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山形六日町教会

2022年5月22日

聖書:エゼキエル書7章1~4節 マルコによる福音書13章32~37節
「目を覚ましていなさい」波多野保夫牧師

説教シリーズ「たとえて言えば」の17回目です。現在、マルコによる福音書から主イエス・キリストがたとえを用いて語られたみ言葉を聞いています。先ほど読んでいただいた13章34節で、主はたとえを用いて「終末」について語られました。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。 とあります。
さて、このマルコ福音書ですが、11章の最初にエルサレム入城の様子が語られ、11章15節以下は、神殿から商人たちを追い出された、いわゆる「宮清め」の出来事が記されています。十字架に架かられる5日程前の出来事です。
11章27節から12章にはイスラエルの宗教・政治の実権を握っていた最高法院の議員たちとの問答があります。この問答を通して、彼らがなんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えるようになって行った一方、(マルコ14:1)私たちは、主が語られた福音の神髄を知ることが出来るのです。
十字架の死を前に限られた時間の中で語られたこの13章全体は「小黙示録」と呼ばれ、終末の要点であり、私たちの備えるべきことを簡潔に告げます。
13章1節2節。イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」エルサレム神殿の歴史をたどってみましょう。ダビデ王はそれまで神様が宿られるところとされていた幕屋、移動出来る大きなテントですが、この幕屋に代わって神殿を献げようとしたのですが、神様は許されませんでした。
紀元前960年頃に息子のソロモン王によって建てられた壮大なエルサレム神殿は紀元前587年にバビロニアによって完全に破壊されてしまい、この時ユダ王国は滅びました。半世紀以上に渡ったバビロン捕囚から、ペルシャによって解放された人々は、紀元前515年に第二神殿を献げることが出来たのですが、国が滅びた後に再建した神殿ですから大変質素なものでした。
500年後の紀元前20年頃になって、その質素な第二神殿の大改修工事を始めたのが、誕生したばかりの主イエスの命を奪おうとした、あのヘロデ大王です。ユダヤ人の歓心を買うためだったと言われています。工事は主の十字架と復活の出来事から30年以上が経った西暦64年までかかったのですが、この時未完成にもかかわらず弟子の一人がその壮麗さに、なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。と言ったのです。
しかし、壮麗な神殿は主の言葉の通りに西暦70年、「ユダヤ戦争」と呼ばれるローマ帝国からの独立戦争に敗れた際に、火をかけられ完全に破壊されてしまいました。それ以降神殿が再建されることは無く、残った壁の一部だけが「嘆きの壁」と呼ばれ、現在に至るまでユダヤ教徒の巡礼が止みません。
私たちはエルサレム神殿がなくなってしまったことを嘆く必要はありません。かつて預言者エレミヤは 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。(エレミヤ7:4) と告げ、列王記下には、 主は言われた。「わたしはイスラエルを退けたようにユダもわたしの前から退け、わたしが選んだこの都エルサレムも、わたしの名を置くと言ったこの神殿もわたしは忌み嫌う。」(列王記下23:27)この様にあります。私たちキリストに従う者にとってエルサレム神殿は必要ありません。なぜでしょうか? 
パウロは告げます。 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。(Ⅰコリント6:19,20)私は自分のこの体が聖霊の宿ってくださる神殿だと聞くとビクっとしてしまいます。しかし、しばらくしてジワーと感謝の思いが湧いてきます。私に聖霊が宿ってくださるのです。皆さんはいかがでしょうか?
