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山形六日町教会

2022年7月3日

聖書:詩編89編27~30節 ガラテヤの信徒への手紙3章23~29節
「聖霊によって」波多野保夫牧師

少し前になりますが、6月の第3日曜日は父の日でした。5月14日の母の日に比べて、スーパーで売っていた「父の日、手巻き寿司セット」は心なしか小さかった様ですし、母の日にカーネーションを送る習慣は広く受け入れられていますが、父の日の花と言われますバラを送ることは少なかった様です。でも、大丈夫です。最初に読んでいただいた詩編89編で、「わたし」とおっしゃるのは全知全能の神様、「彼」はダビデ王。「彼の家系」とはダビデ王の末に生まれた主イエス・キリストであり、主イエス・キリストへの信仰を共にする私たちです。27節以下をお読みします。聞いてください。27 彼はわたしに呼びかけるであろう あなたはわたしの父 わたしの神、救いの岩、と。28 わたしは彼を長子とし 地の諸王の中で最も高い位に就ける。29 とこしえの慈しみを彼に約束し わたしの契約を彼に対して確かに守る。30 わたしは彼の子孫を永遠に支え 彼の王座を天の続く限り支える。天の父が与えてくださる慈しみ、即ち変わることの無い愛は御子イエス・キリストに従う者にいつも与えられているのです。ですから、私たちは神様にむかって「あなたはわたしの父 わたしの神、救いの岩」と呼びかけることができるのです。ですから、私たちにとっては毎日が父の日、毎日が父の愛を受けての一日なのです。
本日与えられましたガラテヤの信徒への手紙ですが、使徒パウロが、現在のトルコの内陸部にあった教会に書き送ったのは、西暦55年頃と言われています。 主の十字架と復活の出来事から25年程経ったこの頃には、各地に教会が生まれてクリスチャンが増えて行ったのですが、数が増えるにつれて、主の福音の理解について大きな違いが目立つ様になっていました。
6月5日のペンテコステの日に5章16節から18節をご一緒に読みました。5:16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。 「聖霊が宿ってくださる教会は、そして聖霊が宿ってくださる私たちは、律法の縄目の下にはいません。主の大いなる愛が私たちを支配してくださるからです。」この様にお話ししました。
今お読みした5章18節には、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。とありました。旧約聖書が求める律法厳守の命令と主イエスが語り伝えてくださった福音の間に、整理を必要とする理解の違いが生じていたのです。ペンテコステの日に誕生した教会に属していた多くの人たちは、律法を守る様に幼いころから教育されてきたユダヤ人たちでしたから、新しく教会に加わったユダヤ人以外の人たち、彼らは異邦人と呼ばれますが、その異邦人にも安息日や割礼などの遵守を求めるのは当然でした。
一方パウロは「信仰義認」、すなわち私たちが神様の前で「罪」のない正しい者と見なしていただき、永遠の命が約束されるための条件は、律法に従った行いの正しさではなく、主イエス・キリストへの信仰だけであり、日々の生活の中に主をお迎えすること。すなわち、心を開いて聖霊をお迎えする、その信仰だけに依るのだとしたのです。ユダヤ教からクリスチャンに改宗した人たちは、異邦人に律法を守らせることについて、あいまいな態度をとっているパウロが、使徒として相応しいのか、使徒と呼ばれる資格があるのかを問題にする様になっていました。使徒言行録に、主を裏切ったイスカリオテのユダの代わりに12人目の使徒を選んだ際の条件が記されています。「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」(1:21,22)パウロはこの条件に当てはまらないどころか、復活の主にお会いするまでは、クリスチャンを捕まえて迫害する者たちの先頭に立っていたのです。復活の主との出会いは30年も前のことでしたが、それ以来、迫害する者からキリストの名の故に迫害される者となって、主の福音を語り続けて来たのです。12使徒たちもパウロを受け入れ、多くの教会がパウロによって励ましを受けていたにも関わらず「あいつだけは絶対に赦せない。」と言う者たちがいたのです。主イエスがすでに赦してくださっているのに、自分だけは「あいつを絶対赦せない。」なんてこと、私たちにはないでしょうか? 主のみ言葉を2つお読みしましょう。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」(ルカ6:37)「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ7:1-3)
