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山形六日町教会

2022年4月10日

聖書:申命記21章22~23節 ヨハネによる福音書19章28~30節
「成し遂げられた」波多野保夫牧師

受難週を迎えました。この週の出来事を主にルカ福音書によってたどって行きたいと思います。イエス様は今日、この日曜日にろばに乗ってエルサレムに入られました。力ある言葉と力ある業は広く知れ渡っていましたので「主の名によって来られる方、王に、 祝福があるように。天には平和、 いと高きところには栄光。」(ルカ19:38) 人々はこの様に叫んで大歓迎したのです。そして翌月曜日にはエルサレム神殿に行かれ、そこで商売をしている者たちを追い出し始めておっしゃいました。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』 ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。(ルカ20:46) エルサレム神殿には小アジアや地中海沿岸地方などから多くのユダヤ人たちが巡礼にやって来ましたから、各地のお金を献金の為に定められている銀貨に両替したり、犠牲として捧げる動物を買う必要がありました。商人たちは最高法院から独占営業権を得たうえで、不当に高い値段で商売をしていたのです。
この時の様子を詳しく記すヨハネ福音書です。 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ福音書2:15,16) イエス様のイメージに合わない、強制執行です。「宮清め」と呼ばれます。主の愛は厳しさを伴うもので、「いいよ、いいよ」でも「傷をなめ合う」のでもないことが知らされます。この悪徳商人たちは「宮清め」によって神様に立ち返ったのでしょうか? 残念ながらそれは記されていません。むしろ群衆が「イエスを十字架に架けろ」と叫んだ中に彼らも加わっていたとみるのが自然です。
しかし、主イエスが復活された50日後に、約束された聖霊が降りエルサレムに教会が誕生しました。最初はペトロに、やがて主の兄弟ヤコブに導かれて多くのユダヤ人がエルサレム教会に加わりました。私は、その教会に悔い改めた悪徳商人が加わっていて欲しいと願うのです。その根拠があります。主はおっしゃいました。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ福音書19:10) 彼らも悔い改めて救われる。そして私たちも悔い改めて救われる。このことをイエス様は一番望んでおられるのです。
ここで、2つのことに注意が必要です。神様をないがしろにしているとしか見えない者を懲らしめて誤りを正したいと思うことがあります。教会を傷つけることだけではありません。隣人を愛することに欠けるのであれば、それは神様のご命令に逆らうことですから、やはり神様をないがしろにすることになります。自分がその連中の被害者ならば、なおさらです。ローマの信徒への手紙12章19節、パウロが伝える神様のみ心です。 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」 
二つ目もやはりパウロが伝える神様のみ心です。 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 3:16,17) 
皆さんは自分が神の霊が宿って下さる神殿だと自覚されているでしょうか? 宿って下さる霊と建物の双方が大切です。私たちの心と体の健康を保つことが求められます。先日天童公園に行ったところ大勢の方が散歩やジョギングをしていましたし、街中のジムも繁盛しています。暴飲暴食を避けて神様からいただいた体を大切にする必要があります。
それでは心の健康はどうでしょうか? ストレスの多い現代社会において、心の病を抱えている人が増えています。聖霊の宮を健康に保つ方法があります。それは礼拝に集うことです。一人で聖書に親しみ祈るのは大切ですし、神学書に触れるのも良いでしょう。

