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山形六日町教会

2022年8月7日

聖書:詩編139編1~18節 テモテへの手紙Ⅱ3章16~17節
「聖書に親しむ」波多野保夫牧師

毎年8月の第一主日は平和主日として礼拝を守っています。後ほどご一緒に「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」いわゆる「戦争責任告白」を告白しますが、80年ほど前の第二次世界大戦の際に、日本基督教団が「見張り」の務めをおろそかにした過ちを、主に告白するとともに諸国民に謝罪するものです。戦後生まれの方にはなにか釈然としないものが有るかも知れませんが、アダムとエヴァの犯した罪は私たちのものであり、だからこそ主イエス・キリストの十字架による贖いもまた私たちのものなのです。現代においても戦争やテロなど問題の解決を力に頼る状況は続いています。さらに真の平和は単に戦火が止むだけではもたらされません。私たちは真の平和、問題の真の解決が「神様と自分と隣人を」愛することでもたらされると信じます。未来に向かって主の平和を祈り求める告白として、この「戦争責任告白」を大切にしたいと思います。
さて、夏期説教シリーズの5回目です。「聖書に親しむ」と言う説教題を掲げました。ご存知の様に、聖書は世界のベストセラーです。ギネスブックによると2015年には1億3000万冊印刷されたそうです。世界の70人に一人が毎年新しい聖書を手に出来る大変な数です。500年前に宗教改革者たちは「聖書のみ」を旗印にしました。神様のみ心は聖書だけによって伝えられるのであって、教会に伝わる伝承によってではないと言ったのです。それまで聖書は修道士たちによって書き写されたものでしたから、教会や修道院、あるいは図書館などにしかない貴重なものでした。印刷術の発達によって大量に印刷できるようになったのですが、ヘブライ語やギリシャ語、ラテン語などを読めるのはほんの一部の人だけです。
そこで宗教改革者たちは、自分たちの国の言葉に翻訳しただけではなく、一般の人も文字が読めるように教育にも力を注ぎました。私たちは「聖書」を気軽に手にして読むことが出来ます。聖書朗読を聞いたり、漫画聖書やスマホで読むこともできる時代です。ギデオン協会からプレゼント用の聖書も預かっていますので、活用してください。しかし、聖書は積んでおくだけでは全く意味がありません。コロナ禍にあって始めた聖書のリレー通読に多くの方が参加してくれましたが、聖書に接する機会をぜひ増やしてください。なぜかと言えば、聖書を通して神様がお考えを語ってくださるからです。
ヨハネ福音書は 1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 と始まり、「言」は主イエス・キリストですが、私たちは今、直接お会いすることは出来ません。主イエスがどの様な方で、何を語り何をなさったのか、何をしてくださるのか。そして私たちは主に従ってどの様に生きて行けば良いのか。それら全てを伝えてくれるのが聖書です。だからこそ聖書は私たちの『人生のマニュアル』なのです。
「波多野先生が聖書は大切だっていつも言うから、毎日少しずつだけど読んで祈っています。聖書はいろんなことを教えてくれるし、導いてくれます。だけど最近忙しいし、人に会うのは煩わしいので、礼拝を休もうと思ってます。これからも聖書は読みますし、イエス様は私の救い主です。」 中間を除いて正しいですね。確かに聖書は神様の言葉を伝えてくれます。しかし、悪魔も聖書の言葉を引用するのです。バプテスマのヨハネから洗礼を受けたイエス様が荒れ野で悪魔の誘惑を受けた時のことです。「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。と言った悪魔はさらに続けたのです。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。(マタイ福音書4:6) これは旧約聖書詩編91編11節12節の言葉です。悪魔も聖書の言葉を使います。キリスト教の一派だと言うカルト集団が、都合よく聖書を引用することが思い起されます。
「聖書のみ」と言った宗教改革者たちは同時に礼拝で語られる説教を大切にしました。説教は神の言葉である聖書を、日本基督教団信仰告白に基づいて解き明かします。その説教が信仰告白から外れていないかをチェックするのは長老会の大切な役目です。主に招かれ、主を知り、主に従って生きる兄弟姉妹が週ごとに集い、神の言葉に耳を傾けて祈り賛美し献げる。礼拝の無い所では健全な信仰を保つことは出来ません。しかし、生身の人間ですから、礼拝を守ることが叶わないときには、礼拝を覚えて祈ります。礼拝出席が叶わない方の為に祈ります。週に一度共に守る礼拝の時は聖書を正しく聞くために欠かすことの出来ない大いなる恵みの時なのです。
主の言葉をもう一つ聞いておきましょう。「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。(マタイ4:4、申命記8:3)神様は体だけでなく心も養ってくださるのです。