ガラテヤの信徒への手紙3章23節以下に戻りましょう。26節までに「律法」と言う言葉が2つ用いられているのに対して「信仰」が5つ並んでいます。だから信仰が律法に勝ると言う訳ではありませんが、パウロだけでなく、西暦1500代に活躍した宗教改革者たちは、当時堕落していたローマ・カトリック教会が「免罪符を買う良い行いによって救われる」としていたことにハッキリと「それは違う」と言って、「信仰義認」を取り戻したのです。私たちは、その行いによってではなく、主イエス・キリストへの信仰を持つことで「罪」から救われるのです。
さて「律法」ですが、現在、私たちは律法の神髄が「神様と自分と隣人を愛する」ことだと知っています。このことを覚えながら進みたいと思います。まず神様がモーセに与えられた十戒をご一緒に唱和することから始めましょう。全ての律法の基(もとい)がここにあります。週報の裏面に十戒を記しました。太字の部分をご一緒に唱和し、細字の部分は私がお読みします。
【 十戒 わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
⑴ あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
⑵ あなたはいかなる像も造ってはならない。
上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
⑶ あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
⑷ 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
⑸ あなたの父母を敬え。
そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
⑹ 殺してはならない。
⑺ 姦淫してはならない。
⑻ 盗んではならない。
⑼ 隣人に関して偽証してはならない。
⑽ 隣人の家を欲してはならない。
隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。】 
第一戒から四戒は「神様を愛する」ことに他なりません。第五戒から十戒には「自分を愛し隣人を愛する」ことがあります。いかがでしょうか? 「私は、神社で手を合わせたりしないし、マリア像も持っていない。「神様にかけて誓います」なんて言わないし、大体毎週礼拝に出席している。十戒はいい教えだと思うし、大体は守っている。それに両親を大切にしているし、殺人や姦淫や偽証なんて関係ない。隣の家のものを取ってもいない。」大変結構なことです。一つだけ質問しましょう。あなたの心を、健康やお金や将来の不安であったり、様々な欲望が占めることは無いですか? もし、それらに捕らわれるとしたら、神様以外のものに心を支配され、天地を創造された唯一の神以外のものを神としているのです。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。第一戒です。 本来、律法はこれを守って幸な日々を過ごすようにと神様が与えられた良いものです。十戒はどの時代にあっても守るべきものですが、イスラエルの人たちが直面する様々な場面において、判断の基準としていくには、様々な応用が必要になります。旧約聖書の出エジプト記やレビ記、民数記、申命記には様々な戒律が記されています。文章に書かれた律法と言う意味で成文律法と呼ばれますが、さらに、生活の局面や裁きの場で律法学者が読み込んだ律法の解釈も語り伝えられました。口伝律法と呼ばれます。数え上げると613に上ったそうです。私たちにとって守らなければいけない律法であり、幸せな人生を送るために必要な律法の神髄は「神様と自分と隣人を愛する」ことなのですが、主のみ言葉をマタイ福音書17章18章は伝えています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ:17,18)これをどのように理解したらよいのでしょうか? まずはパウロの言葉を聞くことから始めましょう。 
律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。(ロマ5:13) 幸せに生きて欲しいと思う神様の思いに逆らう人間の「罪」の姿はすでにアダムとエバに見ることが出来ます。ですから、律法はユダヤの人たちにも、また2022年の私たちにも「罪」を「罪」だと知らせてくれるのです。何が神様のみ心に沿わない「罪」なのかを明らかにしてくれるのです。ガラテヤの信徒への手紙3章24節。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。 律法は私たちに自分の罪を自覚させるだけではなしに、罪に対する弱さですね。繰り返してしまったり、悪いと判っていることをしてしまう、その弱さにも気づかせてくれます。パウロは言います。 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。(ロマ7:15)主の十字架の出来事を知る私たちは、罪びとの私がどうすれば良いのかを知っています。十字架の主に従う他はないし、主に従うことで完成されること知っているのです。この福音を知る前には、 律法は、キリストのもとへ導く養育係 だったのです。自分の「罪」を知るほどに救いは主から来ることを知るからです。
