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山形六日町教会

2022年7月31日

聖書:詩編31章24~25節 コリントの信徒への手紙Ⅱ5章17~19節
「確かに信じるには」波多野保夫牧師

夏季説教シリーズの4回目です。このシリーズではアルファコースで取り上げられているテーマを基にして聖書のみ言葉を聞いています。 本日の説教題を「確かに信じるには」としました。私たちクリスチャンは、そして、まだ洗礼には至っていないもののキリストへと招かれている方は、何を信じるのでしょうか? さらに、その信仰が成長してぐらつくことのない確かなものになるにはどうすれば良いのでしょうか? この疑問について、聖書の証言を聞いて行きたいと思います。
キリスト教の核心を告げる聖書のことばから始めましょう。ヨハネ福音書3章16節17節です。3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
神様は大切な独り子、主イエス・キリストを十字架に架けると言う最大の犠牲を払われたほどに、私たちを愛してくださっています。それは主イエス・キリストを信じて歩む人生、死の向こう側にまで続く愛にみちた幸せな人生を私たちに送って欲しいと願ってらっしゃるからです。
先週、私たちは「なぜ主の十字架での死が必要だったのか」このテーマの中で聖書が語る「罪」についてみ言葉を聞きました。少し振り返ってみたいと思います。【 私はいつも「神様と自分と隣人を愛すること」からの隔たりが「罪」だと申していますが、聖書が「罪」と翻訳しているアマルタノウ(ἁμαρτάνω)と言うギリシャ語は、「的を外す」とか「的外れ」と言う意味を持っています。
愛に満ちた幸せな人生を送る様にと導いてくださっている神様のみ心以外の所に心を向けたり、み心以外の方向に進んでいく的外れな思いと行い。これが「罪」の本質なのです。その一方で神様は「聖なる方」なので「罪」に目をつぶることはお出来になりません。パウロは 罪が支払う報酬は死 だと言います。
ここに神様が感じられたに違いないジレンマがあります。ジレンマとは2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不都合があり、態度を決めかねる状態です。私たちを愛して止まない神様です。ご自分が「聖」であることを捨てて、私たちの罪をいい加減にして赦してしまうのか。それとも愛する罪びと全員を死刑にするのか。このジレンマです。 実際になさったことは、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ福音書 3:16) パウロは 罪が支払う報酬は死 と言ったのですがここでの「死」は単に肉体の死だけではありません。魂の死、即ち神様との断絶、神様の愛から切り離されることはより孤独な「死」です。主は十字架上で叫ばれました。 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ15:33,34) 主イエス・キリストは肉体の死と共に魂の死をも味わわれました。神様は御子の十字架における死によって、「罪」を絶対に放置しない「聖なる方」であることと、人間を愛し抜くことのジレンマを解消されたのです。
その上で、100%従順だった主イエス・キリストに、復活の命を与えられたのです。だとしたら、私たちの歩むべき道は明らかです。主イエス・キリストに従うのです。その時、神様は「罪のない者」と見なしてくださり、いつかは必ず訪れる肉体の死の先にまで及ぶ大いなる愛の中を生きる幸せな者としてくださるのです。聖書はこれを「永遠の命」と呼びます。私たちの救いはここにこそ、そしてここにしかありません。 罪が支払う報酬は死です。と告げるパウロは続けて語ります。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(ローマの信徒への手紙6:23) 】
クリスチャンと言うとどんなイメージを持つのでしょうか? まじめで、正直者で規則正しい生活をして、喧嘩や悪いことはしない。聖書をよく読んでいる。祈りを欠かさず、礼拝に遅刻することは無い。これがクリスチャンの条件だとしたら私は残念ながら失格です。クリスチャンとは、「主イエス・キリストに従って生きることで、神様の愛の中を歩む豊かな人生が約束されている。」このことを知っている者のことです。 そして洗礼は、主イエス・キリストに従う人生を歩み始めるその決断を、言葉で言い表すことで、聖霊が洗礼へと招き導いてくださいます。
ここで間違えてはいけないことは、洗礼は立派な信仰が持てたから受けると言うのではありません。もしそうならば、イエス様以外に適格者はいなくなってしまいます。洗礼は豊かなクリスチャン人生のスタートなのです。
「でも、波多野先生。クリスチャンになったら、あれをやっちゃいけない、これはダメだって、堅苦しくてしょうがないんじゃないですか?」確かに、先週大酒飲みや喫煙の話をしました。聖書は「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴」はいけないと言います。ガラテヤの信徒への手紙5章19節から21節です。当時の酒宴は数日に渡って飲み食いを続ける大宴会でしたから泥酔したことでしょう。ここに並んでいる様なことが人を幸せにすることは絶対に無いので、聖書は禁止するのです。悪いと判っていることは止めるのです。しかし、この中に喫煙は入っていません。喫煙の習慣は15世紀ころにアメリカ大陸からヨーロッパに伝えられたので、2000年前の聖書に書かれていないのは当然ですが、現代の科学は直接喫煙だけでなく間接喫煙も健康に有害だと証明しています。自分と隣人を愛する面からも好ましいとは言えません。さらに現代では麻薬や覚せい剤、あるいはギャンブル依存症などが密かに社会を蝕(むしば)んでいるそうですが、人を幸せにすることは決してありません。