先ほど「聖書は『人生のマニュアル』です。」と申しました。テレビや冷蔵庫などの家電製品からスマホや自動車まで、マニュアルが付いています。買った人が、製品の機能を安全に使える様に専門家のチームが検討し索引や図など工夫を凝らして作ります。使う人の知識や理解力は様々ですし、抜けが有ってはいけないので分厚いものになっています。
分かり易さの点から行きましょう。聖書です。聖書は1500年以上に渡って様々な立場の異なる少なくとも40人以上の人が書き留めた神様の言葉です。その当時の人に分かり易い言葉やたとえ話が用いられているのは当然です。さらに、歴史書であったり、物語や詩などの文学作品であったり、預言、手紙、啓示など様々な文章が集められています。
私たちにとっては、必ずしも分かり易いものではありません。しかも分かりにくさを感じるのは私たちだけではありません。ペトロの手紙Ⅱには次の様にあります。パウロの手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。(3:16) ここで「無学な人や心の定まらない人」と言っているのは箴言に「知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。」(2:6)とありますから信仰が深まっていない人のことでしょう。
間違った解釈は悪魔の思うつぼです。パウロの言葉「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。」(口語訳Ⅰコリント8:1)が思い起こされ、「言っていることは分かるけど、なかなかそうはいかないな」 と思う私なんですが、パウロの言葉をペトロが難しく理解しにくい個所があると言っているので少し安心します。
商品のマニュアルに戻れば、実は私はあまりマニュアルを読みません。一生懸命工夫されているけれども、やっぱり分かりづらいし、めんどうくさい。良く知っている友達やお店の人に聞いた方が早いし、そもそも最近のスマホなんか機能が多すぎてとても使い切れません。良くできているので、わかる範囲で使っているだけで満足できます。こんな調子ですから、いざ人に使い方を聞かれると困ります。後で便利な機能があったことを聞かされると、何でもっと早く教えてくれなかったのと言ってしまいます。ちゃんとマニュアルを読みもしないで放っておいた自分を棚に上げて文句を言います。
『人生のマニュアル』に戻れば、聖書には難しい所があります。それではどの様にすれば良いのかを考えて行きましょう。まず、結論を言いましょう。聖書は神様のみ心「あなたを愛しているよ!」このみ心を伝える書物で、このことしか書かれていません。ですから聖書は神様からあなたに、そして教会に宛てたラブレターなのです。
先週もお読みしました。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 ですから分かりづらいところがあったら、ここに立ち返って聖書を読み進めるのです。今日もそうでしたがCSの礼拝では子供たちが「今日の暗唱聖句」を覚えて一緒に言います。家に帰ってからで結構ですから、ヨハネ福音書3章16節を覚えちゃってください。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
さて、『人生のマニュアル』についてまず確認したいことはパウロの言葉です。 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。(テモテⅡ3:16) 聖書の文字を書いたのは確かに40人以上の人間ですが、彼らを導いて書かせたのは聖霊です。2000年前、3000年前の人々が経験した神様の御業であり語られた言葉が、時代を超えて現代に生きる私たちに真理を示している根拠は「聖霊の働きによって書かれた」この一点にあります。だからこそ、教え、戒め、誤りを正し、神様の望まれる正しい道へと導き訓練してくださる『人生のマニュアル』なのです。
先ほどスマホの厚いマニュアルの話をしました。聖書も結構な厚さです。どうせ大した機能を使わないんだから大体判れば良い。確かにスマホの使用年数は5年程でしょう。どんどん変わっていくので、それでもいいでしょう。しかし、聖書が伝える神様の愛は私たちの一生に渡って変わりません。もっと言えば肉体の死の向こう側まで変わりません。
索引を見て必要なところを読むのも良いでしょう。例えギデオン協会がプレゼントしてくれる聖書には、「祈りたい時」にはここを読みなさい。「意気消沈した時」「疑いが起こった時」「感謝のおもいがあふれる時」「孤独な時」など相応しい聖書箇所が示されています。『信徒の友』にある日々の聖句を利用するのも良いでしょう。
次に「詳しい人に聞く」でした。牧師や長老に聞いたり、聖書注解を読むのも結構です。一人であるいはグループで聖書を読み進めることで「これ、まさに私のことを言っている」と言った新しい出会いに驚くこともあるでしょう。聖書通読には忍耐が必要ですが、それを上回る喜びが必ずあります。そして先ほど申しました、礼拝で語られるみ言葉に接することを忘れてはいけません。生きて働いてくださる三位一体の神様を最も強く感じられるのが兄弟姉妹と共にまもるこの礼拝の時ではないでしょうか。
