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山形六日町教会

2022年4月3日

聖書:イザヤ書41章9~10節 ローマの信徒への手紙5章1~5節
「希望はあざむかない」波多野保夫牧師

新しい年度を迎え、様々な変化が起きています。若い人たちにとっては入園、入学、進級、進学、就職など大きな変化のときであり、学校や職場、社会においても様々な変化が感じられます。教会において、具体的な新年度の歩みは4月24日に開催されます、教会総会を待ってのこととなりますので、週報の表紙にあります、年間主題「揺るがぬ希望をもって」と主題聖句「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」 ヘブライの信徒への手紙10章23節ですが、2021年度のままとなっています。
一人一人が抱える課題に加えて、いまだ収束を見せない感染症や、戦火、そして自然災害が私たちを取り囲んでいる現実があります。しかし、主の十字架と復活の出来事によって神様が私たちに注いでくださる大いなる愛をハッキリと知る私たちです。このレントの時にあって、2021年度主題聖句「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」 このみ言葉をしっかりと胸に刻む日々でありたいと思います。
今年のイースターは2週間後の4月17日になります。レントも残り2週間です。皆さんにお勧めした「ダニエルの断食」3月の月報で紹介しましたが、まだでしたらぜひチャレンジして頂きたいと思います。そして主のみ苦しみの一端を日々の生活の中で感じていただければと思います。

さて、説教シリーズ「あなたへの手紙」第15回です。ローマの信徒への手紙5章1節以下を読んでいただきました。パウロがローマ教会に書き送った手紙です。多くの聖書学者は西暦56年頃、第3回伝道旅行の際にコリントから書き送った手紙だと言います。当時、地中海沿岸地方を始め、ヨーロッパ、西アジア、中東からアフリカへと絶対的な権勢を誇っていたローマ帝国の首都ローマには100万人近くの人が住んでいました。多くのユダヤ人もやってきており、ユダヤ教ナザレ派と呼ばれていたキリスト教は早いうちに伝えられ、信者の家で礼拝や集会を持つ、いわゆる「家の教会」がありました。しかし、残念なことに正しい福音の理解には至っていなかったのです。それは、律法の縄目に縛られたまま、正しい行いによって救われることを求めたり、神様に選ばれた民族だという選民意識が抜けないユダヤ人クリスチャンと新しく信仰に招かれた異邦人クリスチャンとの対立に現れていました。主に愛されているすべてのクリスチャンは主の前で平等なのです。
パウロはそんなローマの教会を訪ねて、正しい福音、すなわち主イエス・キリストを信じて従う信仰に依って、人は神様に「罪」を赦していただき、愛に満ちた喜びと希望の人生を歩む「救い」が与えられれるのだ。良い行いの積み重ねによってでは決してないという、いわゆる「信仰義認」に立った正しい福音を伝える計画を持っていました。さらに彼はローマからスペインにまで主の福音を伝えるのだと記しています。正に復活された主が神様の御許に帰られる際に、11人の使徒たちに告げられたご命令に忠実だったことが分かります。
マタイによる福音書28章18節以下です。 28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 これは、主の「大宣教命令」と呼ばれます。パウロは主のご命令を直接聞いた11人の使徒には含まれていませんが、クリスチャンを牢屋に送るためにダマスコに向かう途中で復活の主にお会いしたことで、クリスチャンを迫害する者から、クリスチャンとして迫害を受ける者へと変わったのです。彼は教会を通してこの「大宣教命令」を知って従ったのですが、使徒言行録や多くの手紙などが、「大宣教命令」に素直だったパウロの働きを証言しています。
私たちは今、聖書を通して聞きます。2000年の間、教会はこの「大宣教命令」に忠実だったからこそ、私たちはこの様に集って礼拝を捧げることが出来るのです。そして、11人の使徒たちが主イエスから直接聞き、パウロが教会を通して聞いた「大宣教命令」を、私たちは聖書を通して聞きます。しかし、残念ながら私はパウロになることは出来ないでしょう。皆さんもそうかも知れません。そんな私たちに主はおっしゃるのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 ペトロを始めとする使徒やパウロに注がれた主の愛、十字架の死によって示された主の愛は、全く変わることなく私たちに注がれているのです。確かにそうです。
だとしたら、私たちは諸先輩と教会の祈りによって、聖霊からいただいた最高の贈り物、主イエスに聞き従う信仰を隣人と分かち合いたいと思います。先週も申し上げました。これこそが隣人を最高に愛することであり、それが伝道です。私たちに与えられた信仰は分かち合うと減ってしまうのではなく増えるのです。福音の伝道の為に祈り続ける山形六日町教会でありたいと思います。
さて、使徒言行録によれば、パウロのローマ訪問の計画は、彼の思いとは異なって、囚人としてローマに護送されることで実現しました。神様のご計画は人の思いを越えて実現するのです。そんなパウロがローマ訪問計画に先立って正しい信仰、正しい福音の理解について書き送ったのがこのローマの信徒への手紙であり、また囚人としてローマに居ながら書き送ることが許されたいくつかの手紙が、後に新約聖書として編纂され、2000年後の私たちに届けられているのです。これは、おそらくパウロの思いの中には無かったことでしょう。人の思いを越えて実現する神様のすばらしいご計画の証言として聖書が伝えるこれらの手紙、その封を開けて読み解くのがこの説教シリーズ「あなたへの手紙」の意図するところです。

