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山形六日町教会

2022年5月29日

聖書:詩編90編1~6節 ヨハネの黙示録1章4~8節
「アルファでありオメガである」波多野保夫牧師

説教シリーズ「わたしはすぐに来る」の二回目です。ヨハネの黙示録からみ言葉を聞いて行きたいと思います。週報の表紙に記されています様に、4月27日の教会総会で、主題聖句をヨハネの黙示録1章4節5節から『今おられ、かつておられ、やがて来られる方、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。』この様に決め2022年度の歩みを始めました。
主イエスの死後、母マリアを引き取ったヨハネは、教会が迫害を受けていた時代に、地中海に浮かぶパトモス島に幽閉されたのですが、その際に与えられた神の言葉とイエス・キリストの証しを書き留めました。彼は、視点を人類の歴史が最終的に行きつくところ、即ち終末において、そこから現在を見つめることで、危機の中にある教会に慰めと警告を送ったのです。しかし、迫害する者たちが大手を振ってのし歩いている時代ですから、終末における彼らの行く末と、教会に注がれるキリストの愛は、竜や獣や大淫婦、あるいは子羊や白い馬に乗った方など、象徴的な表現で語られています。さらにヨハネは、神様の絶対的な権威が描かれている旧約聖書を下敷きにして語っているので、現代の私たちには理解しにくい書物なのです。

本日与えられた1章4節から8節にある言葉の意味をとらえることから始めましょう。4節。 ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。アジア州は今のトルコに当たる地方です。七つの教会とは11節に「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」とありますから直接にはこれらの教会を指しますが、ユダヤでは7という数字は、天地創造が7日の出来事だったように、完全数と呼ばれ「全て」と言う意味を持っています。すべてのアジア州の教会だけでなく、山形六日町教会を含めた歴史上のすべての教会と読むことが適切です。
玉座の前におられる七つの霊は使徒信条が言うように、現在、神の右に座っていらっしゃる主と共にある聖霊です。「七つの教会」すなわちすべての教会に働いてくださいます。
証人とは、神様のお考え、即ち私たちを深く愛してくださっていることを余すところなく証ししてくださる主イエスです。変わることの無い愛を注いでくださる誠実な方は、最初に復活された方であり、地上の王の王、私たちが真心を持って従い、仕えるべき方です。
6節。わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。私たちは、真の王主イエス・キリストの血筋のものです。聖餐式で分かち合う杯がハッキリとそれを示してくれます。私たちは真の王の世継ぎなのです。主イエス以前の時代には、祭司だけが神殿で神様に近づくことが出来たのですが、私たちは主に従うことで、神様に近づくことが許されている祭司なのです。
7節。見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、 ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。 十字架を前にした最高法院での裁判の際、大祭司が「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋ねた際、主は答えられました。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、 天の雲に囲まれて来るのを見る。」(マルコ4:61,62) 彼を突き刺した者どもとは主を十字架に架けたローマ帝国でありユダヤの宗教指導者です。ピラトに向かって「イエスを十字架に架けろ」と叫んだ民衆もそうでしょう。さらに、主の十字架の死が私たちの罪の故であることを思えば、私たちも主を突き刺しているのです。主が来られる時に私たちの罪は明らかにされます。罪を犯すこと、即ち「神様と自分と隣人への愛」が欠けていることは、主を十字架に架けてしまったことなのです。自分の「罪深さ」に気づくほどに、主の愛の深さを知るのです。
然りと翻訳されているギリシャ語ναι(ナイ)とヘブライ語アーメンはどちらも、「その通りです」とか「その様になります様に」と言う意味です。ですから、ギリシャ語でもヘブル語でも、あるいは日本語でも、「主よ、雲に乗って来てください」との願いは、アーメン なのです。4節から7節までを解釈してきました。確かに分かりにくいと思います。
現在、私たちの周りには、少なくとも表面的には当時の様な差し迫った迫害は無いように思われます。しかし、この世界にも、また一人一人にも「神様何でですか? 何で今ですか? 何で私ですか?」このように問わざるを得ないことはありますし、これからもあるでしょう。ヨハネの黙示録は私たちにそんな苦しみの中にあっても希望を持つことが出来るのだと告げるのです。なぜならば、最終的な勝利は既に決まっているからです。
1章8節を丁寧に読んでいきましょう。 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」 ヨハネは私たちの三位一体の神様は時間を越えた方だと言いますが、私たちが住んでいるこの世界では時間は直線的に流れています。今10時28分でしょうか、1分後には確実に29分になります。タイムマシーンはSFの世界のものです。
私たちは時間に縛られて生きています。赤とんぼが飛び始めて夕方が早くなってきた。夏休みがもうじき終わっちゃうのに宿題に手を付けていない。自由研究で何をすればいいんだろう?