「波多野先生。でも、聖書の言うとおりに生きたら息が詰まって人生を楽しめないんじゃないですか?」 先週も、似た話をしました。「聖書が「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴」(ガラテヤ書5:19-21)はいけないと言っていることに関して、ここに並んでいる様なことが人を幸せにすることは絶対に無いので、聖書は禁止するのです。悪いと判っていることは止めるのです。」この様に言いました。今日の質問はクリスチャンの自由について大切なものです。
私の好きな譬えをニッキー・ガンベル牧師が語っていますので、一緒に聞いてください。【あれはうちの息子が8歳の時のことでした。終業式の日サッカーチームの監督アンディー・バスクがメンバー22人で練習試合を行うと発表しました。彼が審判をすることになっていたのですが時間を過ぎてもアンディは現れません。少年たちはもう待ちきれず、私は無理やり代理の審判役を押しつけられました。 これにはいくつかの問題点がありました。試合会場のピッチには肝心のラインがひかれていないし、さらに審判用の笛もなければ22人はそろいのユニホームのまま。少年たちの名前はもちろんルールさえ良く分からない。しかし、とりあえず試合を始めることにしたのですが、すぐに混乱に陥りました。ラインを出たと叫ぶ子がいれば、出てないと叫ぶ子がいます。私はよく分からないので、とりあえず試合続行。そのうち、「ファウルだ!」と一人が叫べば、「ただのタックルです!」。私にはどっちなのか分からないのでとりあえず試合続行。混乱はひどくなるばかりで、グラウンドには4人の少年が怪我をして横たわってしまいました。
そんな時アンディが来ました。審判は即交代。アンディは本来ラインのある場所ラインを引き、メンバー全員の名前を読んでそれぞれのポジションを指示した。ボールがラインを割ったりファールの時には笛を吹いた。ルールを科したのです。はたしてルールを知らない私が審判をしたときと、ルールを徹底するアンディが審判をしたときとでは、子供たちはどちらが自由だったのでしょう?アンディのもとで子供たちはイキイキ試合をした。その理由は明白です。ピッチの中と外を分ける境界線がハッキリしたからです。
神は私たちを愛しています。私たちの自由を制限しようとする意図はなく、私たちが解放され生きる喜びを享受できるようにと聖書を与えられたのです。聖書に「殺してはならない」と言う教えがありますね。これに反対の人は? まあ、悩殺はありかも知れませんが。神は私たちの楽しみを奪うために盗んではいけないと言われたのではありません。「姦淫してはならない」と言われたのももっともなことです。姦淫の招く悲劇を神はご存知でした。私たちが傷つくことを望まれなかったのです。
最高の人生を送るための指針、それが聖書です。自由とはその範囲で見出す物です。聖書は神様から与えられた「人生のマニュアル」なのです。】いかがでしょうか、「人生のマニュアル」聖書が私たちに真の自由を与えてくれることがお分かりになったと思います。
もう一つ「平和主日」に申し上げたいのは、真の自由を得た者たちによって真の平和がもたらされることです。残念ながら争いごとや戦争がお金儲けや自分の地位名誉に繋がると勘違いする人たちがいます。欲望に縛られている人は悪魔を喜ばせます。反対に神様の前でへりくだった者は隣人に対してもおごり高ぶることは無いでしょう。真の平和・真の平安は人を自由にします。そして真の自由を得た人たちによって、主イエス・キリストが中心にいてくださる真の平和が実現します。
フィリピの信徒への手紙2章3節以下です。2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5 互いにこのことを心がけなさい。聖書は「人生のマニュアル」であると同時に神様からのラブレターです。この事実を最初に読んでいただいた詩編139編は十分に感じさせてくれます。要点だけをお話ししますので、後ほど味わってください。
1節から6節でダビデは、神様が全てをご存知だ、私の全てを知っていてくださると、信頼を歌います。4節 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。主は私の心の中をご存知です。
7節から12節は神様はどこにでもいらっしゃる方です。使徒信条は主イエスが「陰府に降り」と告白します。信仰を持たずに亡くなった方に伝道してくださるのでしょう。神様の手が届かないところはないのです。
13節から18節は全てを創造された神様が私をどれほど愛してくださっているかを歌います。16節 わたしの日々はあなたの書にすべて記されている と語ります。聖書には私の歩むべき道が記されています。
『聖書は人生のマニュアル』だと申し上げました。確かに私たちの人生には神様から顔を隠したい、あるいはさっき私に質問した方の様に、教会がうっとうしい。そんな時もあるでしょう。しかし、聖書にはそれを乗越える力があります。なぜならそんな私たちの心の底の底まで知ったうえで神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。のです。
そこには主イエス・キリストの十字架があるのです。聖書ってとっつきにくい、教会って何か私の生活とは別世界みたい。なかなか教会に足を運んでもらえない現実があります。しかし、私たちが届けるのはダイレクトメールでもなければ請求書や督促状でもありません。神様からのラブレターです。これが伝道です。全ての基は聖書を通して語られる「神様の愛」にあることを覚えたいと思います。祈りましょう