クリスチャンがやってはいけないことは「神様と自分と隣人を愛すこと」に悖(もと)ることだけです。あとは自由なのです。自由だとは言っても人生の中には大切な決断を迫られる時が必ずやあります。実際どうすれば良いのか判断に迷うこともあるでしょう。そんな時は祈ってください。そして、神様の答えがなかなか聞き取れないのであれば、相談してください。一緒に祈りたいと思います。
先ほど読んでいただいたコリントの信徒への手紙Ⅱ5章17節です。5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。キリストが私たちの罪を負って死んで下さり、そのキリストに神様は新しい命を与えられた。そしてキリストを救い主と信じて歩む人生のスタートを切った者、即ち洗礼を授けて頂いた者は、「新しく創造された者」なのだ。この様に語ります。最初に創造された人類、アダムとエヴァは一つのことを除いて全く自由でした。私たちも「罪」の無い者と見なしていただいたのですから自由に生きて良いのです。しかし、神様はアダムとエヴァに「園の中央の木の実だけは食べてはいけない」と命じられました。私たちには「神様と自分と隣人を愛することに反してはいけない。」とおっしゃいます。その理由は「決してあなたを幸せにしないから。」です。5章18節と19節に「和解」と言う言葉が4回出てきます。「和解」は法律用語で「当事者が互いに譲歩して、その間にある争いをやめること。」ですが、聖書で「和解」と翻訳されている言葉(カタラゲー)は「交換する」と言う意味を持っています。何を交換するのかと言えば、「敵意」あるいは「怒り」を「愛の関係」と交換するのです。正確に言えば神様が「交換してくださる」のであり、神様が「罪」を犯し続ける人間への「怒り」を「愛の関係」へと交換してくださった、これが「和解」の意味です。5章19節。神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。そしてこの「和解の言葉」の事を教会は「福音」すなわち「喜びの知らせ」と呼び2000年間宣べ伝えて来ました。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネが書いた主イエスの証言が「福音書」と呼ばれる理由は、そこには神様が「和解」してくださった最高の出来事と最高の喜びが記されているからです。
キリスト教は、いったい何を信じる宗教なのでしょうか? その答は、聖書が語る「喜びの知らせ」、「福音」を信じるのがキリスト教です。「福音」の中心を表す聖書のみ言葉をもう一度お読みしましょう。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
さて、本日のテーマ「確かに信じるには」です。神様はまだ洗礼に至っていない方には、ご自分に従う幸せな人生を願っていらっしゃいます。そしてすでに洗礼を受けた方の信仰の成長を願っていらっしゃいます。ヘブライ人の手紙11章1節に次の言葉があります。信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。確かにそうなのですが、これではチョット辛いものがあります。
話しは変わりますが、教会にステキナ木製のイスが沢山ありますね。今も安心して座ってらっしゃる方がいますが、なぜ安心できるのか考えてみましょう。見た所使われている板の厚みは十分あるし腐ったところもない。組み立てもしっかりしていて、手でゆすってもきしむ様子もなし、座っても大丈夫そうに見えます。そして何よりも先週座った時も全く問題なかった。自分の観察と経験に基づいた判断です。さらに言えば、教会には「自分だけが良ければいいんだ」なんて考える人はいないから、イスの調子が悪ければチャント修理したり、少なくとも危ないとわかる様にしておいてくれる。「壊しちゃったときに、沢山並んでいる中に入れておけばバレやしない。」なんて考える人がいるわけがない。長い間一緒に過ごすことから育った信頼関係ですね。あまりよい譬えではないのですが、信仰が深まるのには、理性的な理解と感覚的な信頼の双方が大切なのではないでしょうか。全てをご存知の神様は、「ご自分の言葉」と「主イエスの働き」と「聖霊の証言」この3つを用いて、私たちの理性と感覚、あるいは感情に働きかけて、信仰を深めるように導いてくださいます。
最初は「神様の言葉」、私たちに与えられている聖書です。旧約聖書の時代には、神様は預言者の口を通して語られました。しかし今、私たちは聖書を通して神様のお考え、神様の言葉を聞きます。ローマの信徒への手紙10章17節。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。キリストの言葉を聞くことで整えられ、始まった信仰はさらにキリストの言葉を聞くことで強められます。信仰改革者たちが「聖書のみ」を旗印としたことを思い出してください。「波多野先生、2つ質問があります。神様は聖書を通して語られるって言いましたけど、パウロは「キリストの言葉」って言ってます。なぜですか?」良い質問ですね。確かにヨハネ福音書は1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この様に始まっていますね。ここで「言」と言われているのはイエス・キリストです。実は教会は西暦300年代に主イエスと聖霊は神なのか神でないのかをめぐって混乱しました。そこで聖書を丁寧に丁寧の読んだ結果分かったのが、「すべてを創造された父なる神様と、独り子イエス・キリストと、生きて働かれる聖霊はその本質を一つとする、一人の神様だ」と言うことです。