主の大いなる愛に思いが至れば、慰めと癒しが与えられます。しかし、最良の方法は週ごとの礼拝に集うことです。主にある兄弟姉妹と共に聖書に親しみ、その解き明かしの説教を受け、心を合わせて祈り賛美し献げる。主イエスとのつながり、主にある兄弟姉妹とのつながり、その中で、神様の愛を実感するのです。天地創造の際に神様はおっしゃいました。「人が独りでいるのは良くない」(創世記2:18) 礼拝が終わると家路をたどりますが、それは、私たちが伝道の地であるこの山形に派遣されることなのです。一人一人を主が用いてくださるのです。
主に用いていただくことに関して、いつもお話ししています。繰り返しましょう。 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ11:28-) この世の重荷に疲れ果てた時、主のもとを訪ねると休ませてくださいます。礼拝に集うことが最高の方法だと申しました。主に休ませていただくことで元気を取り戻すでしょう。しかし、それだけで元の生活に戻ればすぐにまた疲れてしまいます。
私たちの人生には楽しいことだけではなく苦しいこと悲しいことが次々に起こるからです。主はその時の為に私たちの体と心の筋肉を鍛えてくださると言うのです。「神の国の為に働きなさい。私がその重荷のほとんどを担ってあげるから。」私たちだけではありません。全ての人が主の福音を受けて幸せな人生を歩むために私たちを用いてくださるのです。それは「神と隣人を愛する」全ての業です。祈ることで始まります。伝道は正にその一つです。主の重荷を負うことで、体と心の筋肉を鍛えてくださるのです。
「でも私は神様の為に働くことで疲れちゃいます!」 神様はそんな私たちの抱える弱さをご存知です。ですから日々の忙しさの中から呼び出して、愛する兄弟姉妹と共に主を礼拝する時が7日ごとに用意されているのです。私はいつも申し上げます。「礼拝を休むと損をしますよ!」もちろん体調が整わない時は、自宅で礼拝の時を覚えて祈っていただきたいと思います。7日ごとの礼拝は、私たちが抱えているどうしようもない弱さをご存知の上での恵みなのです。2000年間教会は礼拝を休むことなく続けてきました。コロナ禍によって集合しての礼拝が持てない時にも置かれた場所で礼拝を覚えました。集った者は集えない方のために祈ります。2011年3月11日大津波の影響で13日に礼拝を持てない教会が確かにありました。しかし、そのことを覚えて多くの教会は礼拝を守ったのです。礼拝に集う大切さとその恵みを、主の御受難を強く覚えるこの礼拝においてもう一度確認しておきたいと思います。

さて、キリストがご自分の肉を割き血を流して私の罪を贖ってくださったのですから、それにふさわしくあるべきです。私たちは神様の神殿なのですから、それにふさわしくあるべきです。ガラテヤの信徒への手紙5章には「善行表」と「悪徳表」がありますが、「善行表」だけお読みしましょう。霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。(ガラテヤ5:22,23)キリストの愛を覚えるのであれば、自然にこの様になってしまいます。これは喜びの人生に違いありません。
主にルカ福音書をたどっています。20章の小見出しは順には「権威についての問答」「「ぶどう園と農夫」のたとえ」「皇帝への税金」「復活についての問答」「ダビデの子についての問答」「律法学者を非難する」この様にあります。 律法学者や祭司長など最高法院の議員たちは、主のみ言葉と業によって既得権益が打ち砕かれるのを防ごうとして、主イエスを殺す計画を立て、罠にかけようと知恵を絞りますが、民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。のです。それなら悔い改めて主に従う者になった方がはるかに良いと思うのですが、欲望に支配されている彼らは、悪知恵をめぐらして主を十字架に架けようとします。
21章は、欲望や悪知恵とは無縁の「レプタ2枚」を献げたやもめの話に続いて、「終末」が語られます。間もなく十字架の死を迎えるというこの時に「復活」のさらに先にある「終末」について語られたのです。 弟子たちは、十字架での死も、三日目の復活も、聖霊が与えられての教会の誕生も、そして「終末」の出来事も、全く理解できないこと、チンプンカンプンなことでした。それは当然でしょう。
しかし、彼らは、50日ほどの間に、主の復活と昇天。聖霊が降っての教会の誕生を経験したのです。その後の彼らは180度変わりました。ペトロを例にとりましょう。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)と威勢よく言ったにもかかわらず、恐れに支配された彼は、主を3度「知らない」と言ってしまいました。しかし、聖霊を受けた彼はやがて主の名の故に捉えられ牢に入れられても動じない者へと変わりました。自分が「聖霊の宮」として用いていただく喜びを知ったのです。彼は、イエス様が祈って下さった通りの人間に変わりました。 わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:32)
私たちは今聖書の証言を通して、この時のペトロよりもはるかに多くのことを知っています。主の十字架の出来事とイースターの出来事。主の約束通りに聖霊が与えられ教会が誕生したこと。キリストの働き人たちが「大宣教命令」 あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:19,20)このみ言葉を信じ素直に従ったことです。教会が多くの困難を乗り越えて発展して行ったことです。そして私たちが主に愛されていることです。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。このみ言葉は様々な困難を抱える時に有っても真実なのです。

