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山形六日町教会

2022年7月24日

聖書:コヘレトの言葉7章20節 ヨハネによる福音書6章46~51節
「なぜ、十字架での死が必要だったのか」波多野保夫牧師

本日は「なぜ、主イエスの十字架での死が必要だったのか?」この疑問について、ご一緒に考えて参りたいと思います。私は高校2年の秋に洗礼を授けて頂いたのですが、その当時、主イエス・キリストは神の子なんだから何も十字架で死なないでも良かったんじゃないのか? 神様が天の軍勢を送って助けてくれればよかったじゃないか。漠然とこんな思いを持っていました。確か、洗礼準備の際に「ハイデルベルク信仰問答」で学んだはずだと思って、あらためて開いて見ました。第39問40問の問いと答えに次の様にありました。
問39 その方が「十字架につけられ」たことには、何か別の死に方をする以上の意味があるのですか?答  あります。それによって、わたしは、この方がわたしの上に置かれていた呪いを御自身の上に引き受けてくださったことを、確信するのです。なぜなら、十字架の死は神に呪われたものだからです。
問40 なぜキリストは「死」の苦しみを味わわなければならなかったのですか?答  なぜなら、神の義と真実のゆえに、神の御子の死による以外には、わたしたちの罪を償うことができなかったからです。
いかがでしょうか、宗教改革が始まって50年近く経った1563年に出版された「ハイデルベルク信仰問答」は、500年後の今日に至るまで、私たちの信仰を簡潔にそしてハッキリと示してくれます。しかし、分かり易いのかと言えば、私はチョット戸惑ってしまうところがあります。今日は「なぜ、主イエスの十字架での死が必要だったのか?」と言うテーマで、私たちの信仰を見つめ直してみたいと思います。 たしかに、山形六日町教会、そして千歳認定こども園や山形学院高校の屋根にそびえる十字架はキリスト教信仰のシンボルであり、高く掲げることでそれを見上げる人たちに、何を一番大切にしているかをハッキリと示しています。
ガラテヤの信徒への手紙(2:20)に主イエス・キリストの大いなる愛を知った使徒パウロの証言があります。 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。主イエスは私たちの為に死んでくださったのですが、なぜご自分の人生を犠牲にしてまで私の為に、私たちの為に十字架に架って死ななければならなかったのでしょうか?わたしは教会学校に通っていた子供の頃、私たちの神様は愛の神様で、恵みを与えたくてしょうがない方なんだ。きれいな空気や水や自然をくださるのも、毎日必要な食べ物を与えてくださるのも神様なんだ。校長先生は歯医者さんをしていたおじいさんだったのですが、いつも大きな聖書を手にして、大きな声で篤く語ってくれたことを思いだします。 高校生の時には、夏期伝道実習で来てくれた東京神学大学の神学生が、イエスは私たちの友達、それも死ぬまで変わることの無い友達なんだと篤く語ってくれました。
ヨハネによる福音書15章15節 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。このみ言葉について長い時間話し合ったのです。時間を惜しげもなく使うエネルギー、これは若者の特権ですね。高校2年の秋に洗礼を授けて頂いたことは先ほど申しました。
「なぜ、主イエスは十字架で死ななければならなかったのか?」 私たちの神様は愛の神様であると同時に聖なる方です。ある日、羊を飼っていたモーセが群れを追って神の山ホレブに来たときのことでした。彼が燃え上がっているのに燃え尽きない柴を見つけて不思議に思い、見届けようとした時です。 3:4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」(出エジプト記3:4,5)
預言者イザヤは召命を受けた時に、天使の声を聞きました。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」(イザヤ書6:3) ヨハネの黙示録(4:8)は天上の礼拝の様子を伝えます。。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、 全能者である神、主、 かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」神様は聖なる方です。聖なる方は聖でないもの、すなわち「罪」をそのままにしておくことは出来ません。聖なるご自分に汚れたものを近づけることが出来ないのです。
ここで聖書が繰り返し語る私たちの「罪」について考えましょう。いつも「神様と自分と隣人を愛すること」からの隔たりが「罪」だと申していますが、少し角度を変えた表現です。私たちの聖書で「罪」と翻訳されているアマルタノウ(ἁμαρτάνω)と言うギリシャ語は、「的を外す」とか「的外れ」と言う意味を持っています。神様は愛に満ちた幸せな人生を私たちが送る様にと導いてくださいます。その神様のみ心以外の所に心を向けたり、み心以外の方向に進んでいく的外れな思いと行い。これが「罪」の本質なのです。十戒を始めとする律法は「的を外さない」ための導き手です。「罪」に支配される、すなわち神様のみ心から離れた人間のふるまいについて、主は言われました。「7:20 人から出て来るものこそ、人を汚す。21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ7:20-23) これを聞いた皆さんは、こんなことを言いたくならないでしょうか?「神様、確かに私は完ぺきではありません。でも、そこそこまじめですし、人にも親切にしてます。いじめたりしません。それに時間があれば礼拝にも通っています。」確かに、そこそこ良い、あるいは悪者とは呼べないのが私たちではないでしょうか。しかし、すべてを創造された全能の神様に近づくこと、神様の愛を十分に頂いて豊かな人生を送るには、それではダメなのです。