「三位一体の神様」です。「三位一体」と言う言葉は聖書に書かれていないのですが、それでも私たちの神様は「三位一体の神様」なのです。聖書はこの三位一体の神様を証言していると同時に三位一体の神様が与えてくださる愛を告げるのです。」「チョット難しいけど、本質が同じだから同じなんですね。」
「二つ目の質問はなんですか?」「聖書は確かに神様のお考えを伝えてくれますが、素晴らしい自然も神様を示してくれるんじゃないですか? 詩篇には 天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。(詩編19:2)ってあります。」「聖書を良くよんでますね。確かに大自然や、小さな野の花一つにも神様の愛を感じることが出来ます。それだけではなく、隣人を愛する気持ちや行い、あるいは言葉に感動することもあるでしょう。素晴らしいことです。でも、私たちはそれらを聖書の証言であり、聖書の告げる神様のお考えに基づいて判断する必要があります。自然は神様ではないし、現代において教祖や預言者なんて言う人のもっともらしい話に従ってはいけません。
さらに言えば、「神様が私の祈りに答えてくださった。」と感じることもチェックしてください。「神様と自分と隣人を愛すること」に基づいた日本基督教団信仰告白に明らかに外れていれば、それは聞き違いです。」礼拝では聖書を解き明かす説教を通して神様のみ言葉を聞きます。礼拝は独りよがりの聖書解釈に陥らないためにも欠かすことが出来ません。
「確かに信じる」為に大切なことの2つ目は、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事に、いつも心を向けることです。すでにお話ししたように、主に従うものには「罪」の赦しと永遠の命を与えてくださいます。最近、多額の金品を要求するカルトが話題になっていますが、イエス様がくださる贈り物はタダです。しかし、決して安っぽい物ではありません。その代償は神の独り子の血と肉だからです。もちろん私たちも献金を献げますが、いただく恵みへの感謝であり、喜びのしるしです。たくさん献金したりたくさん奉仕する程に恵みが増えるわけではありません。神様は全てをご存知です。
3番目は聖霊の働きであり証言です。今、主イエスは天の国で神様と共にいらっしゃいます。送ってくださった聖霊が、私たちの為に働いてくださっています。しかし、これは神学的に整理した言い方で、イエス様が共にいてくださる。聖霊が共にいてくださる。どちらの表現もその素晴らしさは同じです。なぜなら私たちの神様は三位一体の神様だからです。日々の生活の中で、教会で聖霊の豊かな働きを感じ取ってください。
さて、週報の裏面に黙示録3章20節。 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 このみ言葉と一枚の絵を記しました。ここでニッキー・ガンベル牧師の話をご一緒に聞きましょう。【ラファエロ前派の画家ホルマン・ハント( 1827 ~1910 )は、この御言葉に触発されて「世の光」という作品を描きました。「世の光」 であるイエスは、戸口に立っています。 戸口には、つたや雑草が生い茂っています。 この戸は、 明らかにだれかの人生の戸を象徴しています。 この人は今まで自分の人生にイエスを迎え入れたことは一度もありません。 イエスは、 戸口に立ってドアをノックしています。 イエスは戸が開けられるのを待っているのです。イエスは中に入って、この人の人生の一部となりたいのです。1854年 5月5日に、芸術家であり批評家であるジョン・ラスキンがタイムズ紙に投稿し、この作品の象徴的意味を丁寧に説明し、この作品が「今世紀だけではなく、歴史上最も崇高な宗教画の一つである」と絶賛しました。しかし、この絵には描くのを忘れた物がある。「ドアに取っ手がない」。ハントは答えて言いました。 「いいえ。 忘れてはいません。この戸には取っ手は一つしかないのです。 そしてそれは内側にあるのです」。イエスは決して無理強いはなさいません。イエスは私たちに選択の自由を与えているのです。戸を開けるかどうかは、私たち次第なのです。もし戸を開けるなら、イエスは「わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」と約束しています。共に食事をするということは、イエスのために人生の戸を開けるすべての人に、イエスが与えてくださる、友情のしるしです。一度イエスを人生に迎え入れると、決して私たちを離れないとイエスは約束しています。イエスは弟子たちに「わたしは・・・いつもあなたがたと共にいる」 (マタイ28:20) と言っています。 いつも直接イエスと会話をしているわけではないかもしれませんが、いつもイエスは共におられるのです。友人と同じ部屋で仕事をしているとき、いつも話しているわけではないでしょう。でもお互いが同じ部屋にいるのだということは感じているはずです。イエスの存在もちょうど同じです。イエスは常に私たちと共にいてくださるのです。】
三位一体の神様が何時も私たちと共にいて愛してくださっている。これが聖書の語る「福音」です。それを知っているのがクリスチャンです。心の扉を内側から開いて主をお招きしたいと思います。食事を共にしたいと思います。そして命のパンを今日も頂くのです。 祈りましょう。