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山形六日町教会

2022年7月17日

聖書:イザヤ書53章1~10節 マルコによる福音書2章5~7節
「主イエスとは」波多野保夫牧師

今年の夏期説教シリーズでは、アルファコースを下敷きにして主のみ言葉を聞いています。本日はその2回目です。先週紹介しました様に、このアルファコースは、キリスト教に興味を持っているけれども、洗礼を受けるに至っていない方への入門コースとして計画されています。
しかし、信仰暦の長い方が今更そんな初歩的なことを学んでも役立たないと言った内容ではありません。私は洗礼を授けて頂いて半世紀以上になり、10回近くアルファのビデオを見ているのですが、見るたびに自分がいかに大きな恵みをいただいているのか、気づきを与えられて新鮮です。物わかりの悪いお前だからそうなんだろうと言われれば、その通りなのですが、コロナが落ち着いた頃合いを見て、皆さんと学び直す機会を持てれば良いと思っています。
イギリスのHoly Trinity Church 聖三位一体教会で始められたアルファですが、現在では世界の160か国以上で行われています。教会だけではなく、様々なところで持たれており、刑務所のアルファもあるそうです。「同じ釜の飯を食う」と言う言葉がある様に、食事を共にすることは、まあ刑務所はさておいて、お互いに心を開いて話合うための大変良い方法です。
アルファは週1回、11週に渡って持たれますが、10人ほどのグループで軽食を共にした後、40分ほどのビデオを見てから、その内容を発展させて自分の抱える問題や疑問などを1時間ほどグループで話し合います。話し合いを導くリーダーは牧師ではありません。長老さんの場合も有りますが、多くは前回、もしくは前々回のアルファ参加者がつとめます。自分が疑問に思ったこと、思っていることをみんなで話し合うのです。何を聞いても何を話し合っても良いのです。その上で残った疑問を牧師に尋ねます。
コロナ禍のイギリスでは、集まって食事を共にするやり方が出来なくなったので、ネットを利用して行った所、参加者が3倍になり途中でやめる人が激減したそうです。大きなストレスを抱える時に、最良の解決が主の福音の中にあるのではないかと、直感的に感じる人が増えたからなのでしょう。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイによる福音書 11:28)これが主イエス・キリストの招きです。私たちはネットでアルファを行うことは出来ませんが、始める環境が整った時には、家族や友達を誘って参加していただきたいと思います。
さて先週は、「キリストを通して神を知る」と言う説教題で、私たちの人生とはどの様なものなのか、その目的は、何のために生きている・生かされているのだろうか? この疑問に焦点を当てました。収束の見えないコロナ禍や、次々に襲ってくる自然災害、あるいは社会不安の中にあって、この疑問が消えてはまた湧いてくる、そんな時代に私たちは生を受けているのではないでしょうか。説教の最後に次の様に申しました。【イエス・キリストを通して神様の愛を知る私たちです。 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 主イエスに従う信仰によって罪が赦され永遠の命が約束されています。「神様と自分と隣人を愛する」ことの中に、自分の人生の目的を見出すのであれば、それは最高に幸せな人生に違いないのです。】 
今週は、その主イエス・キリストがどの様な方なのかに焦点を当てたいと思います。最初に読んでいただいたイザヤ書53章は、主イエスが誕生する550年ほど前、イスラエルの人たちが、戦争捕虜としてバビロンに連れて来られた苦しい日々の中で、預言者イザヤが語った神様のお考えです。彼らは自由が奪われたことはもちろんですが、エルサレム神殿で祭儀を行うことが出来ません。そんな苦しい日々の中で、彼らはバビロン捕囚の原因を、自分たちが犯した「罪」・神様の事を忘れて、神様に背き続けた結果だと理解したのです。これってすごいことだと思います。「こんなひどい目に合わせる神なんて金輪際誰が信じてやるか!」 私ならば、この位の事を言いかねません。
確かにユダ王国が滅びる以前に、神様は預言者イザヤやエレミヤを送って「主に立ち返る」様に繰り返し警告されたのですが、耳を貸すことはありませんでした。そんな彼らは、苦しさの中で初めて反省したのです。残念なことですが、様々な試練や苦難はいつの時代にあっても襲って来ます。
新約聖書ヘブライ人への手紙は、バビロン捕囚から600年近く経った時代に迫害を受けている教会に書き送られたものです。 霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。(12:10b,11)神様の愛に対してのものすごい信頼だと思います。2022年の私たちもこの信仰に立ちたいと思います。
イザヤ書に戻りましょう。52章13節から53章12節は「苦難の僕の預言」と呼ばれますが、イザヤは、救い主イエス・キリスト、しかも私たちの罪を一身に負って十字架に架かられる主イエス・キリストについて預言しました。53章3節から6節をゆっくりお読みします。主のみ姿を心に思い浮かべながら聞いてください。 
53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。5 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。6 わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。正に私たちが知っている救い主、主イエス・キリストの姿が、誕生の500年以上前に預言者によって告げられているのです。この事実は何を意味しているのでしょうか? 