あるいは、明日から試験だ、困った! 説教がまだまとまらない、まずい! 時間に縛られている私には、この様にして決して戻ることの無い年月を重ねている現実があります。モーセが名前を尋ねた際に「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)とおっしゃった神様です。同じことをイエス様もおっしゃいました。ヨハネ福音書8章です。ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(ヨハネ8:57,58)時間を超越し時間に捕らわれることのない神様は『わたしはある』とおっしゃいます。そのことに気づいたモーセは祈りました。先ほど読んでいただいた詩編90編です。山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神。千年といえども御目には 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。神様は時を超えた方なのです。
ペトロも同じ思いを持ちました。愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。(ペトロⅡ3:8)残念なことに、日々あくせくしている私はまだこの様な実感はないのですが、神様の大いなる愛に包まれていることを強く感じる時に、人は時間に縛られていることから解放されるのではないでしょうか。
ヨハネの黙示録1章8節で、神さまは、今おられ、かつておられ、やがて来られる、全能者 だと言います。なぜ「今おられ」が最初に来ているのかを考えてみましょう。4節に わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方 とあります。かつてご自分の血によって人間を罪から解放してくださった主イエス・キリストが、今も私たちを愛してくださっている。ヨハネは、まずこのことをハッキリさせたいのです。少し細かくなりますが聖書原典にある「私たちを愛し」と言うギリシャ語は現在形で書かれています。主の愛は2000年前に終わってしまった愛では無いのです。主は今おられ、今あなたを、今私を愛してくださるのです。この事実こそが全ての出発点です。
次に、神様は「かつておられ」た方ですが、それが今の私たちとどんな関係があるのでしょうか? もちろん過去において大きな愛を受けました。だからこそ、今ここでこうして共に集い礼拝を守ることが出来ているのです。しかし、皆さんは絶対に赦せない、あるいは絶対に赦してもらえない。こんな経験をお持ちではないでしょうか? 思い出しただけで顔が赤くなってしまう、怒りであったり、恥ずかしさもあるでしょう。
かつて私の母教会の礼拝に、引退された牧師さんが出席されるようになりました。良い交わりを持たせていただいてしばらくたったころ、無牧の教会に招かれて赴任なさることになりました。お別れの時に、「新しい任地で頑張ってください。」と言う意味で、正確には覚えていないのですが「戻ってこられないと良いですね。」といった趣旨のことを言ってしまいました。後でその言葉を消しゴムで消したいと思いましたが、私に過去を変えることは出来ません。それから暫らくしてたまたま奥様と電話で話す機会がありました。要件が済んだあと、良い機会だと思ってそのことをお詫びしました。奥様は「そんなことがあったのですか。大丈夫ですよ。私たちは一緒に礼拝を守った者同士じゃないですか。主人はそんなこと気にしませんよ。」この様に言われたのです。かつておられた神様は、現在から過去の過ちを癒してくださいます。それだけではありません。時間がかかったとしても、過去の怒りを鎮めてくださいます。
友人の牧師が次の様に語っていました。英語では主が十字架に架けられた金曜日の事を “Good Friday”と言います。直訳すれば「良い金曜日」です。その日、主はまやかしの裁判で死刑を宣告され、鞭うたれ皮膚は剥けてしまいました。茨の冠をかぶせられ唾を吐きかけられて侮辱されました。重い十字架を背負いゴルゴダの丘まで歩かされ、十字架につけられました。そして「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んで亡くなられました。この時弟子たちは皆逃げ去ってしまいました。思い出したくもない日のはずです。なんでこんな日が「良い金曜日」なのでしょうか? その理由は3日後の日曜日に主が復活なさったからです。神様の愛は復活の日曜日から3日前の金曜日へと逆流して、恥じらいと、罪と、死に征服された金曜日、悪魔が高らかに勝利宣言した金曜日を、キリストの勝利の日に完全に変えてしまったのです。後に残ったのはキリストに従う者に与えられる「罪の赦し」と「永遠の命の約束」だけです。だからこそ”Good Friday”なのです。時間を超越される神様の愛は、私たちの過去にまで及ぶのです。
