HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2022年5月15日

山形六日町教会

2022年5月15日

聖書:詩編14編1~3節 ローマの信徒への手紙3章10~20節
「正しい者は一人もいない」波多野保夫牧師

説教シリーズ「あなたへの手紙」16回です。新約聖書は多くの手紙が含まれていますが、その多くは発展途上にあった各地の初代教会に、福音の神髄を語り伝えたり、教会に起こった様々な問題を信仰的に解決するために書かれたものです。ですから宛先は2000年前の教会であり、クリスチャンなのですが、同時に現代に生きる私たちに対しても宛てられてます。ペトロの手紙から始まったこの説教シリーズでは、現在「ローマの信徒への手紙」を読み進めていますが、この手紙は山形六日町教会への手紙なのです。
3章10節から12節。 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。 悟る者もなく、 神を探し求める者もいない。 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。 次の様に書いてある とパウロは旧約聖書の言葉を引用して語ります。
この手紙は山形六日町教会宛だと申しました。パウロに言われて、皆さんはどの様に思うのでしょうか? 「波多野先生、これはチョット厳し過ぎるんじゃないですか? 確かに自分が正しいとか、善いことをいつも行っているのかって聞かれれば、そんなことは無いですけど、全く役に立たないって言われると、仕事も一生懸命してますし、家族の世話もしています。教会の奉仕も少しはやっています。大体神様を探し求めるからこそ、こうして日曜日に早起きして教会に来てるんじゃないですか!」もっともな意見です。
それでは反対に「私なんかそんな立派な人間じゃありません。」と謙遜して言った時に、「そんなことないですよ。」ではなくて「そうですね。あなたのおっしゃる通りです。」なんて言われたらどうでしょうか?この辺のことは少し置いて、まずパウロが19節20節で語っています「律法」に注目したいと思います。
旧約聖書の最初にあります『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』そして『申命記』はモーセ5書と呼ばれ、多くの戒めが記されています。この戒め、あるいは5書全体は成文律法と呼ばれます。文字に書かれた律法と言う意味で、数えあげると613あるそうです。さらに、生活の折々にどの様にするのが正しいのかを、祭司やラビたちが聖書から読み解いて語った言葉を伝えた口伝律法があります。たくさんありすぎて訳が分からなくなってしまいますから、律法学者やファリサイ派など律法の専門家が自分たちに都合の良い解釈を押し付けて、人々を神様の愛から遠ざけることが起こっていました。「安息日は聖なる日だから仕事をしてはいけない。穴に落ちた人を助けることは仕事だ。だから安息日に人を助け出してはいけない。」主イエスはこの様な彼らの態度を激しく非難されました。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。(マタイ23:25)律法はこの様に捻じ曲げられてしまっていたのですが、そのもとになったのは神様がモーセに与えられた十戒です。十戒は「これをまもって幸せな生活を送る様に」と与えられたものですから、守るべき聖なるものです。

さて、私たち山形六日町教会は改革長老教会の伝統の中にあります。改革とは、主のみ言葉、聖書ですね、聖書のみ言葉によって絶えず改革される教会を意味します。長老教会は、教会員の選挙によって選ばれた長老と教師が長老会を構成し、長老会の権威の下で教会政治を行う教会です。この改革長老教会には、3要分と呼ばれます聖書に基づいた3つの文章を大切にする伝統があります。「主の祈り」、「使徒信条」そして「十戒」の3つです。現在礼拝の中で「十戒」を唱和することを行っていませんが、律法を軽んじているわけでありません。主イエスが、その全体をまとめてくださった言葉、「神と自分と隣人を愛しなさい」。この言葉が説教の中でしばしば語られています。
週報の裏面に十戒を記しました。今、ご一緒に唱和したいと思います。太字の部分をご一緒に、細字の部分は私がお読みします。
【 十戒(出エジプト記20:2-17)わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