本日与えられたローマの信徒への手紙 5章1節から3節です。 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。残念なことですが、私たちの人生には様々な苦しみがつきまといます。数年にわたるコロナ禍であり、戦火であり、食糧難などが世界を覆っています。さらに皆さんそれぞれが様々な重荷を負っていらっしゃることでしょうし、日本の教会は長い間、信者の減少と高齢化に苦しんでおり、いまだに解決の兆(きざ)しは見えません。
苦しみの大きさを比較することは意味のないことですが、パウロの味わった苦難の一端です。11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(コリントの信徒への手紙Ⅱ 11:24-27)確かに苦しみの大きさを比較することは意味がないのですが、私にはパウロの様な経験はありません。みなさんはいかがでしょうか?
そんな彼が言うのです。5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。 ここで、一つの言い訳が私の心に浮かびます。「パウロはダマスコに行く途中で復活されて主イエス・キリストにお会いしたから、こんな強い信仰が与えられたんでしょ。私はイエス様に直接お会いしたりお話ししたりしたことが無いので、とてもこんな強い信仰は持てません。」この言い訳はそのままにして先に進みましょう。

パウロは言います。「神の栄光にあずかる希望を誇りにしてるだけではなく、苦難をも誇りとします。」 苦難は私達にとって嫌なもの、避けたいものですが、聖書は言うのです。ヘブライ人への手紙12章には「主による鍛錬」と言う小見出しが付いています。12章5節6節です。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、 力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、 子として受け入れる者を皆、 鞭打たれるからである。」最近の新聞記事に児童虐待が報じられており、父親はしつけの為に折檻したと言い訳していました。難しい面のある聖句ですが、当時迫害にあっていたクリスチャンに向かって、神様が信仰を鍛えてくださっているのだと言うのです。苦難をも誇りとすると言い切るパウロも同じ心境だったのでしょう。なぜパウロが、そしてヘブライ人への手紙を送った伝道者が、この様なハッキリとした神様への信頼を持つことが出来たのでしょうか?
最初にイザヤ書41章9節を読んでいただきました。41:9 わたしはあなたを固くとらえ 地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕 わたしはあなたを選び、決して見捨てない。神様は苦難の中にあるイスラエルの人々に対して預言者イザヤを通しておっしゃるのです。わたしはあなたを選び、決して見捨てない。 ユダヤ人はこの神様の約束を良く知っていました。そしてこの約束は、私たちに対しても語られているのです。なぜなら私たちは神様に選ばれて、豊かな導きと豊かな恵みを受けて、今、この山形六日町教会で礼拝をささげているからです。
私たちは決して見捨てられません。しかし、主イエスの弟子たちです。ゲッセマネの園で主が逮捕された時に、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。マタイ福音書26章56節です。私たちは、そんなことはしないハズですね。見捨てられた人がいます。十字架上での叫びです。マタイ福音書27章46節。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。私達を見捨てないという約束を守るために、神様は独り子を見捨てられたのです。イザヤ書49章10節に戻ります。10 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。 預言者イザヤを通して神様はイスラエルの民に、使徒パウロに、そして私たちにこの様に語られるのです。
