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山形六日町教会

2022年3月27日

聖書:マラキ書2章17節 ペトロの手紙Ⅱ3章3~11節
「教会の時代にあって」波多野保夫牧師

私たちは今、主イエス・キリストの十字架と復活の時へ向けて40日の備えの日々を送っています。レントあるいは受難節と呼ばれます。そして、今年のイースターは4月17日になります。梅の花もほころび、三寒四温の中に春の足音が聞こえてくる今日この頃です。
長らく私たちを苦しめ続けて来た感染症の流行は、おさまりつつある様に感じられますが、戦火は衰えようとしませんし、大きな自然災害の前に人の無力さを感じます。平和と平安の回復を祈ります。

さて、説教シリーズ「あなたへの手紙」の14回です。新約聖書に多く納められている手紙は直接的には2000年前の地中海沿岸地方に建てられた教会であり、そこに集うクリスチャンに宛てられたものですが、時と場所を越えて今、私たちに神様のお考え、み心を告げています。本日与えられました、新約聖書ペトロの手紙Ⅱ 3章3節以下をご一緒に読み解いて参りたいと思います。
3節4節。 まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」「終わりの時には」あるいは「天地創造の初めから」とあります。キリスト教の持つ世界観と言いますか、歴史観から始めましょう。仏教では輪廻転生(りんねてんしょう)と言うのでしょうか? 循環型の歴史観だそうですが、キリスト教では、始めがあり、そこから終わりへと向かって時間が過ぎていく歴史観を持っています。始めに神様がすべてを造られた「天地創造」の時があり、世の終わりが「終末」の時です。
現代では多くの科学者が、宇宙は138億年前のビッグバンによって始まったとします。旧約聖書は神様が6日間で、天地とその中にあるすべてのものを創造されたと語ります。「なんと非科学的な」との批判がありますが、起きた現象は恐らく科学者の言う通りなのでしょう。しかし、科学はビッグバン以前を語れませんし、その意味については無頓着です。
一方聖書は、神様の愛に満ちた天地創造の出来事を神話を用いて私たちに語るのです。それでは、この世界の終わりはどうかと言いますと、科学者は科学法則を駆使して、宇宙が元に戻るとか、逆に全く動きの無い世界になるなどと様々な説が唱えられますがハッキリしません。優れた科学者が自然界をよく観察し、実験と推論を重ねて発見した科学法則ですが、その法則自体、すべてを創造され、すべてをご存知の神様が、科学者に明かされた自然の持つ仕組みの一部分なのです。 余談になりますが、以前は不治の病と言われた病気からの生還者が大勢いらっしゃいます。最近の医学や薬学の発展、あるいは通信技術やITやAIなど人間の英知には目を見張るものがあります。しかし、それらは医者や科学者や技術者のたゆまない努力の末に、全知全能の神様が与えられた贈り物なのです。

さて、聖書の語る世の終わり、「終末」です。もちろんこれは、『地球最後の日』と言った危機ではありません。聖書が語る「終末」は、現在天の国にいらっしゃる主イエス・キリストが再び地上に来て下さり、正しい裁きが行われこの世の悪が滅ぼされる時であり、真の平和と平安が実現する時なのです。ですから様々な苦しみを負った者たちにとって、まさに「希望の時」なのです。私たちを愛してやまない神様の完全な支配が地上に実現する「希望の時」なのです。
アメリカの黒人奴隷たちは、奴隷解放宣言以前には聖書が告げる「神様の前では全ての者が平等」と言う教えは有害だとして、礼拝への参加が禁じられていました。
そんな彼らは夜になると密かに集まり、礼拝を献げ黒人霊歌を賛美して「終末」における裁きに希望を託したのです。
ですから、もしあなたにとって「終末」が頭で考えればわかるとか、教会が言うんだからそうなんだろう。こういった、必死に待ち望むものでないのだとすれば、迫害のもとにあった初代教会の人々や黒人奴隷たちと比べれば、恵まれた状態にあると言えるのでしょう。しかし、私たちの人生に於いて、悩みや苦しみが心を覆うことはあります。そんな時には、「終末」に至るまで、どんな時にあっても、私たちを愛してやまない主イエスを思い起していただきたいと思います。

