教会

2022年9月4日

聖書:エレミヤ書7章3~6節 コリントの信徒への手紙Ⅰ6章19~20節
「教会とは」波多野保夫牧師

夏期説教シリーズの9回目です。先週は説教の最後に、テサロニケの信徒への手紙5章14節以下をお読みし、「このみ言葉を覚えて一週の歩みを始めましょう。」と申してご一緒に祈りました。兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 この一週間いかがだったでしょうか。私はつい怠けてしまう自分を戒める日々であったかと思います。

本日は「教会とは」と言うテーマでキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることを聖書のみ言葉によって聴いて行きます。私たちは今、この様に山形六日町教会に招かれて礼拝を守っています。ですから、教会とは何かと問われれば、「それは神様を礼拝する所です。」この様に答えるでしょう。大正解です。 新約聖書使徒言行録は、主の十字架と復活の出来事から50日目に当たるペンテコステの日に聖霊が降り教会が誕生したことを告げています。(使徒言行録2章) それでは、ペンテコステの日以前はどうだったのでしょうか? 
神様を礼拝する場所を歴史的にたどってみましょう。旧約聖書創世記は天地創造に続く3章でアダムとエバが犯した「罪」について語りますが、彼らはエデンの園で神様にお会いしていました。これが人類初の礼拝と言えるでしょう。
しかし、その礼拝は人が罪を重ねる場になってしまいました。エデンの園から追放されると言う裁きの場でもありましたが、その際神様は裸だった彼らに皮の衣を作って着せられたのです。礼拝は罪が明らかにされ裁きが与えられる。愛の伴った裁きが与えられる場だったのです。全てをご存知の神様に、罪を隠そうとしても無駄だと言うことを、私たちも覚えて先に進みましょう。
創世記には、続いてアブラハムがひとり息子イサクを神様に献げる際に、「神様の示された場所に行って礼拝する」(22:5)とありますし、成長したイサクは祭壇を築いて主のみ名を呼んで礼拝した。(26:25)とあります。
出エジプト記では、神様がシナイ山でモーセに十戒を与えられました。それに続く25章には、礼拝の場所としての幕屋の建設が細かく指示されています。幕屋はいわゆるテントですが、縦が45メートル、横が23メートルと言う大きなもので、中央に置かれた至聖所には十戒を納めた「神の箱」が置かれていました。遊牧生活を送っていたイスラエルの人たちはこの幕屋と共に移動したのです。
紀元前1000年にダビデ王がイスラエル12部族を統一したのですが、エルサレムに「神の箱」を迎え入れたダビデは気づいたのです。「わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ。」(サムエル記下7:2) しかし、神様が神殿建設を許されたのは息子のソロモン王の時でした。紀元前950年頃のことです。
イスラエルが最も栄えた時代に7年間をかけて建てられた神殿は高級なレバノン杉と石切り場から運んだ石で作られ、ソロモンは神殿全体をその隅々まで金で覆い、内陣にある祭壇もすべて金で覆った。のです。(列王記上6章)大きく壮麗な神殿でした。
それから300年程経った紀元前600年頃に遣わされた預言者エレミヤの言葉を先ほど読んでいただきました。ソロモン王の死後イスラエル王国とユダ王国に分裂したのですが、この時イスラエル王国は既に滅ぼされてしまっており、ユダ王国も十数年後にはバビロニアによって滅ぼされ、エルサレム神殿は完全に破壊されてしまう、そんな危機を前にした時代です。 しかし、自分たちは神様に選ばれた民なのだから、困難な時にあってもこの立派な神殿が自分たちを守ってくれるから大丈夫だと思い込んで、神様の言葉に従おうとはしなかったのです。7章3節4節。エレミヤは神様のみ心を伝えます。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。4節。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。と彼らが神殿を一種の「お守り」にしていたことを指摘します。お前たちの道と行いを正せ。とは私たちの言葉で表現すれば「神様と自分と隣人を愛しなさい。」です。5節。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。 これはまさに「神様と自分と隣人を愛しなさい。」です。
うわべだけの信仰、うわべだけの礼拝は全てをご存知の神様の目にどの様に映るのでしょうか。主イエスの言葉が思い起こされます。 まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。(ヨハネ福音書4:23,24) 私たちも霊と真理をもって礼拝をしていきましょう。

イスラエルの歴史にもどれば、50年に渡るバビロン捕囚から解放された人たちはエルサレムに戻り、紀元前516 年に神殿を再建します。国が滅びた後に献げられた神殿ですから質素なものでした。第2神殿と呼ばれます。 しかし、500年後に十字架を前にした主がエルサレムに入城された際、弟子が言いました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 これはヘロデ大王が人々の歓心を買うために大改修工事を行っていたからです。決して信仰心からではありませんでした。見せかけの信仰は空しいものです。エデンの園は神様にお会いする礼拝の場でした。アブラハムは神様が示された場所に行き、モーセからダビデ王までは幕屋で礼拝しました。ソロモン王以降、主イエスの時代まで、捕囚の期間を除いて神殿での礼拝が守られてきたのです。

