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山形六日町教会

2022年7月10日

聖書:コヘレトの言葉1章1~11節 ヨハネによる福音書14章6節
「キリストを通して神を知る」波多野保夫牧師

厳しい暑さが続いています。水分補給と換気によって、熱中症とコロナに十分な注意を払いながら礼拝を続けて参りましょう。さて、本日から9月11日までの10回の主日礼拝では、夏季説教シリーズとして、以前皆さんと一緒に学びましたアルファコースでの学びに基づいて、聖書を読んでいきたいと思います。アルファコースは、ロンドンにありますHoly Trinity Church 聖三位一体教会と訳すのでしょうか、この教会で始められ、現在では世界に広まっている、主に未信者の方、求道中の方に向けたプログラムです。六日町教会や千歳幼稚園では、Nicky Gumbel牧師の講演ビデオを用いて学びました。アルファは、もちろんヨハネの黙示録で主が、「わたしはアルファであり、オメガである。」この様におっしゃった言葉から、主イエス・キリストに従う喜びの人生をスタートするためのプログラムと言う意味をもっているのでしょう。しかし、Alphaは5つの英語の単語の頭文字をとったものだそうです。意味を週報にしるしましたが、(A: Anyone interested) 誰でも興味ある人は参加できます。(L: Learning & laughter) 学びと笑いがあります。(P: Pasta) 軽食またはお茶が用意されています。(H: Helping one another) 参加者が助け合います。(A: Ask anything) 何でも質問できます。 礼拝では「食事を共にする」のが一番難しく思われるかも知れませんが、実はこれが中心にあります。主の食卓を共にする「聖餐」です。洗礼をまだ受けていらっしゃらない方も、主の食卓へと招かれています。是非洗礼を受けて共に預かっていただきたいと思います。

さて、第一回の説教題を「キリストを通して神を知る」としました。読んでいただいた旧約聖書コヘレトの言葉ですが、コヘレトとは「集会を指導する者」と言う意味で、1節によればソロモン王となりますが、古代においては尊敬する人の名を用いることが広く行われていましたから、多くの聖書学者はソロモン王の時代、紀元前900年代よりかなり後の時代に書かれたのだろうとしています。1章2節3節です。1:2 コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。3 太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。
さらに人生の虚しさを繰り返します。8節9節。1:8 何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず 目は見飽きることなく 耳は聞いても満たされない。9 かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。
私たちは2年半ほどの間、強いストレスを感じて過ごしてきました。2020年5月には3週間に渡って、この礼拝堂に集って主日礼拝を守ることが出来ませんでした。当たり前と思って続けてきた様々な教会の活動だけでなく、日々の生活の中にも数々の制限が未だに残っています。2年半に及ぶコロナ禍から脱出出来そうな兆しが見えて来た矢先に、新型の感染症が報告されて再び全国的に染者数が増加し始めているます。なかなか終息を見せないコロナ禍に疲れを覚えますが、それだけではありません。異常気象の影響や最近頻発する地震、さらには急激な物価高などなど。一昨日の悲劇的な出来事も心を重くします。いつの時代にもつきまとうことでしょう。健康や歳を重ねることへの不安であり、仕事や勉強、家族や友人との人間関係、さらには世界平和などに関してのストレスに取り囲まれているのではないでしょうか。さらに新聞を見れば相変わらずは強欲がはびこり、分裂や寛容性を失っていく姿が目につきます。こんなことが全世界的な規模で起きている昨今です。真夏の暑さと相まって、コヘレトの言葉に共感を覚え厭世(えんせい)的な気分に陥(おちい)りそうになります。しかし、その一方でパウロの言葉も響いて来ます。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(Ⅱコリント5:17口語)