聖書を読んでいきましょう。マルコ福音書13章3節4節。 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」 
4人の弟子は終末がいつなのか、どんな前兆現象があるのかを尋ねました。5節以降に主の答えがありますが、聖書神学者は、この13章には西暦70年、エルサレム神殿が破壊された「ユダヤ戦争」の時までに起きたことと、主が再び来てくださる「終末」の時に起こることの双方が入り混じっていると言います。実際、5節から23節までは、「ユダヤ戦争」の時までに実際に起こったことと良く一致しています。
ヨセフスと言うローマの歴史家は「ユダヤ戦記」と言う書物の中で次の様に述べています。ローマ軍がエルサレムを包囲する以前にユダヤは3つの派に分裂して内部で争い、略奪行為もあり多くの犠牲者がすでに出ていました。民衆は早くローマ軍が来て治めて欲しいとすら願ったそうです。やがて到着したローマ軍はエルサレムを完全に包囲したので、食料の供給は完全に断たれ、飢えは極限に達して、肉親の間でさえ食べ物を奪い合ったとあります。14節には 山に逃げなさい とありますが、都に留まった人の多くは飢え死にし、その遺体は谷を埋め尽くしたと悲惨な情景が書かれています。
人類の歴史をたどれば、残念なことですが「戦いの無かった時代は無かった」と言うことが出来ます。自分が救い主、あるいは預言者だと公言する・しないは別にして、自分こそが正義であり自分こそが人々を幸せにすると言う者はそれこそ数えきれないほど現れました。
いつの時代にあっても平和が破られた時に、苦しみを味わうのは前線に送られた兵士であり一般の市民なのです。
最近本土復帰50周年式典に関連して、太平洋戦争下での沖縄戦の様子が報道されましたが、平和が破られた時に、苦しみを味わうのは、兵士であり一般の市民なのだと思わされました。
二つのことに注意したいと思います。一つは、自分は救い主だと言ってはばからない偽メシアや、自分の思いを神様の言葉だと言ってはばからない偽預言者が現れて、偽の福音を語りました。いわゆる異端ですが、おおきな危険性を持っています。異端は人の思いですから、ある面で分かり易く一般受けします。その一方で異端と決めつけるのには慎重さを必要とします。初代教会自体がユダヤ教からすれば異端でした。「教会では人食いの儀式を行っている」と非難されたそうです。私たちが大切にしている聖餐式です。
現代においても、私たちの周囲において決して無縁ではない異端、どうやって見分けるのでしょうか。山形六日町教会はその基準を、日本基督教団信仰告白と日本基督教団の定める教憲・教規に置いています。いずれも日本基督教団の教会会議が聖霊の導きを祈り定めたもので、聖書が持つ権威のもとにあります。
これはいつも申し上げているのですが、もし牧師が三位一体の神を否定する説教をしたのならば、長老会は牧師を辞めさせなければなりません。教理の養護は長老会の大切な役目です。人の思いが教会を支配するのであれば、悪魔の思うつぼです。教会の主はイエス・キリストお一人であることを常に覚えたいと思います。
二つ目は、「いつの時代にあっても平和が破られた時に、苦しみを味わうのは兵士や一般の市民なのです。」と申しました。それでは平和の為に私たちは何をするのでしょうか? 「平和の為に祈る。」これがすべての出発点です。選挙において平和に貢献する政党であり議員を選ぶ、大切なことです。
経済的な格差がテロの温床だと言われます。貧しい国の子供たちに目を向ける。これは身近な子供たちの貧困問題に目を向けることと矛盾しません。もちろん究極的な願いは、イエス様が再び来てくださることです。
聖餐式が回復できることを願っていますが、讃美歌81番「主の食卓を囲み」では「マラナ・タ。主よ、来てください。」(Ⅰコリント16:22)と繰り返します。聖餐式は私たちの体にパンとぶどう酒がしみわたり、心に十字架の愛を思い起させる大切な時です。詩篇40篇18節です。 主よ、わたしは貧しく身を屈めています。わたしのためにお計らいください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ、速やかに来てください。黙示録22章20節21節。新約聖書の最後です。 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。
最終的な問題の解決は、神様の右にいらっしゃる主イエス・キリストが再び私たちの所に来て裁きを行い、世の悪を滅ぼしてくださることです。ですから、「マラナ・タ」と祈る一方で、その時に至るまで私たちがなすべきことが与えられているのです。
「波多野先生、チョット待ってください。黙示録が「然り、わたしはすぐに来る。」と言うイエス様の言葉で終わっているのは素晴らしいことです。だけど旧約聖書の詩編にわたしの神よ、速やかに来てください。とあって、その後でイエス様が来られたんだけど、まだ「早く来てください。」て言い続けなきゃいけないってことは、イエス様の働きが不完全たったことになるんじゃないですか?」