さて、ペトロが手紙を書き送った2世紀初頭の教会は、ローマ帝国やユダヤ教など外部からの迫害だけでなく、教会内部に現れた偽教師たちが教える誤った福音理解に苦しめられており、2種類のクリスチャンがいたのです。主イエス・キリストのご命令「神様と自分と隣人を愛しなさい」このご命令に忠実に生きようとする者たちと、「自分は神様に愛されているんだ、だから何をやっても平気だ。人生は短い。好きなことをやって楽しもう。」こう言って、自己中心的な放縦生活をして、神様ではないものに心を奪われてしまった者たちです。
これは、現代で言えば、お金や名誉や出世、あるいは成績などに心を奪われてしまい「神様と自分と隣人を愛する」豊かな人生から離れてしまった、たいへん気の毒な人がそれに当たります。この様な人の特徴を聖書は次の様に語ります。5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。(ガラテヤの信徒への手紙5:19-21) 悪徳表と呼ばれます。自己中心的快楽主義と呼ぶのでしょうか。この様な人生が人を幸せにすることはありません。
22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。(ガラテヤの信徒への手紙5:22-23) 善行表と呼ばれます。正に喜びの人生です。 もちろんこの「善行表を行えば救われる」と言うのではありません。救いは主イエス・キリストを信じる信仰によって与えられます。それではこの善行表は何かといえば、主に従う喜びの人生を送ると自然に出てきてしまう行動です。こんな人は、みんなから好かれるでしょう。
「善行表」や「悪徳表」は自分の信仰であり心の向きがチャント神様の喜ばれる方向を向いているのか、いないのかをチェックする。いわば、健康診断表なのです。 偶像礼拝と言っても私たちが金の子牛を礼拝することは無いでしょう。しかし、神様以外のもの、お金や名誉や出世、成績、あるいは健康状態などに心を奪われてしまい「神様と自分と隣人を愛する」豊かな人生から離れてしまうのであれば、それはもはや偶像礼拝です。なぜならば、心の中に聖霊が宿ってくださる場所を無くしているからです。
それでは、クリスチャンは常に善行表に従って生きているのでしょうか? 言い換えれば、どんな時でも神様のご命令「神様と自分と隣人を愛する」に忠実なのでしょうか? 
主イエスはおっしゃいました。「あなたの敵を愛しなさい。」 自分に近しい人を愛す。良くしてくれる人を愛す。これですら「いつも変わることなく」と言われると怪しいものです。
悲惨な殺人事件が起きた際、親族の方がテレビに向かって「犯人を死刑にしてください!」と涙ながらに訴えていらっしゃいました。私ならどうだろと考えると胸が痛みます。もちろん、犯人が死刑になったところで亡くなった方が生き返るわけではありません。理屈は正にその通りですし、お互いに愛し合うことが出来ればこんな悲惨なことはなくなると頭では理解できます。 私に出来ることと言えば、被害にあった方の家族、そして犯人の家族の為に平安を祈る。犯人の悔い改めを祈り求める。そして私自身は「神様と自分と隣人を愛する」ことが出来るように祈るのです。
聖書は「神様と自分と隣人を愛する」ことから逸(そ)れてしまうことを「罪」と呼びます。残念ながら「罪」を犯さなかった人間、「神と隣人を愛し抜いた人間」は人類の歴史上に唯一人だけ、主イエス・キリストだけです。教会がなぜ残酷な死刑の道具、十字架を高く掲げるのかと言えば、私たちの「罪」の責任を負って主イエスが十字架に架ってくださった2000年前の出来事こそが、私たちが本当に神様に愛されている証拠だからなのです。
聖書は語ります。3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ福音書3:16,17)

