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山形六日町教会

2022年6月5日

聖書:詩編139編1~7節 ガラテヤの信徒への手紙5章16~18節
「聖霊に導かれて」波多野保夫牧師

本日はペンテコステの礼拝を守っています。ペンテコステは50日目を意味しますので五旬節ともよばれ過ぎ越しの祭りの50日後に当たります。モーセに導かれてエジプトでの奴隷生活から脱出した際の出来事後を、神様に選ばれた民族誕生の原点がここにあるとして、過ぎ越しの祭りを大切な記念日として来たイスラエルです。主イエスが十字架上で亡くなられたのも過越し祭の時でした。それから50日後は、ちょうど小麦の収穫の時期に当たります。旧約聖書レビ記にはペンテコステの日に、新しく収穫されたものを献げ、さらに あなたたちはこの日に集会を開きなさい。これはあなたたちの聖なる集会である。いかなる仕事もしてはならない。これはあなたたちがどこに住もうとも、代々にわたって守るべき不変の定めである。(レビ記23:21)このようにあります。過越しの祭りの日に祖先に与えられた神様の大いなる愛を思い起しました。それから50日の間、忙しくも喜びに満ちた収穫の日々の労働に励みました。
そして、ペンテコステの日には仕事を離れて、豊かに与えられた収穫を感謝して、神様に心を向たのです。過越しの祭りとペンテコステは仮庵の祭りと共に、ユダヤ教の三大祭りと呼ばれます。安息日に加えて、イスラエルの人たちが心を神様に向ける生活のリズムだったのです。
私たちは週ごとの礼拝に加えてクリスマス、イースター、ペンテコステなど歴史のなかで示してくださった、素晴らしい愛の業を覚えて、神様に心を向けます。日本人の男性なら生涯に平均して82回ほどのクリスマスやイースター、ペンテコステの日を迎えるのですが、私は欲張りですから喜びの日が沢山あると良いと思います。聖書は告げます。あなたの若い日に、あなたの造つくり主を覚えよ。(伝道の書 12:1)もちろん年を取ってから洗礼に至るのも素敵なことです。
話を戻しましょう。ペンテコステの日は主イエスよりもズット前の時代から、心を神様に向ける日、心が神様に向かう日だったのです。 その日の朝の出来事を使徒言行録2章1節以下は伝えています。2:1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。 騒ぎを聞いた人たちは、何が起きたのかとビックリして、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」この様に言い合ったのです。
主が約束された聖霊がドドドーンと大音響をともなって、彼らに降った瞬間です。様々な言葉で語られたことから、福音がイスラエルの人だけでなく、全世界の人々に向けられていることが分かります。しかし、多くの国から来た人たちは、語られる言葉は理解できたものの、その意味はチンプンカンプンでした。そこでペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。」と言って主の福音の真理を語り始めました。14節以下には、「ペトロの説教」と 小見出しが付けられています。人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。39 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。
2章46節47節です。 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。この時の礼拝の場所は神殿でしたが、福音が証しされ、洗礼と聖餐が執行され、人々が主にあって互いに愛し合い、献げ、祈り、賛美があふれていました。「ペンテコステの日に聖霊が降って教会が誕生した。」と言われる所以です。
私たちは地球の反対側にある山形六日町教会にこのように集い、日本語で聖書を読み、その解き明かしである説教を聞き、祈り賛美し献げ、聖餐に与るのです。互いに愛し合い仕え合うのです。そして主の福音を証しして告げ知らせます。教会は2000年間、主の御命令に従って来ました。正確に言えば、従おうとしてきました。
44節45節に 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。とあり、これは原始共産制と呼ばれますが、社会が複雑化した現在でも修道院などに見ることが出来ます。世俗の中に生活する私たちも、困っている人、必要としている人を様々に助けることを忘れてはいけません。 聖書が告げる教会が誕生したときの出来事を見て来ました。ペトロが、使徒たちが、力強く主の福音を宣べ伝えたのです。この出来事を覚えた上で、50日ほど時計の針を戻して見ましょう。
主がユダヤの宗教指導者たちによって逮捕された際、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。とマルコ福音書は告げます。(14:50) さらに、ペトロは大祭司の庭で鶏が鳴く前に三度「そんな人は知らない」と誓って言いました。(マタイ26:69-75) そんな弟子たちは主の十字架と復活の出来事のあと、出身地ガリラヤ湖で漁師の生活に戻っていました。 イスラエルの救い主だと信じて従ってきた自分たちのリーダーが、逆怨みを受けて殺されてしまったのです。エルサレムから遠く離れたガリラヤは、彼らにとって安心して生活できる場所でした。
