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山形六日町教会

2022年6月26日

聖書:詩編32編1~5節 ルカによる福音書7章39~43節
「多く赦された者」波多野保夫牧師

今日は山形学院高校のボランティア部の皆さんと一緒に礼拝を守れることをうれしく思います。一緒に聖書の言葉を聞いて行きましょう。二週間前になりますが、花の日礼拝では、ハンドベル部の皆さんの演奏と先生のリードで「鹿のように」と言うプレイズソングを賛美しました。CSの生徒さんが読んでくれた詩編42編 涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。この詩を歌いました。
実は礼拝の持ち方であり賛美の仕方には様々なものがあります。コロナの影響で、学校では長い間放送で礼拝を守って来たそうですし、私たちは座ったままで賛美しています。しかし、多くのドイツの教会では、普段から座ったままで賛美しますが、聖書朗読の時には立ちます。礼拝の最初の方で献金をする教会もあります。献げものを携えて集うことを大切にしているのでしょう。主の祈りを最初に祈る教会、毎週十戒を唱える教会もあります。映像が聖書の理解を深めてくれることもあるでしょう。私は賛美リーダーがフラダンスを捧げて賛美した礼拝を経験しました。
出エジプト記14章は、モーセが手を海に向かって差し伸べると水が分かれイスラエルの人々が救われた奇跡を伝えています。それに続いてモーセの姉、女預言者ミリアムの賛美の姿があります。お読みします。ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し 馬と乗り手を海に投げ込まれた。(出エジプト15:20,21) 
主イエスのみ言葉が思い出されます。 まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。(ヨハネ4:23,24) 礼拝のプログラムであり、賛美の仕方には「これでなければ礼拝とは言えない」と言うものはありません。必要であり十分なことは、霊と真理を持っての礼拝です。聖霊の招きに素直に従って心を開いてみ言葉に聴き、祈り賛美し献げる。私たちは、この様な礼拝を今日も献げていきたいと思います。そして、この様な礼拝に、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。コリントの信徒への手紙Ⅰ 14章24節25節です。
礼拝は霊と真理を持って守るものです。しかし、あまりなじみのない礼拝方法ですと、落ち着かなくて普段との違いばかりが気になってしまい、語られるみ言葉が心に届かなくなるでしょう。自然なことです。一方で慣れ親しんだ礼拝は緊張感が薄れる危険があります。霊と真理を持っての礼拝は、生きて働かれる聖霊に導かれて罪の赦しへの感謝をもって守る礼拝、大いなる喜びに包まれた礼拝に違いありません。

さて、本日与えられた聖書はルカ福音書7章36節から50節までです。「罪深い女を赦す」との小見出しが付いています。説教シリーズ「たとえて言えば」の18回ですから、譬えの部分だけを読んでいただきました。週報に全体を記しましたので参照してください。7章36節。 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。 ルカはこの様に語り始めます。唯一の神を信じるユダヤ教にあって、ファリサイ派の人たちは十戒を基とする律法に忠実に生きようとする、まじめな人たちでした。金曜日になると食事を共にし、翌日の安息日に備えました。
私達に置き換えれば、礼拝に集い、聖書を良く学び聖句も暗唱している。土曜日ごとに集まって食事を共にし、明日の礼拝への備えの時を持つことでしょう。 皆さんいかがでしょうか。自分の生活、あるいは礼拝への備えと比べてみてください。そう言う私は多くの点で恥じ入ってしまいます。イエス様はそんなファリサイ派の人たちに招かれると何度も食事を共にされたのです。(ルカ11:37,14:1) 
何時の時代でも食事を共にすることは親しさの表れです。最終的にファリサイ派は主を十字架に架ける側に立つのですが、神様に忠実であろうとする彼らを何とか正しい信仰に導こうとなさったのです。
十字架上での主の言葉です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)ファリサイ派はボタンを掛け違ってしまったんです。信仰的な熱心さは絶対に必要ですが、それが人を裁くことになってはいけません。
主のみ言葉です。人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。(マタイ7:1-3)自分のことは棚にあげて、と言うわけですが、それとは反対に、悪いと気づいていないことを注意してあげるのは難しいものです。どれだけ真剣にその人を愛しているのかが問われます。さらに、神様からの忠告は私たちとって、厳しさ辛さを伴うことが確かにあります。ヘブライ人への手紙の一節です。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、 力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、 子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」(12:5,6)