ペトロの手紙に戻りましょう。3節4節。 まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。あざける者たちは、「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。」すなわち、「キリストが神の子ならば、なぜ早くやって来て自分たちの敵を滅ぼしてくれないんだ!」と声高に言う一方で、自分たちは勝手気ままに放縦な生活をしていたのです。彼らは「終末」すなわち主の裁きの時を真剣に考えて備えを持つ、あるいは苦しみの中にあって「終末」の到来に希望を託す。そんな生真面目さとは無縁でした。しかし、なぜ主イエスはすぐに来て私たちを助けてくださらないのだろうか? 人類は何度もこの問いに直面してきました。「終末の遅れ」と呼ばれます。 
私たち一人一人にとっても、また2022年と言う時代にあっても例外ではありません。神様は何でこんなに大きな恵みを与えてくださるのだろう? と言う問いに比べて神様のご計画に対しての不満は、ずっと多いのです。
ペトロの答えです。3章9節。 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。 終末の時は裁きの時です。主に信頼し従う者にとっては希望の時です。しかし、「罪」に対してすなわち「神と自分と隣人を愛する」ことから離れてしまったものに対しては厳しい裁きがくだされます。すべてを創造された全知全能の神様との関係、相思相愛の関係が断たれること、即ち絶対的な孤独に陥ることが裁きの結果です。そしてペトロはこれが人間が滅びることだと言います。神さまは、私が自分の「罪」、「神と自分と隣人を愛する」ことからの隔たりに気がついて、悔い改めて立ち返ることを辛抱強く、我慢強く待っていてくださる。 これが「終末の遅れ」の本質だと言います。「悔い改めた者」とはキリストの愛を受け入れた者です。救いが約束されています。
クリスチャンが「悪徳表」と無縁であり「善行表」に従った生活を常にしているか? との問いに戻ります。先ほど「あなたの敵を愛しなさい」このご命令に触れ、愛する者を奪われた方の悲しみに触れましたが、その方を非難する資格など私にはありません。すべての人が神様にもう一歩近づくことを願い祈るだけです。一歩だけ良い世の中になるからです。最終的な解決は「終末の時」を待ち「希望」を託します。
クリスチャンは「罪」を犯さないのか? でした。残念ですが犯します。じゃあ信仰なんて役立たないじゃないか! 役立つのです。なぜならば「罪」に気づいたときに立ち返るところが主の十字架だと知っているからです。主イエス・キリストの十字架は神様の絶対的な愛のしるしであり、証拠だと知っているからです。
ペトロは言います。3章8節。愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
もっとも辛い十字架にまで架って私たちの罪を負ってくださった主イエスは、主に従って歩む私たちを「罪」の無い者と見なしてくださいます。時空を超えた大きさの愛です。どんな時代にあっても変わることは全くありません。しかし、残念なことにあまりの大きさ、私たちの常識を超えた大きさであり、毎日の生活の中でいつも注いでくださっているために、かえって神様の愛が見えなくなってしまうことがおこります。
3.11の地震と津波から11年が経ちました。震災直後にキリスト教の幼稚園で園児が先生に尋ねたそうです。「何でお友達の花子ちゃんは津波にさらわれちゃったの?」 大変に重い問いです。私にはハッキリとした回答は11年たった今もありません。当時神学校の学生だった私は震災の2週間後にボランティアとして釜石を訪ねました。隣の大槌町役場の前で私たちは祈りました。静けさの中に響くカモメの声が今も耳にのこります。「神様なんでなんですか? なんで私なんですか? 何で今なんですか?」 人は、この言葉を何度繰り返してきたのでしょうか? 
しかし、その答えは分かりませんが、知っていることはあります。3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ福音書3:16)この神様の愛に包まれて生涯を歩むことが出来る。これがクリスチャンに対してキリストの与えてくださった大いなる恵みに他なりません。
クリスチャンだから出世したり、お金持ちになったり、有名になったり。あまりありそうなことではありません。しかし、真の友達が出来る。これは確かです。主イエスキリストに愛されていることを知る者同士だからです。見栄を張ったり威張ったりする必要が無いからです。でも、私にはそんな友達はいない。
安心してください。主イエス・キリストがあなたの友達です。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。ヨハネによる福音書 15章15節の語る主イエスのみ言葉です。ペトロの手紙Ⅱ 3章10節11節。3:10 主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。11 このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。聖書は主イエス・キリストが地上に来てくださったこと、即ちクリスマスの出来事によって「終末」は始まっており、十字架と復活の出来事によって、神様の愛によるご計画、愛による支配がハッキリと示されたと証言しています。すべて2000年前に起きました。そして今、その愛のご計画を知る「教会」に2つの使命が与えられています。
一つは主の恵みを知るクリスチャンは「神様と自分と隣人を愛する」生活、ペトロが言う「信心深生活」を送るのです。修道院に入る必要はありません。日々主の恵みに感謝し聖書に親しみ祈る。日曜日には教会の礼拝に集う恵みの生活です。
もう一つは主の福音を隣人に伝えることです。私たちの頂いた最高のもの、信仰を分かち合うのです。いつもこの様にもうしあげています。信仰は分かち合うと減るのではありません。増えるのです。教会に託された課題をご一緒に担って行きましょう。
本日はレントにあって、壮大な神様のご計画の一端をペトロの証言を通して聞きました。「なぜお友達が津波にさらわれちゃったの?」これは答えのわからない重い質問です。しかし、そのお友達は今、神様の愛の中に置かれているに違いありません。これが、十字架の主を見上げる私たちに与えてくださる確信です。祈りましょう。