神殿での礼拝に戻りましょう。その内容はレビ記に詳しく定められています。律法を守らないこと、日々の生活の中で守れないことが「罪」です。私たちの言葉では「神様と自分と隣人」を愛さないこと、愛せないことが「罪」だと先ほど申しました。その「罪」を祭司が犠牲、即ち身代わりの動物を献げることで、神様に赦していただく祭儀が神殿礼拝の中心でした。
紀元前722年にイスラエル王国が滅亡する直前にイスラエル王国に遣わされた預言者アモスは、当時の社会に不正や悪事がはびこっており、祭儀が形式だけのものとなっていることを厳しく指摘しています。そして神様に立ち返る様に悔い改めを求めたのです。アモス書5章21節以下が伝える神様の言葉です。わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても 穀物の献げ物をささげても わたしは受け入れず 肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。

私たちも礼拝で献金をしますが、与えてくださった恵みに対しての感謝であり、喜びのしるしです。罪を赦していただくためではありません。ましてや毎日報道されている「高価な物を買えばご利益がある」と言うものとは全く違います。 さらに様々な働きや時間を主の福音の前進のために、あるいは隣人を愛するために献げます。愛の行いは礼拝の場で献げるのではないとしても、礼拝での祈りがその基にあります。この意味でも礼拝は家庭や社会での働きに力と勇気を与えてくれるのです。しかし、私たちも「罪」を犯します。自己中心的であったり、神様からいただいた恵みを自分の努力の結果だとうぬぼれたりして「神様と自分と隣人を愛すること」を忘れることがあります。しかし、私たちの礼拝に於いて生贄を献げることはありません。まったく必要ないからです。なぜならば、罪の贖い、罪を赦していただくための献げものは、2000年前に主イエス・キリストがご自分の体を十字架上でささげてくださったからです。
ここに私たちの礼拝の特徴があるのです。礼拝の中心に神様の愛を伝える聖書のみ言葉があり、そのみ言葉を解き明かす説教を共に聴きます。語る牧師もまた説教を聴くのです。
さらに後ほど行われる聖餐式は目に見える形でキリストの愛を思い起させてくれるのです。キリストの大いなる愛にあらためて目覚める時に、賛美と祈りと献身の思いが自然に伴うことでしょう。主はおっしゃいます。神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。 礼拝に於いて罪の赦しと主の愛を新たにして感謝を持って家路につく。そして新しい一週の歩みを希望の内に始めて行く。これが週ごとの礼拝です。主の日の礼拝を守るために備えられた場所、それが教会なのです。