バビロンに連れて来られたイスラエルの人たちは、確かに紀元前538年に解放されてエルサレムに戻ることが出来ました。しかし、救い主がこの世に来られたのは500年以上後のことです。当時の人達にとって、この預言は絵空事に終わったのです。それだけではありません。主イエスが誕生されるまでの500年間は決して平坦な年月ではありませんでした。歴史をたどればユダヤの地を支配したのは、バビロニアからペルシャへ、さらにギリシャからローマへと移り変わったのですが、常に弱小国であることに変わりありませんでした。
ギリシャ(セレウコス朝)によってエルサレム神殿での偶像礼拝が強制された時代には、団結して立ち上がり(マカバイ戦争)、一時的にギリシャを退けることは出来たのですが、やがてローマ帝国の支配が強まると、ヘロデ大王がローマに取り入ることで、ローマの属国として主イエス・キリストの誕生の時を迎えたのです。
イスラエルの人々はこの間、歴史の波に翻弄されながらも「救い主」は必ず来てくださるとの預言に、希望を託して生き抜いたのです。この姿は2022年の世界を生きている私たちであり、教会の姿に似ているのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
現代の教会は社会にあって権力を持っていません。集う私たちも様々な問題を抱えており、歴史の波に翻弄されていると言えます。感染症であり、社会的な不安、人が欲得に支配される姿も目に付きます。教会においては高齢化と会員の減少に直面しています。
しかし、私たちは2つの事実を知っています。一つは、イザヤが2500年前に告げた預言は2000年前に実現したことです。「救い主」が私たちの罪を負って下さった結果、主に従う私たちは罪のない者と見なしていただき、豊かな神様の愛の中を歩む人生が約束されています。それだけではありません、主と共にある者に永遠の命が約束されているのです。
二つ目は、大預言者主イエス・キリストが語られた終末の約束です。再びこの世界に来て下さり、裁きを行って全ての悪を滅ぼしてくださる約束です。悪の力が支配するかの様な現代を裁いてくださる約束です。弱さを覚える日本の教会ですが、十字架の出来事によって主の愛を知る教会は、そして私たちは終末での勝利を一番よく知っているのです。ですから、これは希望を失わない中での弱さです。ですから、この弱さは主の前で、うぬぼれないで謙遜になるために必要な弱さではないでしょうか。
パウロの言葉です。 思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。(Ⅱコリント12:7)ですから、イザヤの預言を聞いたイスラエルの人たちが、厳しい現実にあって希望を持って生きたのと同じように、私たちは終末での勝利に希望を持つことが出来るのです。
以前礼拝で用いていた讃美歌358番は1節で次の様に賛美しました。 「こころみの世にあれど、みちびきのひかりなる 主をあおぎ、雨の夜もたからかにほめうたわん」 これが終末の勝利に望みを置く山形六日町教会であり、集う私たちではないでしょうか。
本日の説教題「主イエスとは」に戻れば、私たちの「罪」を負って十字架の死を遂げられ、さらに死に勝利して復活された方は私たちに二つの希望を与えてくださいます。
一つは希望であると同時に現実です。先ほど先週の説教の最後の部分を繰り返しましたが、もう一度申しましょう。【主イエスに従う信仰によって罪が赦され永遠の命が約束されています。「神様と自分と隣人を愛する」ことの中に、自分の人生の目的を見出すのであれば、それは最高に幸せな人生に違いないのです。】 ここには、希望を持って生きる姿があります。
二つ目の希望は、イスラエルの人たちが500年間持ち続けた希望に重なります。主イエスが再び地上に来てすべての悪を滅ぼしてくださる。だからどんなに苦しいとき、困難な時にあっても最終的な勝利は約束されているのです。
主イエスが与えてくださる二つの希望を確認したところで、主イエスの3つの姿に注目しましょう。
まず主は私たちと同じ人間でした。血の通った肉体と、悲しみ苦しみ喜びを感じる心、そして父なる神への信仰を持つ祈りの人として、一世紀のパレスチナに実在した人物です。ですから私たちの喜びも苦しみも理解してくださる方です。主の誕生から死に至るまでの生涯を聖書の証言によって知りますが、私は高校生のころ、福音書は誰かがイエスと言う空想の人物を書いた物語ではないかと疑ったことがありました。しかし、主イエスについては、聖書以外にも記録が残っているのです。ローマの元老院議員であり歴史家であったタキトゥスは、イエスがポンテオ・ピラトによって処刑されたことを書き残していますし、同じくローマの歴史家ヨセフスが西暦90年代に書いた『ユダヤ古代誌』と言う書物には、「イエスという賢人がいた。彼を人と呼ぶことができるであろうか。」とあります。イエスと言う男は、人と呼べない程に素晴らしい働きをしたと言う話が、教会以外にも広く伝わっていたのです。その一節を週報に記しておきました。