天地とそこに住むすべてを創造された時です。 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。(創世記1:31) しかし、創世記はすぐその後にアダムとエヴァが犯した罪について語ります。神様の恵みを受けて幸せな日々を過ごしていた二人ですが、誘惑に負けて園の中央の木から実をとって食べました。 人類最初の「罪」です。お互いの「罪」の姿を目の当たりにした二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとしたのです。自分自身を覆い隠す物が必要になったのです。そして、神様が近づいて来られる足音を聞いた彼らは 主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れたのです。 「まずい、神様の言いつけを破ったことが知られてしまう!」 私達から見れば「そんなことしたって無駄なのに、なんて馬鹿なことを。」と思えるのですが、これが犯罪者心理です。
3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」 10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」 神様から離れよう、神様に見つからないようにしようとした彼らは、「取って食べるなと命じた木から食べたのか。」と問われると、「悪いのは自分じゃない」と罪のなすり付け合いを始めます。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」「蛇がだましたので、食べてしまいました。」(創世記3:1-24) 二人の心の底に「すべてを創造された神様、あなたが悪いんだ!」 この言葉が見え隠れします。
先ほど、7:20 人から出て来るものこそ、人を汚す。と言う主のみ言葉を聞きましたが、パウロも次の様に言っています。5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。(ガラテヤの信徒への手紙5:19-21)
「波多野先生、さっき言ったように、私は確かに完ぺきではないけど、パウロがここに言っている様な事はほとんどしてません。確かにお酒はたまに飲むけど、ぐでんぐでんに酔っぱらったことはありません。」確かに、そういう方が多いでしょう。でもそれではダメなんです。理由は神様は聖なるかた、100%聖なる方だからです。
先ずは、罪が私たちに与える影響を見て行きましょう。
1.罪のもたらすもの 「罪」は私たちの心を曇らせ、神様との正しい関係を壊しますが、それだけではありません。友人や家族や隣人との正しい関係性を破壊します。パウロが並べた「罪」の中にあった身勝手な人間の姿を考えただけで納得できるでしょう。自分には甘く他人には厳しい。主はそんな私の性格を知っておっしゃいました。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。(マタイ7:4)
2.罪の持つ力です。 悪い思い、悪い行いは習慣になります。最初は「こんな事しちゃいけない。早くやめなきゃ。」と思うのですが、すぐに「この位ならいいだろうみんなやってるから。」と言う考えが頭をもたげます。やがて「罪」は癖になります。複雑化した現代において、様々な依存症が指摘されています。ゲーム依存症やスマホ依存症もあるそうです。現在ではタバコが与える健康被害が自分だけではなく、周りの人にも及ぶことが科学的に証明されています。マーク・トウェインと言う作家は言いました。「禁煙ほど簡単なことはない。私は毎朝やっている。」 彼は朝になると「今日から禁煙を始めよう。」と決意を新たにするのでしょう。私にとって偶像礼拝、即ち神様でないものに心を向けてしまうことが、残念ながら、たまにはあります。正直に言えば時々あります。もっと正直に言えばしょっちゅうあります。この悲惨な状態をパウロは「罪の奴隷」と呼びました。7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。(ローマの信徒への手紙7:18-21)アダムとエヴァがそうであったように、私たちには素直に悪いことを認めようとしない習性があります。言い訳をしたり、他人のせいにしたりするのです。例えば、学校や仕事場や隣近所でいじめられている人がいたとしましょう。そんな時に、見て見ないふり、気づかないふりをすることが恐らくは一番安全なことです。しかし、一方で自分の良心が「お前、そんなことで良いのか」と騒ぎ出します。そこで、言い訳の登場です。「今は礼拝に行く途中じゃないか。そんなのにかかわっていたら遅れちゃう。礼拝は遅れないでキチンと最初から出なきゃいけないんだぞ。」