主は自分を十字架に架けることになるファリサイ派の人たち、いや「神様と自分と隣人を愛する」ことに欠けのある罪びと、私たちのことですね、罪びとの為に、ご自分の命を献げて神様との正しい関係を回復してくださいました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(ペトロの手紙Ⅰ4:10) この聖書の言葉を心に留めてルカ福音書7章37節に戻りましょう。 
この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。 ユダヤでは人を招いての食事は、庭にベッドのような長椅子を並べてその上に左腕を下にして寝そべって、前のテーブルに並べられる料理を食べワインを飲みながら音楽や会話を楽しむ宴会で、町の人は誰でも自由に近づくことが許されていました。 宴席で寝そべって食事をしている主の足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った罪深い女性がいました。彼女は売春によって生活の糧を得ていたのでしょう。当時、ユダヤの女性は香油の入った石膏の壺を首にかけていました。雪の花と書きますが、雪花石膏と呼ばれる乳白色の美しい結晶をくりぬいて香油入れとして使っていました。今でいうアンプルのようなものです。
彼女は泣きながら主イエスの足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、足に接吻して香油を塗ったのです。女性が人前で髪の毛をほどくことは有りません。彼女のこの異常とも言える行動は何だったのでしょうか? 宴会の席には誰でも入ることが出来たのですが、当然彼女は歓迎されませんし、自分が罪深い者だと意識していました。ですからそれは止むに止まれぬ行動でした。イエス様の噂を耳にした彼女は、この方こそ私の人生、身を売るしかない人生に希望を与えてくれるのだとの確信を持つに至ったのです。罪深い自分の人生にあって、イエス様が与えて下さるものだけが生きる唯一の希望となったのです。彼女の涙は、その方にお会いして奉仕することが出来る、心からの喜びの涙ではないでしょうか。 私達はそれほど評判の悪い者ではないでしょうし、良い人だと言われている方もいらっしゃるでしょう。素晴らしいことです。
それでは、どこまで、神様と自分と隣人を愛することに欠けている「罪人」であることを自覚しているのでしょうか? 主イエスの救いを必要と感じているのでしょうか?
アルファーのビデオでニッキー牧師が問いました。歴史上最悪の人は誰ですか?ヒトラーだとか、イエス様を裏切ったユダだとかがあがりました。よろしい、彼らを0点としましょう。柱の根本です。では最良の人は? マザー・テレサやキング牧師が挙がりました。よろしい100点としましょう。柱のてっぺんです。それではあなたは? そうですね、この二人の間ですから40点か60点くらいでしょうか。 じゃあ、イエス様は? そうです、遥か上の天にいらっしゃいます。ですから、世間で評判が良かったりあの人より私は善人だ、と言うのは神様の前ではまったく意味が無いことなのです。
落語に登場する与太郎が箒を振り回しているのを見た人が聞きました。何やってんだ? 星をとろうと思ってるんだ。お前はバカだな! 屋根へあがれ!! これが他人の罪には気づいても、自分の罪に気づこうとしない、私であり、あなたの姿です。自分中心の習性、神を愛さないで神に逆らう習性を身につけている者の姿です。
「この罪の女に比べれば私はましだ。」 意味のない言葉です。彼女は涙でイエス様の足を濡らし髪でぬぐうほどに今のどうしようもない生活を悔いていました。罪の赦しを求めていました。そしてイエス様の足に接吻して高価な香油を塗ることで精いっぱい感謝と喜びを表しました。これが彼女に出来る最大の方法だったのです。
この女性と私、そしてあなたの罪の重さの軽重を比較することは無意味です。しかし、彼女が示した感謝と喜びを、私とあなたが示す感謝と喜びに比較することは大切です。彼女は自分に出来る最大の方法でそれを表現したのです。この様子を見たファリサイ派のシモンは、罪深い女に気づかないイエスは神の言葉を預かり語る預言者では有り得ないと心の中で非難します。 シモンの心の内を見られたイエス様です。「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンの答え。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います。」 
もう少し先をお読みしましょう。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。 44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。 45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。 46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。 47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」胸に痛みを覚える主の言葉です。ファリサイ派のシモンは何もしませんでした。彼は「最近話題になっているイエスと言う男を招いて話をしてもらおう。力強く神の国を説いたり奇跡を起こしたりしているそうだ。呼んで話をさせれば宴会の客も喜ぶだろう。」この様に考えたのでしょう。誠実さの伴わない態度を主は指摘されたのです。 イエス様に喜んでいただくことは私にとってなかなか難しいことです。私の心を次の思いがよぎります。「彼女は実際にイエス様に出会ったから愛することができたのだ! 感謝と喜びをささげることが出来たのだ。」本当でしょうか?