私は、この聖書のみ言葉に忘れられない思い出があります。六日町教会から招聘を受かる前の年、2013 年の夏でした。指導してくださった牧師がある教会の集まりに連れて行ってくれたのですが、会場教会に着くと、ごつい体をしたお兄さんがぞろぞろと入って行きます。太い腕に刺青をした人もいました。実はこれは、地域の100以上の教会が協力して行っているホームレス更生プログラムの卒業式でした。1年間かけてホームレスになった原因への対応と自立のための訓練プログラムで、数学・国語・怒りへの対処・生活方法・いじめへの対処・親として・金銭管理 この様なことで社会生活の基礎を身に付け、何よりも「聖書の学びによって生まれ変わる」ことを目標としています。卒業生代表が真白なジャケットに赤いバラを付けてスピーチしました。「わたしは、幼いときにレイプに合い、やがて薬・売春に手をそめ、友人をAIDSでなくし、やがてホームレスになりました。このプログラムに加わって聖書を学び始めた或る晩の事でした。主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われたのです。だから、『キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』(二コリ12:9) と続けた彼は、涙ながらに『だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。』(二コリ5:17) イエス様ありがとー!」この様に結んだのです。会場は総立ちで拍手が鳴り止みませんでした。
コヘレトの言葉に共感を覚える私が確かにいます。旧約聖書の世界に生きたコヘレトは主の十字架と復活の出来事を知らなかったけれども、私たちは十字架に示された神様の愛を知っています。「だからパウロの言うとおりだ。大丈夫だ!」 この様に言いきれない私が確かにいるのです。アルファコースでニッキー牧師は「私たちは何のために生きているのか? 私の人生って何だろう? 人生の目的は?」と問い、その大いなる疑問を持ったトルストイについて語りました。ビデオを見てみましょう。
【 人生の意味や目的を求めて生きることに、多くの時間を費やす人がいます。『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』という著作を残したレオ・トルストイは1879年に『懺悔』という本を書きました。この本の中で、彼は人生の意味と目的を探した自分の軌跡を記しています。彼は子どものころ、キリスト教を否定しました。大学を出た後、できる限りの楽しみを手に入れようとしました。モスクワとサンクト・ペテルブルグの社交界に入り、酒と女と賭博にふけり、放蕩の限りをつくしました。しかし、何も彼を満たすことはできませんでした。 それから、彼はお金に対してとても貪欲になりました。不動産を相続し、本の印税で巨額の富を手にしましたが、これも彼を満足させることはできませんでした。成功と地位と名声を追い求め、これらをすべて手に入れました。『ブリタニカ百科事典』には、トルストイは「世界文学史上最も優れた著作の一つを残した作家」として名前があげられています。しかし。彼は、「では、人生の意味とは何なのだ?」という質問を繰り返し続けます。しかし答えは見つからなかったのです。 後に、トルストイは家庭という大きな夢を抱くようになり、家族に最高の生活をさせようと情熱を燃やします。1862年に彼は結婚しました。そして、やさしく素晴らしい妻と13人の子どもに恵まれました(この時点で、人生の意味を追求するのを一時中断したと彼は言っています)。望んでいたもの全てを手に入れ、完璧な幸せのように見えるものに囲まれていました。しかし、まだなお彼を自殺の淵まで追いやる疑問が一つありました。 「私を待ち受けている死という必然によって消滅することのない意味が、私の人生にはあるのだろうか?」 彼は、科学と哲学の中にその答えを見つけようとしました。「自分はなぜ生きているのか」という疑問に対して得られた唯一の答えは、「無限の空間と無限の時間の中、限りなく小さい粒子が限りない複雑さをもって突然変異するから」というものでした。 同世代の大びとを見回しても、人生における最も重要な疑問(「自分はどこから来たのか」「どこに向かっているのか」「自分は誰なのか」「人生とは何なのか」)に向き合っている人はいないようでした。やがて彼は、ロシアの農民がキリスト教の信仰を通してこれらの疑問に対する答えを得ていることを知りました。トルストイは、イエス・キリストを通してのみ、答えを見つけることができるということに気づいたのです。 】いかがでしょうか? トルストイほどの激しさでは無いにしても、「これで良いんだろうか? 自分の人生って何だろうか?」考えるのではないでしょうか。  
昭和初期においては、多くの高校生がその様な疑問を持ち、哲学者の西田幾太郎の本が出版される日には、岩波書店の前に行列が出来たそうです。最近のiPhone や PlayStation の発売日には若者の行列が出来ますが、哲学書の発売日には無い様です。この様な疑問を持つ年齢は、時代と共に遅くなり、大学生から就職や結婚など人生の転換期へ、さらに子育て年代から、子育てが終わったころ、一生懸命育てた子供が親離れをしていく時に、このままの自分で良いのだろうかとの疑問が湧いたり、さらに人生の終焉に差し掛かったころに、自分の人生は何だったのだろうか? との疑問を持つ傾向があると言われます。真剣に考える時期が遅く遅くなって来た、一つの原因として、社会の複雑化であり、豊かさが増したことが指摘されています。これが平均的な日本人だと言うのです。それでは私たちクリスチャンはどうなのでしょうか?