神様は「やがて来られる方」です。私たちにとってどんな意味があるのでしょうか? イザヤ書46章10節です。わたしは初めから既に、先のことを告げ まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り わたしは望むことをすべて実行する。神様は全てをご存知の方です。全ての全てです。「わたしはアルファであり、オメガである。」とおっしゃいます。アルファはギリシャ語の最初の文字でオメガは最後ですから、神様は全てをご存知の上で私たちを導かれます。 だとしたら、私たちは自分の人生に於ける歩みを神様の望まれる方向に向けるべきではいでしょうか。全てをご存知の方が変わることなく私たちを愛し導いてくださっているのです。
「親の愛は海より深く山より高い」と言われますが、残念なことに最近の報道では、必ずしもそう言い切れない事件が起きています。それは例外だとしても「親の愛には」限りがあります。少なくとも時間的には限りがあります。さらに、親の愛はややもすると溺愛になります。数週間前にご一緒に開いた聖書箇所では、ヤコブとヨハネの母イゼベルがイエス様の所に行って願いました。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエス様がローマ帝国をやっつけてイスラエルの王になるのだと、彼女は大変な勘違いをしていたわけです。 「獅子は子を谷に落として鍛える」と言われます。
聖書を何か所かお読みしますので、辛かった時のことを思い出しながら聞いてください。 ヘブライ人への手紙12章5節6節。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、 力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、 子として受け入れる者を皆、 鞭打たれるからである。」
ペトロの手紙Ⅰ1章5節~7節 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
ヤコブの手紙1章2節から4節。わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。
全て大きな苦しみにあった教会とそこに集う者たちに宛てて書かれた手紙です。私たちにも様々な試練、辛いこと、悲しいことが起こります。あるいは頭に来ることもあるでしょう。そんな私たちにパウロは言います。コリントの信徒への手紙Ⅰ10章13節。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。いかがでしょうか? 「波多野先生。確かに今までの自分を考えると、何とかやってこれたし、神様の愛を感じます。だけど、苦しさに耐えられなかったり、生きる意味が見出せなくて自死に至っちゃう人もいます。なぜ、神様は助けてくださらないのですか?」確かにそうですね。神様は全てをご存じなんだからチョット助けてくだされば良いのにと思います。私にはその理由はわかりません。しかし、こんな事実があります。六日町教会には、命を大切にして自死を防ぐために活躍している「山形いのちの電話」を、その設立当初から支えて来た歴史があります。神様がその働きを良しとしてくださり、私たちに委ねていらっしゃることは確かです。
先週の礼拝で与えられたマルコ福音書13章34節35節です。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
私たちは、希望の時、終末の時が何時なのか知りません。しかし、確実にやって来るその時まで、しっかり目を覚まして、神様から私たちに委ねられていることを果たして行きましょう。なぜならば、「わたしは、アルファでありオメガである」この様におっしゃる方が与えてくださる人生、最高の人生が、そこにあるからです。祈りましょう。