次に主イエスは偉大な宗教指導者でした。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ福音書 5:44,22:39)あるいは「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」(ルカ6:31) 当時は『目には目を、歯には歯を』これが常識だった時代です。主イエスは隣人愛に基づく、慈悲や親切を言葉と行いによって教えられたのです。「波多野先生、だけど『目には目を、歯には歯を』っていうのは、確か聖書の言葉じゃないですか?」「聖書を良く読んでいますね。確かに出エジプト記(21:24)にある言葉です。主イエスが来てくださる1300年以上前の世界は、「目には死を、歯には死を」と言う復讐の世界でした。それを目を傷付けた相手を殺すのではなく、「「目には目」に留めなさい。憎しみを拡大してはいけない。」としたのです。一気に「敵を愛しなさい。」と言われたってとても理解できない世界だったのです。ところで私たちは主が教えられてから2000年がたった世界に生きています。あなたは「敵を愛していますか?」この様に問われたら、どのように答えるのでしょうか?
さて、牢屋につながれていた洗礼者ヨハネが、待ち続けていた「救い主」が主イエスなのかと疑いを持った際の答です。行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告つげ知らされている。(ルカ7:22)貧しい人やハンディを負って社会の周辺に取り残された人たち、当時社会的な地位が極めて低かった女性や子供たち、飢えた5000人もの群衆、この人たちに神様の愛を注がれたのです。主は、その教えと業によって、悔い改めて神様に立ち返ることで与えられる大いなる恵みを教えられた偉大な宗教指導者でした。
主イエスの三番目の姿は、神様の独り子、すなわち神様ご自身でした。ゲッセマネの園で逮捕された主は大祭司の屋敷に連れて行かれました。イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、 天の雲に囲まれて来るのを見る。」(マルコ14:60-62)これを聞いた大祭司は言いました。「これでもまだ証人が必要だろうか。 諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。(マルコ14:63-64)ご自分が神の独り子だと自覚されていたのは当然ですが、宗教指導者たちはどうだったのでしょうか? 彼らはその真実に気づいていたことでしょう。なぜなら最高法院に議席を持つ彼らは国中の出来事を全て知っていたからです。主の力ある言葉と業を知っていたのです。しかし、人々を律法に縛り付けておくことは、自分たちの権威とその権威のもたらす利益のためにはゆずることが出来ないので、それを認めなかったのです。欲得で目がくらんだ彼らは主を十字架に架けることまでしてしまったのです。
真の人であり、偉大な預言者であり、宗教指導者であり、この世の王であった主イエスは、私たちの罪を負ってくださる神の独り子、即ち三位一体の神ご自身だったのです。
それでは、弟子たちにとって、主イエスはどの様な存在だったのでしょうか?それは、主の十字架と復活の出来事の前後で180度違います。ペトロです。彼は「あなたはメシア、生ける神かみの子です」と答えた(マタイ16:16)のですが、主が逮捕されると恐ろしさのあまりに3度「主を知らない」と言って裏切りました。しかし、復活の主にお会いした後の彼は、教会の中心にあってローマ帝国や最高法院の迫害にひるむことはありませんでした。
それでは私たちはどうなのでしょうか? 聖書の証言によって主イエスが私たちの救い主だと知っています。山形六日町教会と諸先輩方を導かれた聖霊の働きを知っています。私たちに注がれている愛を知っています。アルファコースの中で次の様に語られました。「人々の心をひきつけるイエスには3つの可能性があります。魔術を使う最悪のペテン師か、絵空事を並べ立てる気がふれた人間か、あるいは神なのか。 このどれか以外では決してありません。私は聖書が伝えるイエスの出来事が、どんなに奇妙であり、あり得ないことの様に思えても、その人が神であると言う以外の考えを持つことは出来ないのです。」 それでは、あなたにとって主イエスはどの様な方なのでしょうか?祈りましょう。