ルカ福音書22章に進みましょう。木曜日になりました。この晩、主は大祭司の手下によって逮捕されるのですが、それに先立つ夕方の出来事です。19節20節。 イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。 キリストの福音の多くは聖書の言葉によって伝えられますが、主の聖餐はパンとぶどう酒と言う物を目で見て口で味わうことによって十字架の愛を思い起こさせてくれます。残念なことに聖餐式を行いにくい状況が続いていますが、そんな時にあっても、この講壇の前に聖餐卓が置かれており、パンとぶどう酒を思い浮かべながら神様のみ言葉を聴くことは適切です。主のみ体の無い空の十字架を掲げるのと同じ様に、プロテスタント教会が大切にしてきた習慣なのです。
そんな聖餐式の制定と言う大切な出来事のすぐ後に弟子たちが行ったのが24節です。また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。 お前たちそんな下らない話をしている時かよ! こう言いたくなります。 この後主イエスに導かれた一行はオリブ山へ行きました。そこで主は祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。 おまえたち、なんてだらしないんだ! こう言いたくなります。
ペトロについては既にお話ししました。わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。 これは聖書にはないのですが、ローマ皇帝ネロの迫害に苦しむ教会を力づける為にローマを訪ねた際、捉えられて殉教したと伝えられています。 さて、主イエスはこの後、最高法院での裁判をうけ、ローマ総督ピラト、ガリラヤの領主ヘロデ、再びピラトとたらい回しにされた後、十字架での処刑が言い渡されました。
先ほど、讃美歌301番を賛美しました。 
1 深い傷と流れる血に あえぎ悶え、主は苦しむ。 そのみ傷こそが 罪人をいやす。
2 あなどられて世に捨てられ、責めと恥に 主は耐えられ、十字架で勝利し、救いとなられた。
3 わたしたちを 罪と死より救うために 主は死なれた。十字架の主こそ とこしえの命。

本日、与えられましたヨハネ福音書19章30節です。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。 体に感じる痛み苦しみだけではありません。まったく罪を犯したことの無い自分が全ての人に裏切られ神様に見捨てられた。この苦しみはいかばかりのことでしょうか。主は「成し遂げられた」と言って、頭を垂れて息を引き取られました。本日の説教題を「成し遂げられた」としたのですが、何を成し遂げられたのでしょうか?選挙戦が始まると、公示日に各党の党首が街頭に出て演説し、その第一声が詳しく報じられます。そこに各政党の主張がハッキリと表されるからです。30歳になられた主が宣教活動を始められた際の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)でした。確かに神の独り子が真の人として来てくださり、その独り子を十字架に架けてまで神様は私たちを愛してくださることが知らされました。「時は満ち、神の国は近づいた。」ことは実感できます。
では後半「悔い改めて福音を信じなさい。」こちらはどうでしょうか。 世界人口の1/3がクリスチャンだそうですが、悲惨な戦争、悲惨な事件が絶えることはありません。本当に主は「成し遂げられた」のでしょうか? ヨハネ福音書17章1節以下の小見出しには「イエスの祈り」とあります。逮捕される直前の祈りです。17章4節 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。主は神様の栄光を現す使命を成し遂げられたので神様の御許へ帰られるのです。では、宣教の第一声「悔い改めて福音を信じなさい。」はどうなっているのでしょうか? 実は、これは教会に委ねられているのです。
15節18節。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。 彼らとは私たちキリストの愛を知り従う者たちです。ですから、主の十字架の苦しみによって「罪」が赦された私たちは、人々が悔い改めて福音を信じる様になるために、主イエスに遣わされて祈り行動するのです。
私たちが勇気をもって主に仕える。その準備を完璧に成し遂げてくださったのです。イエスは、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。これが主の御受難の大切な意味であり、成し遂げて下さったことなのです。主に委ねられた光栄ある業、光栄ある軛を負いたいと思います。祈ることから始めましょう。