さて、教会について他のいくつかの観点から見て行きましょう。
Ⅰ.教会はキリストを頭とする教会員によって形づくられます。 私たちが日本基督教団信仰告白に同意して授けていただく洗礼には4つの大きな意味があります。キリストを救い主と告白して従う人生を歩み出すことで、罪の赦しが与えられます。洗礼式で頭に水を付けますが、バプテスト教会には講壇に洗礼槽があり、ローブに身を包んで中に沈められます。意味は全く同じで、キリストと共に死んで、キリストと共に新しい命に生きることの象徴です。そして聖霊が心の内に住んで下さり人生を導いてくださるのです。 もう一つ大切なことは、教会の会員となることです。教会員は主の為に喜んで重荷を負うのですが、具体的にはどうするのでしょうか? 2022年度教会総会では3つのことを確認しました。
1. 教会には主イエス・キリストの愛がみちみちています。私たちは喜びをもって礼拝に集い、祈りをささげ、主の御用のために仕えます。
2. 聖書に述べられています、イエス様のご命令「神様と自分と隣人を愛しなさい。」「キリストの弟子を作り、洗礼を授け、教えなさい。」これらに忠実な教会でありたいと思います。具体的には、礼拝を中心に、奉仕の心を忘れず、キリストの働き人(弟子)を生み出し、洗礼へと導き、教会員が霊的に成長して主イエスに似る者となることを促します。
3. 千歳認定こども園の為に祈って行く。
2022年度の残りの時もこの目標に向かって歩みましょう。
Ⅱ.三階建ての教会を通して主の福音は私たちに届きます。 山形六日町教会は日本基督教団と言う全体教会に属しています。教団は信仰告白と規則を定めて、聖書を正しく読む読み方と共に教会のあり様を明らかにしています。もう一つは「天上の教会」、あるいは「キリストの教会」です。歴史上の全ての教会が属しており、神様の御許に召された方も天上の教会に属しています。主の福音は時間と場所を越えて届くのです。
現在、六日町教会もそうですが、日本の教会は会員の高齢化と減少と言う重荷を負っています。実はアメリカやヨーロッパなど先進国と呼ばれる国の教会も同じだそうです。しかし世界的には2015年に23億人だったクリスチャンは2019年には25億人に増えています。アフリカアやアジア、ラテンアメリカなどの国々です。聖霊は確実に働いてくださっているのです。愛する家族や隣人を教会に誘ってみる。勇気がいることでしょう。しかし聖霊が助けてくださいます。みんなで祈り続けたいと思います。日本基督教団の枠をこえて「キリストの教会」同士の交わりが計画されています。「山形市内教会交流会」です。この時を覚えて参加していただきたいと思います。
Ⅲ.教会には、お互いに祈り合う兄弟姉妹が必要です。ニッキー牧師の話を引用しましょう。【 クリスチャンには他のクリスチャンの愛と熱意が必要です。その愛と熱意が私たちの信仰を支えます。あるクリスチャンの若者が自分の信仰がすっかり失われていることに気づきました。若者は独りの老人のもとを訪れ神への愛が消えてしまったことを告げました。その時二人は居間の暖炉の前に腰をおろしていました。老人は何も言いませんでしたが、立ち上がり暖炉に近づくと真っ赤になっている炭火を一つ拾い上げ、わきに置きました。真っ赤な炭火は数分で熱が冷めて黒くなりました。老人は無言でそれを拾い上げ暖炉に戻してやりました。すると炭は見る間に赤く熱を出してまた燃え始めました。結局老人は一言もしゃべりませんでしたが、若者は自分が情熱を失った理由を悟ったのです。神の家族を大切にしましょう。 】 教会に集うことが叶わない方、教会から離れている方の為に祈り続けることが必要です。
Ⅳ.私たちには聖霊が宿ってくださり豊かな人生へと導いてくださいます。 最初に読んでいただいたコリントの信徒への手紙Ⅰ 6章19節20節は、だから神様の栄光を現しなさいと述べています。 「波多野先生!」「またあなたですか。」「私たちが「聖霊が宿ってくださる神殿」ならば、わざわざ教会に来なくても良いんじゃないですか?!」 主の言葉を思い出してください。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20) こんな大きな喜びを逃してどうするんですか!苦しみの中にあった、マルティン・ルターは日記に書きました。「家にいるときには熱心さも気力もない。けれど教会に行って皆が一緒に集まると、炎が私の心の内に燃え上がり、すみずみにまで燃え広がるのだ」。
Ⅴ.教会は罪のない聖人たちが集うところではありません。「神様と自分と隣人を愛すること」に至らなさを覚えている罪びとが集います。そして、キリストの恵みをいただいて立ち直るところ、希望を回復するところです。 ニッキー牧師の話を聞きましょう。【 ジャッキー・ポリンジャーという女性を覚えていますか? ジャッキーからある老女の話を聞きました。72歳の老女は子供の頃から人生の大半を売春婦として生きてきました。72歳になってさすがに売春婦は廃業しましたが相変わらずゴミ溜めのような街で働いていました。売春宿の外に座ってつまった下水を棒で突っついて流していたのです。老女は麻薬中毒でした。全身注射針の跡だらけ。跡がないのは背中だけ。明らかに助けが必要でした。彼女はジャッキーに導かれクリスチャンになった。ジャッキーの家にしばらく身を寄せた後、普通の地域に引っ越した。嫌な思いを散々してきた老女はとにかく気難しかった。でもクリスチャンの中で暮らしていくうちに人生が変わり癒しを感じるようになった。そんな折、彼女は恋をしました。相手の男性は75歳。二人は婚約しやがて結婚した。ジャッキー曰く、世紀の結婚。老女の過去は清らかとは言えないものだったかもしれません。しかし彼女は白いドレスでバージンロードを歩いた。イエス・キリストによって許され新しくされたのです。教会とはそういうものです。教会に加わるにはこう言えばいいのです。主よ、罪深いわたしを憐れんでください。すると神は両手を広げて私達を迎え、こうおっしゃいます。あなたは私の民、私の家族、キリストの体であり聖なる神殿。キリストの花嫁である。】 この老女と私たちの罪深さを比べることは意味がありません。
最初に読んでいただいたコリントの信徒への手紙Ⅰ 6章19節20節をもう一度お読みして今週の歩みを始めて行きましょう。6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。私たちの罪の為に支払われた代価は安いものではありません。神の独り子、主イエス・キリストの命なのです。  祈りましょう。