ローマの信徒への手紙5章2節に戻りましょう。このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。 なぜパウロは苦難を誇ることが出来たのでしょうか? 3節4節です。 5:3わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。「練達」とは「信仰の大切な部分に達する」と言った意味です。「苦しみの中でこそキリストの本当の愛が見えてくるのだ」とパウロは言います。苦難によって人は自分の思い上がりに気づくのです。それによって清く、強くなれると言うのです。クリスチャンが苦しみの中に置かれた時、進む道が二つあります。
「神様はこんなに苦しんでいる私を助けてくれない。そんな神様はもう信じられない。」残念な道です。私の今のこの苦しみには何か意味があるに違いない。今までズート私を愛してくださった神様は私の罪、即ち「神様と自分と隣人を愛する」ことを忘れてしまったことに気づかせてくださったのだ。この二つ目の道、神様の愛を信頼して歩み続ける人生は希望を生むのです。なぜでしょうか。5章5節です。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。そうです。苦難に直面した時に、泣き言を言ったり、神様への不満を並べるだけならば、絶望で終わるしかありません。苦難の向こう側にある神様の愛が目に入らないからです。
1954年版の讃美歌に520番「しずけき河のきしべ」があります。残念なことに讃美歌21にはありませんので、ご一緒に賛美することが出来ませんでした。作詞者はホレーション・ゲーツ・スパフォードと言う1828年生まれのアメリカ人です。彼は、医者であり、大学教授で、さらに神学校の理事もしていました。人徳もあり、信仰も篤く、皆から尊敬されていました。そんな、彼は深い悲しみを知る人だったのです。この讃美歌を作詞する2年半前に彼は一人息子を亡くし、さらに半年後にシカゴの大火によってほとんどの財産を失ってしまいました。その2年後、彼はこの讃美歌を作詞するきっかけとなった大きな悲しみを経験したのです。家族でヨーロッパ旅行をした後、有名な伝道者ムーディと一緒にイギリス伝道に参加する計画を立てました。しかし出発直前に急用ができてしまい、奥さんと4人の娘だけを先に行かせたのです。ところが、彼女たちが乗った船は大西洋の真ん中で衝突事故を起こして、わずか12分で沈没してしまいました。奥さんだけは奇跡的に助かりましたが、最愛の4人の娘たちをいっぺんに失ってしまったのです。彼はすぐに他の船で悲劇のあった大西洋に乗り出しました。そして、荒れた海に亡くなった娘たちの面影を追い、神様の摂理を思いながら、次の詩を作詞したのです。
【 しずけき河の岸辺を 過ぎゆくときも 憂き悩みの荒波を わたりゆくおりにも 心やすし、神によりてやすし 】 賛美を聞いてください。いかがでしょうか、この讃美歌にあるのは悲しみや嘆きではありません。もちろん、彼は深い悲しみと後悔の念に苦しんだことでしょう。しかし、どんな時にあったも「決してお前を見捨てない」この神様の言葉を信頼し、神様の御許にあって安らかな4人の娘たちと再会する希望を持って祈りました。それがこの讃美歌なのです。
本日の説教題を「希望はあざむかない」としました。私の言い訳、「パウロと違って私は主に直接お会いしことが無いので、強い信仰は持てません。」この言い訳を残してきました。いま、讃美歌520番を聞くと、こんな言い訳が恥ずかしくなります。パウロは主の十字架によって示された神様の愛のあまりの大きさを知り苦難をも誇りとしたのです。ホレーションは主の十字架によって示された神様の愛によって苦しみの中にあってもなお、「心やすし」と祈るのです。
5章5節。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。私たちが抱く希望は信仰に裏打ちされた希望です。そして私たちの信仰は聖霊によって養われ続ける信仰です。その信仰が養われる最高の場所と時、それが日曜日ごとの礼拝です。だから私たちは共に礼拝に集えない方の為に祈ります。主の福音をまだ知らない方に伝道します。そのすべての基(もとい)は私たちの心に注がれている神様の愛です。そして、このレントの時は私たちを愛する故に十字架の苦しみを負ってくださった方を強く思いつつ過ごす恵みの時なのです。その愛を知る者が抱く希望は、私たちを欺(あざむ)くことがありません。祈りましょう。