最初にヨハネ福音書の一節を読んでいただきました。イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(14:6) 答えは明白です。主イエス・キリストがクリスマスの日に地上に来られた目的は、主に従って生きる人生が決して空しいものではないことを知りって、私たちを喜び楽しむ者とするためです。ですから、神様の大いなる恵みと愛を手にするために歩むべき道は、真理であり、命である主イエス・キリストに従う人生なのです。この福音を知っているのがクリスチャンであり、その喜びを最もよく表すのが、同じように神様の愛を受けている兄弟姉妹と共に献げる週ごとの礼拝です。ですから礼拝に集うことが出来ないときは、礼拝を覚えて聖書に親しみ祈りの時を持つことで、喜びを共にするのです。
以前、あるご婦人の話をしました。若くして信仰を持った彼女の祈りの課題は、ご主人にぜひ信仰を持って欲しいとの願いでしたが、叶えられることはありませんでした。50歳代も半ばを過ぎたころ、春先から体の不調覚えた彼女は肺がんと診断され余命は長くて半年との宣告を受けたのです。会社で責任ある立場にあったご主人は、奥さんの願いを知っていましたが、週末は接待ゴルフなどに追われ、これまで忙しさにかまけて、教会に足を向けることはありませんでした。しかし、今までの態度を反省したご主人は、毎週礼拝に出席した帰りに病院によって奥様に礼拝の様子を伝えるようになったのです。もともと意志の強い方ですから、こうと決めると礼拝を休むことはありません。秋も深まったある日、礼拝の後病院を訪ねたご主人は奥様に言いました。「クリスマスに洗礼を受けることになったよ。」 それを聞いた奥様は叫びました。「神様、ありがとうございます。今、私の人生の意味を知ることが出来ました!」 彼女はクリスマスを待たずに神様の御許へ召されたそうです。
神様のご計画は私たちの思いを越えています。信仰が与えられる時は人それぞれです。「波多野先生、そんなこと言っても私が信仰を伝えたい人は既に亡くなっています。」大丈夫です、神様は時間を創られた方です。伝えたいその方は、陰府に降った主イエスにお会いすることも可能でしょうし、神様の御許での洗礼式も素敵でしょう。その方の為に祈りを絶やさないことが大切なのです。
さて、農民たちの信仰生活の中に、道であり、真理であり、命である主イエスキリストへの信仰に生きる豊かで幸せな人生を見出したトルストイは「愛のある所に神あり」と言う短編小説を書きました。「靴屋のマルチンさん」として知られています。自分の人生の目的であり、神様があなたに何を期
待されているのかを思いながら、紙芝居を見ていただきましょう。
【靴屋のマルチンさん
・ マルチンさんは通りに面した仕事場で毎日一生懸命仕事をしていました。しかし、最近は不機嫌でお弟子さんに辛く当たります。その原因は、大切な奥さんと息子さんを突然亡くしてしまったからなのです。それ以来、お酒ばかりのんでいます。以前は家族で通った教会の礼拝にも全く行きません。なにが教会だ! 何が神様だ! 大切な二人を取り上げておいて。
・ そんなある日、牧師さんが訪ねて来ました。マルチンさんこのごろ礼拝で会いませんね。どんなに辛いときでも神様の愛は変わりません。聖書を置いて行きます。神様の言葉が書かれています。寂しさをお酒で紛らわせていたマルチンさんですが、の晩はなんとなく聖書を開いて見ました。
・ マルチンさんは、その晩夢の中で声を聞きました。マルチン・マルチン明日お前の所に行くよ。マルチンさんは昨晩の夢が気になって、朝早くから誰か来ないかと外を見ていました。
・ すると、寒さの中で辛そうにしている、雪かきのステパノじいさんが目に留まりました。家の中で暖かいお茶をごちそうになったじいさんは元気になって仕事に戻りました。それを見たマルチンさんもうれしくなりました。
・ また窓の外を見ていると、お母さんに抱かれた赤ちゃんが泣きじゃくっています。中に入れると何も食べていないと言うので、お母さんにはパンとシチューを、赤ちゃんには暖かいミルクをあげました。帰りにはかわいそうな親子に、毛布と少しのお金もあげたのです。
・ 夕方になったのに誰も訪ねて来ません。騒がしいので、外を見ると男の子がリンゴ売りのおばあさんに激しく叱られています。「こら、リンゴを盗むんじゃないよ! 返しなさい。」「ごめんなさい。朝から何も食べてなかったので! ごめんなさい。」マルチンさんは出て行って、お金を払ってリンゴを買ってあげました。「もう盗んじゃだめだよ!」「ありがとう! 僕もうしないよ。」
・ ああ、もう夜になったけど誰も訪ねてこなかったなぁ。
・ その晩、神様は夢の中でマルチンさんに言いました。マルチン・マルチン今日私はお前の所に行ったよ! でも神様、朝からズート待っていたのですが訪ねていらっしゃいませんでした。マルチン、雪かきのステパノじいさん、赤ちゃんと寒さに凍えていたお母さん、そしてお腹がすいて、ついリンゴに手を出してしまった男の子、それが私なんだよ。】
作者のトルストイは確かにイエス様の言葉を聞きました。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』イエス・キリストを通して神様を知る私たちです。 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 主イエスに従う信仰によって罪が赦され永遠の命が約束されています。「神様と自分と隣人を愛する」ことの中に人生の目的を見出すのであれば、それは最高に幸せな人生に違いないのです。祈りましょう。