最初に読んでいただいた詩編32編はイエス様の誕生される1000年も前に、「罪」を赦していただいたダビデ王が いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。 と歌った詩です。 私達が陥りやすい誤りがあります。それは私達が神様が共にいて下さることを喜ぶのではなく、神様が私達を喜ばせて下さることをひたすら願い求めることです。神様こうしてください、私の願ったことをかなえて下さい。楽にしてください、もっとお金をください・・・・。限りがありません。これでは、「私が主です。神様、わたしに仕えなさい。」こう言っていることになります。 もちろん何を祈り求めても構いません。祈りの自主規制は必要ありません。
しかし、大切なのは示された神様の答えに対して従順になることです。願った通りにかなえられないとすれば、それはわたしたちを愛するが故の祈りへの答です。いつも神様が共にいて下さることを喜ぶのです。神様に裏切りは有りません。裏切るのは私達だけです。
では共にいて下さる神様を意識して過ごす。何が必要でしょうか。何が恵みでしょうか。礼拝に出席すること。大いなる恵みです。聖書とその解き明かしである説教を聞き、聖餐に与かること。祈祷会に出席して共に祈る。教会や社会に有って富や力や時間を献げる。神様は喜んで下さいます。しかし、様々な事情からそれらがかなわないこともあるでしょう。神様と共に過ごす時間は他にも有ります。クリスチャンに伝わる良い伝統が有ります。一人で落ち着いた時間を持ち聖書を開いて祈る。黙想の時とかディボーションと呼ばれます。聖書の語るみ言葉を聞いた後祈ります。「神様、今日私のなすべきことを教えて下さい。」「神様、明日私はこうしたいと思います。御心に適いますように。」そして静かに神様の応答を聞きます。きっと答えて下さるでしょう。まだディボーションの時を持っていない方、5月の月報からその導きを載せています。一日10分くらいから始めて下さい。本当に豊かな時が与えられます。
本日の物語に罪深い女と信仰熱心なファリサイ派のシモンが登場しました。シモンは自分の信仰に自信を持っていました。自分は良い人間であり、神様に従って生きている。神の赦しなんて必要無い。彼は主を愛することなく、隣人を愛することも有りませんでした。貧しい人やハンディを負った人を信仰が足りないからだと裁きました。 一方罪深い女です。彼女はイエス様を愛しました。出来る限りのものをささげてその喜びを表しました。さて私は、そしてあなたはシモンでしょうか?罪深い女でしょうか?もし、私達が主によって生かされていることを喜べないとしたら、それは自己満足に陥っているからでしょう。自己満足は主にある喜びから私達を遠ざけます。なぜなら罪深さに目をつむる、見ない様にするからです。その時には神様からの罪の赦し、即ち主イエスの十字架での死は必要無いものとなります。
では私達は主が共にいて下さる喜びをどの様に表せばよいのでしょうか。私達が首に下げている雪花石の壺に入った香油、これは神様が与えて下さった、富であり、時間であり、力であり、才能でしょう。 あなたは与えられた香油をどのように注ぐのでしょうか? どうやって救われた喜びを表すのでしょうか? イエス様に香油を注ぐ。イエス様は喜んでくださいます。隣人に香油を注ぐ。主イエスは喜んで下さいます。マタイ福音書25章40節です。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 このように喜んでくださいます。ボランティアとして社会に役立つ仕事をする。素晴らしいことです、ズート続けてください。
しかし、私達の雪花石の壺に入っている香油は、富と時間と才能とパワーだけでは有りません。もう一つの素晴らしいものが入っています。それは信仰です。 罪深い女は信仰の故に罪が許され救われました。そして主は言われました。「安心して行きなさい。」この女の行くべきところ、帰るべきところ。それは現代に翻訳すれば教会です。私達の雪花石の壺に入れていただいた信仰。それは福音を信じる信仰です。これを注ぐのは隣人です。家族です。友人です。礼拝を終え聖霊に満たされて会堂を出る。これはみ言葉によって信仰を強められた私達が、福音を伝える伝道の地へ送り出されることを意味します。「安心して行きなさい。」 多く赦されたことを喜び、福音の香油を蒔くあなたを、主は強めて下さるのです。主はあなたと共にいてくださるのです。 祈りましょう。