そんなある日、彼らは復活された主にお会いしたのです。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。(ヨハネ21:15)そして同じことがさらに二度繰り返されました。これは、ペトロの信仰を疑ってのことではありません。三度「知らない」と言って主を裏切ってしまったペトロに、「主よ、私はあなたを愛しています。」と三度答えることで、負い目を拭い去るチャンスを与えてくださったのです。そして、人々に神の国を伝えて悔い改めて神様に立ち返るように求める福音宣教の働きを、弟子たちに委ねられたのです。「大宣教命令」と呼ばれます。(マタイ28:19,20)彼らはエルサレムに戻りました。主はその後も何度も使徒たちに現れて神の国について話されたのですが、食事を共にされた時におっしゃいました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1:4,5)そして、復活されてから40日目に弟子たちが見ている前で、父なる神様の御許へと帰られたのです。
さて、主が昇天されてから聖霊が降るまでが10日間だったことを私たちは知っていますが、12人の使徒を始めとした120人ほどの弟子たちに、それは隠されていました。イエス様は、「聖霊が与えられるから待っている様に」とだけ告げられました。彼らはどんな思いでその日を待っていたのでしょうか? 聖書はそれを語りませんが、裏切り者のユダの死は広く知れ渡っていました。特別に訓練されたクリスチャンの自死です。(マタイ27:5)決して良い証しにはなりません。「イエスは、神の子だなんて偉そうなことを言っていたけど、ローマの十字架刑で殺された。弟子たちは生き返ったって言ってるそうだな。でも、3年間も特別に教えたユダってやつがあの有様じゃな。一時はイエスが救い主だと思った俺たちもお人好しだな。」人の口に戸は立てられないと言います。私たちは主イエスを悲しませないようにしたいと思います。
そんな中、弟子たちを3つのグループに分けることが出来ます。ペトロに代表される主の言葉に強い信頼を置いて過ごした者たち。ペトロは主を裏切ってしまった負い目が、ガリラヤで復活の主にお会いした際に拭われ、熱い心を取り戻していました。ペンテコステの日に聖霊が降るとすぐに、主の福音を語り始めました。先ほど2章14節以下にあります「ペトロの説教」を読みました。
次に、主の復活と聖霊が与えられることに疑いをもっている者たちです。復活されたイースターの日に墓から帰った婦人たちは、主の復活を使徒たちに伝えたのですが、彼らは信じませんでした。(ルカ24:10,11)マグダラのマリアが「主にお会いした」(マルコ16:11)と言っても、田舎の方に歩いて行った二人の弟子の証言も信じませんでした。(マルコ16:13)トマスは「自分の手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」このように言い張ったのです。(ヨハネ20:25)復活の主は、エルサレムで、さらにガリラヤでそんな弟子たちに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)との思いから何度も現れてくださったのです。しかし、彼らは120人の集団(使徒言行録1章15節)です。疑う者がいても、あるいは行きがかりで集団に加わっている人、無関心な人がいたとしても不思議ではありません。「波多野先生、チット待ってください。何でそんな後ろ向きのことを言うんですか?」 そうですね、聖書がハッキリとは語っていない後ろ向きなことを言ってますね。理由があります。実は、主が「聖霊が降るのを待ちなさい」とおっしゃったことと、「目を覚まして、私が再び来る終末の時を待ちなさい」(マタイ24,25章)この両者が待つことにおいて同じだからです。
ペンテコステを待つ弟子たちと、終末を待つ私たちです。私たちも彼らも、天地創造の神様の愛を知っています。主イエスの十字架と復活の出来事を弟子たちは直接に、あるいは婦人や使徒や弟子の証言によって知っていました。私たちは聖書の証言によって知っています。しかし、私たちに不利なことがあります。弟子たちは最大10日でしたが、私たちは2000年間待っています。弟子たちに不利なことは、次は自分たちが逮捕されるかも知れない恐怖と隣り合わせだったことです。私たちを含めた、現代に生きる者の状況から、約束された聖霊が与えられる日、ペンテコステの日を待つ弟子たちを推し量ったのです。
ペトロのように罪を赦された喜びを胸に、約束の日を希望を持って待ち望む者たち。私たちであり、諸先輩方です。無関心な者たち、私たちが普段接するほとんどの人がそうではないでしょうか。日々の生活を一生懸命に生きる中で主の福音に接する機会の無い方が大勢います。山形六日町教会に主から委ねられている大きな課題です。
そして疑いを持つ者です。主の愛、主の福音、主の復活、神の独り子の行われた奇跡、祈りの力、様々な疑いがあります。残念ながらこれらは私にとっても無縁ではありません。皆さんはいかがでしょうか? 