3.神様のジレンマ ジレンマとは辞書によれば「ある問題に対して2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不都合があり、態度を決めかねる状態。」とあります。パウロは 罪が支払う報酬は死(ロマ書6:23)だと言いました。神様は100%聖なる方です。「罪」を放っておくことは決してなさいません。しかし、それと同時に、人間を愛して止まない方です。愛したくて愛したくてしょうがない方です。ここに神様のジレンマがあるのです。
これは私の想像なのですが、神様には3つの方法があったのだと思います。
1. 罪びとを滅ぼし去って正しい人だけが生きる様にする。 実際に神様はこの方法を実行されました。創世記6章から9章にノアの洪水の物語があります。しかし、11章にはバベルの塔の物語が続きます。残念ながら人間は再びアダムとエヴァの過ちを繰り返しました。
2. 「罪」をそのままに放っておく。アメリカの国立公園では雷によってしばしば山火事が起きるのですが、周辺の民家に被害が及ばない限り消火活動をしません。それが自然の営みだからです。しかし、この方法では神様のジレンマはどちらも解決できません。
3. 神様が実際にとられた方法です。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ福音書 3:16) パウロは 罪が支払う報酬は死 と言ったのですがここで「死」とは単に肉体の死だけを意味しません。魂の死、即ち神様との断絶、神様の愛から切り離されることです。主は十字架上で叫ばれました。 マルコ福音書15章33節34節です。15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 主は肉体の死と共に魂の死をも味わわれました。 そして神様は御子の十字架における死によって、「罪」を絶対に放置させない「聖なる方」であることと、人間を愛し抜くことのジレンマを解消されました。そしてその上で、100%従順だった主イエス・キリストに、復活の命を与えられたのです。
だとしたら、私たちの歩むべき道は明白です。主イエス・キリストに従う時に、神様は私たちを「罪のない者」と見なしてくださいます。いつかは訪れる肉体の死の先にまで及ぶ大いなる愛の中を生きる者としてくださるのです。聖書はこれを「永遠の命」と呼びます。私たちの救いはここにこそ、そしてここにだけあるのです。
最後にアルファコースのビデオを見たいと思います。 【パウロは、イエスの死によって「わたしたちは・・・義とされた」(ローマ5:1)と言っています。「義認」とは法廷で使われる専門用語です。法廷で無罪であると認められることは、「義認される」ことです。次のたとえ話が、このことを私が理解するためにとても役に立ちました。 ある二人の男性が、大学までずっと一緒に学生生活を送りました。二人は親友でした。大学を卒業した後、二人はそれぞれの道を歩み、連絡もいつしか途絶えました。一人は裁判官になりましたが、もう一人は落ちぶれた生活を送り、ついには犯罪者として逮捕されてしまいました。ある日、この男が、その裁判官の前に犯罪者として姿を現しました。彼は、有罪と自分でも認める罪を犯していたのです。裁判官はそれが昔の親友であることに気づき、悩みました。彼は裁判官ですから正義を行わねばならず、旧友を放免するわけにはいきません。しかし、旧友を罰したくもありませんでした。なぜなら、その友を深く愛していたからです。 そこで彼は、罪に相応する罰金を課すと旧友に宣告しました。これが正義です。それから、彼は裁判官の席を降り、罰金と同額の小切手を切りました。この小切手を旧友に渡し、自分が彼のために罰金を支払うと言いました。これが愛です。 これは、神が私たちのために、何をしてくださったかを表しています。神は、その正義によって私たちを裁きます。なぜなら私たちは有罪だからです。しかしそれから、愛のうちに、神は独り子イ土ス・キリストという方としてこの世に来られ、私たちのために罰金を支払ってくださいました。神は、「義」です。ですから、神は罪を罰さないではいません。しかし、同時にローマの信徒への手紙3章26節にあるように「義とすることのできる方」でもあるのです。独り子によって神ご自身が罪を負うことにより、私たちは解放されたのです。神は私たちの裁判官であり、救い主でもあるのです。私たちを救うのは、無罪の第三者ではなく、神ご自身なのです。つまり、神は私たちに小切手を手渡し、選択は私たちの自由に任されているのです。私たちの代わりに神に支払っていただくか、自分自身の罪に対する神の裁きを自分で受けるかの選択です。 この法廷の場面は三つの点で完全とはいえません。まず、私たちはもっとひどい状態にいます。私たちに課せられる罰は、罰金ではなく死刑なのです。次に、裁判官との関係はもっと親密です。単なる二人の親友という関係ではありません。地上の親が子どもを愛するよりも、もっと深く私たちを愛してくださる天の父との関係なのです。三つ目に、代価ははるかに大きいものでした。お金ではなく神ご自身、神の独り子が、罪に対する罰金として支払われたのです。】
主は私たちを愛するか故に十字架での死を遂げられたのです。ご一緒に主イエス・キリストに従う豊かな人生を歩んでまいりましょう。祈ります。