再びパウロは言います。律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。(ロマ5:20)自分の罪深さを知るほどに、主が罪から救い出してくださる恵みが増し加わります。私たちは神様の愛の中に生かしていただいていることが分かります。3章25節 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。 律法を懸命に守る努力を重ねる生活は23節が言う、律法の下で監視され、閉じ込められていた 生活です。主イエスが来て下さり福音を告げられるまでは、律法を破らないか、あるいは誰かから律法違反だと指摘されないか、そんなことにおびえる生活でした。安息日に仕事をしてはいけないので、穴に落ちた羊を助け出すこともしてはいけない。 良きサマリア人の譬えでは、半殺しにあった人を祭司や信仰深いレビ人は見て見ぬふりをして通り過ぎて行きました。彼らは言うでしょう。「もしその男が死んでいたら、死体に触れることで汚れてしまう。私は律法を忠実にまもっただけだ。何が悪い!」 まあ、自分を正当化する言い訳の名人はいつの世にもいる者です。私もこの点では負けていません。 主の福音を知るまで、人々は、そしてその良心は613の律法によって、がんじがらめに縛りあげられていたのです。
波多野先生「パウロは、主の福音、十字架で示された愛によって律法から自由にされたと言うのですが、イエス様は、私は律法を廃止するために来たのではないとおっしゃいます。どっちなんですか?」 良い質問です。実際、613の戒めの内、神殿祭儀の方法は必要なくなりました。罪を犯した自分の代わりに動物を献げて罪を赦していただく祭儀は、主がご自身を生贄の子羊として献げられたことに依って不要になりました。教会の礼拝で生贄を献げることはありません。聖餐式において、私たちは生贄として献げられた主の血と体をいただくのです。献げるのは賛美と祈りと感謝の献げものです。主は律法のぜい肉部分を含めてすべてを満たした唯一の人間です。その結果、ぜい肉を落とした律法の神髄「神様と自分と隣人を愛しなさい」と命じられるのです。 「でも、イエス様は「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:18)とおっしゃっていますよ。」 なかなか鋭いですね。全ての事が実現するのは、終末の時、神の国が地上に実現する時、主の福音がすべてを支配する時です。
現在、神の国のひな型は教会において既に届いています。主の愛の支配です。だとしたら、少なくとも教会において613の律法はぜい肉を取り去って「神様と自分と隣人を愛すること」だと言い切ることが出来るのではないでしょうか。パウロはその根拠を26節以下で述べています。3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。これって正に教会の姿です。 27節。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。わたしは、キリストを着ると言う言葉に勇気づけられます。パウロは 主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。(エフェソ6:10,11)この様にも言っています。数知れない悪魔の誘惑に負けない唯一の方法はキリストを着ることです。洗礼を受けるとはキリストを着ることなのです。まだ洗礼に至っていない方はこの恵みへと招かれているのです。是非このことを覚えていただきたいと思います。
さて、教会では もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 キリストの支配してくださる教会には、これ以外のあり様は無いでしょう。もしそうでないなら、欠点を指摘し合うのであれば・・・。最初にキリストの言葉を2つお読みしました。 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」(ルカ6:37) 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ7:1-3) 私たちが、キリストのもの、キリストに従う者であれば、神様の恵みの約束は「罪」の無い者として喜びの人生を歩ませてくださるだけではありません。死の向こう側にまで及ぶ永遠の命を約束してくださるのです。 これが、主イエス・キリストに従う者に与えられる「信仰義認」の結論なのです。ペンテコステの日に申し上げた結論をもう一度申し上げます。「聖霊が宿ってくださる教会は、そして聖霊が宿ってくださる私たちは、律法の縄目の下にはいません。主の大いなる愛が私たちを支配してくださるからです。」祈りましょう。