どんな時にも神様の愛を信じて日々を歩みたいと思うのですが、悪魔の誘惑は巧みです。悪魔はエバに尋ねました。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(創世記3:1) 
悪魔は主イエスを試みました。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」(ルカ4:6) 主イエスだけは悪魔に勝利できたのですが、神様を疑う気持ちを起こさせることにかけて悪魔は天才的です。私たちにとって終末は希望ですが、悪魔にとってそれは最悪の日です。その時まで、仲間を増やそうとするのでしょうか、一生懸命主を疑うようにさせます。
エバの例をあげましたがバプテスマのヨハネの場合です。彼はヨルダン川で主に洗礼を授けた後に、「イエスこそが救い主だ!」と証しし続けたのです。しかし、領主ヘロデの律法に反する結婚を非難したことで捕らえら牢に入れられました。2000年前の牢屋です。狭くて日も射し込まず、トイレもない不潔な環境で、ろくな食事も与えられずに長い間閉じ込められたのです。
いつしか「自分が人生を献げて来たイエスは、本当に神の独り子であり、救い主なのだろうか?」と疑いの心が生じても不思議はありません。ヨハネは弟子を送って質問させました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(マタイ11:3)
私たちはどうなんでしょうか? 主の十字架と復活を知り、再臨の約束を知っています。私たちは主に愛されていることを何度も感じて来たのではないでしょうか? それでも主を疑うことがあるのではないでしょうか? しかし、主は弟子たちに向かって、「疑いを持ったヨハネより偉大な者は現れなかった」と言って称賛したのです。一時の間違いは問題とされないのです。
いつも申し上げています。「教会は罪と無縁の聖人たちが集う場所ではありません。そうではなくて罪びとたちが癒しを受ける病院なのです。」最良の治療は共にいてくださる方、主イエスキリストの愛が、この様に一番強く感じられる礼拝の時です。信仰の友といっしょに、み言葉に聴き、祈り、賛美し、献げる大いなる喜びの時です。その教会の誕生日、ペンテコステの日に聖霊を受けた教会には、聖霊が宿って下さるのです。私たちは、やがてやって来る約束の時、終末の時に向かって、主に託された務めをしっかりと行って行く必要があります。
細矢長老に、ガラテヤの信徒への手紙5章16節から18節を読んでいただきました。パウロはこの5章で律法について語っています。14節 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
「波多野先生、先生はいつもたくさんある律法の中心は「神様と自分と隣人を愛すること」だって言ってますけど、パウロとちょっと違うんじゃないですか?」 良い質問ですね。私はいつもイエス様の受け売りをしています。自分は律法のことを全て知っていると言ってはばからない専門家が主を試みようとして「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と質問しました。イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:35-40)
パウロにとって主を愛することは大前提です。私たちにとっても主を愛することは大前提です。主イエス・キリストの愛は世の終わりに至るまで変わりません。「私たちが生きるときはもちろん、死ぬときも、そして死んだ後も」です。主を愛することは幸せな人生を歩む上での大前提です。
では、主を愛するとは具体的にはどんなことなのでしょうか? 様々なことに現れますが、礼拝と共に守る、礼拝の為に祈る。主は喜んでくださいます。そしてパウロが言うように「隣人を自分のように愛すること」で完結するのです。自分と隣人を愛するだけで神様を愛さない。神様を愛してはいるんだけど、自分や隣人はどうでも良い。ありえません。
ガラテヤの信徒への手紙5章16節から18節をもう一度お読みしますので聞いてください。5:16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。 聖霊が宿ってくださる教会は、そして聖霊が宿ってくださる私たちは、律法の縄目の下にはいません。主の大いなる愛が私たちを支配してくださるからです。今週も終末の時へ向けて主イエス・キリストが導いてくださる恵みに満ちた喜びの歩みを始めて行きましょう。祈ります。