「十字架と復活が不完全だった」とは、なかなか鋭い質問ですね。いいでしょう。「主の十字架と復活の出来事は完璧でした。」 だけど、私たちには不完全さが残る様に感じられる。大切な指摘です。
旧約聖書イザヤ書は救い主、イエス・キリストの誕生を預言していますが、59章1節2節です。主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が 神とお前たちとの間を隔て お前たちの罪が神の御顔を隠させ お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。 神様の救いのみ業に不足があるのではないのです。主イエス・キリストの十字架における死は、私たちの罪を負ってくださることにおいて完璧でした。どの様に完璧かと言うと、神様は聖なる方ですから罪をいい加減になさいません。罪びとは必ずその責任を負わなければなりません。
「判決主文。罪びと波多野保夫を死刑に処す。」肉体の死であり、魂の死、これは神様との断絶を意味します。神様が光輝く太陽だとすれば、全く光の届かない深い深い海の底に捨て去られることです。絶対的な暗闇と沈黙と孤独の世界に置かれる。愛の神様との断絶です。しかし、しかしです。主イエス・キリストの十字架と復活は、主に従う者を罪のない者と見なしてくださると同時に、「永遠の命」を与えてくださることを明らかにしています。「永遠の命」とは、永遠に神様の愛の中においてくださると言うことです。
主イエス・キリストがクリスマスに来られ、十字架に架って下さり、イースターの日に復活されたことは完璧です。「波多野先生、じゃあどうして私たちの世界に悪魔がのさばっているんですか。戦争が繰り返されるんですか?」
二つのことが指摘できます。先ほど読んでいただいた13章32節から35節です。「目を覚ましていなさい。」と小見出しが付けられています。13章4節にありました、「終末はいつですか?」という4人の弟子の質問への回答が32節です。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」だから「目を覚ましていなさい。」とおっしゃるのです。
では、この弟子たちはその後どうしたのでしょうか? 週報にペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われてゲッセマネの園で祈られた時の様子を記しました。34節35節。彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈られました。十字架を前にして、罪を犯した事の無い自分が罪を負う理不尽さであり、後を託す弟子たちの不甲斐なさのために時間が欲しい。様々な思いが交錯する苦しみに満ちた祈りです。
37節以下です。それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。」主イエスが苦しみに満ちて祈られる一方で、気持ちよさそうに舟を漕ぐ弟子たち。彼らはどんな夢を見ていたのでしょうか? 
しかし、このだらしない弟子たちは、変わりました。主イエス・キリストの十字架と復活の出来ごとを目の当りにして目を覚まし、聖霊を受けて誕生した教会のリーダーとして活躍しました。目を覚ました彼らは、天に帰られる際の主のご命令に従ったのです。
あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:19,20)「大宣教命令」と呼ばれます。
私たちは十字架と復活の出来事、教会の誕生と働きを全て知っていますが、終末はまだ来ていません。それが何時なのかを知りません。その私たちに主はおっしゃいます。「目を覚ましていなさい。」目を覚まして主が再び来てくださる約束の時、終末を希望を持って待ち望むのです。
次に「終末の遅れ」の問題です。ペトロの手紙Ⅱ 3章9節。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。多くの人が救われる為に待ってくださっている、これは「大宣教命令」とピッタリ合う神様のご計画です。
それでは、私たちはどうするのでしょうか? 何もしないでぼんやりしていると、すぐに眠くなってしまいます。目を覚ましてシッカリ備えをする。愛の業に励むことは大切です。主が喜んで下さいます。しかし、良い行いを積み重ねなさいと言うのではありません。信仰を深めるのです。
まず第一に礼拝を大切にすることです。礼拝は共にいてくださる主イエスを一番感じられる恵みの時・喜びの時です。そして、礼拝から送り出され私たちは、いただいた恵みと喜びを隣人と分かち合うのです。
パウロは言います。ローマの信徒への手紙10章13節以下です。13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。私たち一人一人が主の福音を宣べ伝えるのです。13章34節によれば、これこそが主が再び来てくださる終末の時に至るまで、私たちに主が割り当てて責任を持たせられた仕事なのです。 目を覚まして、恵みにお答えする一週間の歩みを始めましょう。祈ります。