⑴  あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
⑵ あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
⑶ あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
⑷ 安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
⑸ あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
⑹ 殺してはならない。
⑺ 姦淫してはならない。
⑻ 盗んではならない。
⑼ 隣人に関して偽証してはならない。
⑽ 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど 隣人のものを一切欲してはならない。】後ほど自分の姿を思いながら十戒を読み直していただきたいと思います。
第2戒 あなたはいかなる像も造ってはならない。これは、偶像礼拝禁止ですが、偶像とは神様でないもの全てです。神様でないもの、お金や成績や名誉などが私たちの心を支配するのであれば、それは偶像礼拝です。
第4戒 安息日を心に留め、これを聖別せよ。教会は主が復活された日曜日を安息日としていますが、日曜日はレジャーのための日ではありません。もちろんストレスの多い現代ですから休養は大切です。しかし、聖なる礼拝の日を忘れてはいけません。
さて、今ご一緒に唱和した十戒ですが、旧約聖書は、そしてそれを引用したパウロは、この十戒を基準として言います。 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。 悟る者もなく、 神を探し求める者もいない。 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
先ほど質問を残してきました。「波多野先生、これはチョット厳し過ぎるんじゃないですか? 確かに自分が正しいとか、善いことをいつも行っているのかって聞かれれば、そんなことは無いですけど、全く役に立たないって言われると、仕事も一生懸命してますし、家族の世話もしています。教会の奉仕も少しはやっています。大体神様を探し求めるからこそ、こうして日曜日に早起きして教会に来てるんじゃないですか!」 確かにそうなんですが、神様は厳しく求められるのです。どのくらい厳しいかは後ほどもう一度語ることにしましょう。
律法に反すること、すなわち「神と自分と隣人を愛すること」から離れてしまうこと。これを聖書は「罪」と呼びます。 パウロの言葉です。テモテへの手紙Ⅰ 1章15節。「イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。 他人と比較することは適切ではないのですが、パウロに わたしは、その罪人の中で最たる者です と言われてしまうと二の句が継げません。 3章13節14節。 彼らののどは開いた墓のようであり、 彼らは舌で人を欺き、 その唇には蝮の毒がある。 口は、呪いと苦味で満ち、と続きます。
彼らとは9節にある、ユダヤ人もギリシャ人を指します。ユダヤ人は世界を創造された唯一の神様を知り、その方向性に問題は有ったものの神殿での礼拝を大切にしてきました。一方、オリュンポスの神々やギリシャ哲学でありまた芸術的にも秀でたものを持っていたギリシャ人は唯一の神を知りませんでした。ですから、13節に彼らとあるのは、私たちを含めた全ての人と読むのが適切です。「神と自分と隣人を愛すること」の不完全さを指摘された時、返す言葉を持たない私です。ここに、のど、舌、唇に関した厳しい言葉が並びますが、すべて私たちの語る言葉、すなわち心に思ったことが外に出てくることに関係しています。
旧約聖書箴言にある格言を拾ってみましょう。聞いてください。10:31 神に従う人の口は知恵を生み 暴言をはく舌は断たれる。32 神に従う人の唇は好意に親しみ 神に逆らう者の口は暴言に親しむ。12:18 軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。19 真実を語る唇はいつまでも確かなもの。うそをつく舌は一瞬。15:2 知恵ある人の舌は知識を明らかに示し 愚か者の口は無知を注ぎ出す。4 癒しをもたらす舌は命の木。よこしまな舌は気力を砕く。21:6 うそをつく舌によって財宝を積む者は 吹き払われる息、死を求める者。 いかがでしょうか? 聖書は人間の本性を鋭く指摘します。この格言が語られてから3000年近くが経っているのですが、人間のさがと言いますか「本性は変わっていないんだな」と思わされます。その一方で科学技術の進歩は著しいものがありますから、小さな子供がダンプカーを運転している様な危うさを感じてしまいます。
3章15節から18節。3:15 足は血を流すのに速く、16 その道には破壊と悲惨がある。17 彼らは平和の道を知らない。18 彼らの目には神への畏れがない。パウロは鋭く私たちが命を与えられているこの2022年を鋭く批判します。19節。 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 私たちは、神様の前でまず口を噤(つぐ)むべきです。沈黙すべきです。礼拝の初めに奏楽が奏でられ、まず心を鎮(しず)めることで礼拝を始めました。そして『主よ、お話しください。僕は聞いております。』(サムエル上3:9,10) これは少年サムエルの言葉ですが、私たちも同じ思いで聖書の語るみ言葉であり、その解き明かしである説教を受けとるのです。そこには祈りと賛美、そして献身の思いが伴うでしょう。

さて、十戒の第2戒に わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。 この様にありました。注目したいのは「罪」への厳しさと同時に、神様は、私たちを愛したくて・愛したくてショウガナイ方だ、ということです。「罪」に対する罰と戒めを守るものへの恵みの著しいアンバランスによく表れています。しかし、愛するが故に厳しくする。父親や母親、先生方、あるいは近所のおじさん、おばさんみんなそうです、と言いたいところですが、昨今報道されるところによれば、そうとも言い切れません。社会の潤いが少なくなりギスギスした日常のはけ口が子供に向かう。そしてそれを受けた子供は、さらに弱い者にはけ口を求める。子供のいじめがなくならない原因は、大人の生き方にあるのです。 この時代に対して、教会が経済的な潤いを与えることは困難ですができることがあります。 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒言行録3:6) 困難を抱える人と、主の福音を分かち合うことが出来ます。礼拝を一緒にまもって、力を得て歩き始めることを助けるのです。
第6戒。殺してはならない。ですが、人を殺した経験をお持ちの方はいらっしゃらないでしょうが、それでは「人を生かさなかった経験は?」と問われたらどうでしょう。もちろんお医者さんに問うているのではありません。主は『人はパンだけで生きるものではない。神の口から一つ一つの言葉で生きる』(マタイ4:4)とおっしゃいました。もちろん飢餓に苦しむ人とパンを分け合うのですが、そして多くの人と福音を分かち合うことが求められます。これが、第6戒の意味です。ですからパウロは言うのです。3章20節 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。パウロは律法の字句を一生懸命守ったとしても神様に正しいものとは認めていただけないのだと言います。なぜでしょうか? 理由は簡単です。神様が満足なさるほどには「神様と自分と隣人を愛し抜く」ことが出来ないからです。
先ほど「どのくらい厳しいかは、後ほどもう一度語ることにしましょう。」とこの問題を残してきました。神様は聖なる方ですから、律法に反すること、すなわち罪に対する裁きは「死」なのです。肉体的な死だけではありません。魂の死、これは神様との断絶です。神様に見捨てられることです。十戒を全て守った方、まったく罪を犯されなかった方が身代わりになって私たちの「死」を負って下さる他には方法がない程に、聖なる方の裁きは厳しいのです。
本日の説教題を「正しい者は一人もいない。」としましたが、正しくは「正しい者は一人もいない。主イエス・キリストを除いては。」となります。そして私が負わなければいけない「罪」の裁きを、私に変わって下さったこの主を救い主と信じて従っていく。その時に約束されるのが、私たちを罪のないものとみなしてくださった上で与えられる永遠の命です。
ですから、永遠の命、死後の世界にまで続く命とは、いつかは必ず私たちにやってくる肉体の死の時を超えて、“あなたに、そして私に注がれている神様の愛は変わらない”ということなのです。「変わることの無い愛」これが「永遠の命」です。最後にローマの信徒への手紙3章25節をお読みします。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。主に従う喜びの一週間を始めましょう。祈ります。