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山形六日町教会

2022年2月27日

聖書:詩編119編105~108節 ペトロの手紙Ⅱ1章16~21節
「キリストの栄光」波多野保夫牧師

説教シリーズ「あなたへの手紙」の13回です。前回2月13日からペトロの手紙Ⅱ を読み始めました。地中海沿岸の各地に教会が立てられ、クリスチャンの数が増えていくにつれて、ローマ帝国やユダヤ教側からの迫害も増していきました。外側から教会に与えられた重い課題です。しかし、それだけではありません。教会は偽教師にも悩まされたのです。ペトロの手紙Ⅱ 2章の冒頭には「偽教師についての警告」と言う小見出しが付けられています。彼らは誤った主の福音を語るだけでなく、信仰と倫理は別だと主張して、自分たちは退廃しきった生活を送っていたのです。ペトロはそんな苦しみの中に置かれた教会と、そこに集うひとりひとりに対して「信仰」、「徳」、「知識」、「自制」、「忍耐」、「信心」、「兄弟愛」、そして「愛」の8つの階段を進む様に語っています。
前回は、その一つ一つを丁寧に見て行き、神様から豊かな人生への招きを受けている私たちに相応しく、1章8節9節を次の様に読みなおしました。「信仰」、「徳」、「知識」、「自制」、「忍耐」、「信心」、「兄弟愛」、そして「愛」が備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。
さらに、神様の愛の中を歩む人生へと招かれている私たちです。1章10節11節を次の様に読みなおしました。「信仰」、「徳」、「知識」、「自制」、「忍耐」、「信心」、「兄弟愛」、そして「愛」を実践すれば、決して罪に陥りません。11 こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。
そして、次の様に結びました。神様の素晴らしい約束を知る私たちです。世の光として、福音のともし火を灯し続けたいと思います。賢い乙女たちの様に信仰と言う油を備えたいと思います。なお、このペトロの手紙Ⅱから、2回み言葉を聞いて行きたいと申しましたが、本日を含めてあと2回、計3回としたいと思います。

1章16節。わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるとあります。十字架に架り三日目に復活された主は40日間にわたって大勢の弟子たちに現れた後、今は天の国で神様の右の玉座についていらっしゃいますが、その主が再び地上に来て裁きを行ってくださる。約束された終末についてペトロはこの様に語り始めるのです。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。「主への信仰を持った者は罪の奴隷ではない、自由なのだ。」と言うパウロの言葉を、偽教師たちは「自由なんだから、何をやっても良いのだ。」この様に教えるだけでなく、自分たちも放縦な生活を送っていたのです。そして、堕落した生き方を正当化するために、使徒たちの語る、主の来臨であり「最後の審判」を“巧みな作り話”と言って退(しりぞ)けていたのです。
ペトロは自分が語っていることは、偽教師たちがあざ笑う「巧みな作り話」なんかじゃない。なぜなら、私とヤコブとヨハネはハッキリとキリストの威光を目撃したのだから、と断言します。彼が経験した出来事は「山上の変貌」あるいは「山上の変容」と呼ばれます。週報にマタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書の記事を記しました。それぞれの福音書は各地の教会に伝えられた主の出来事を、四~五十年の時を経て現在の形に書き留められたので、微妙に異なるのですが、出来事の中心は一致しています。後ほど3つの福音書を読み比べてその豊かさを味わってください。一つお詫びなのですが、口語訳聖書を週報に記してしまいましたので、口語訳でマタイ福音書17章1節以下をお読みします。 1 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。3 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。4 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。ペトロは感激のあまりに「小屋を三つ建てましょう。」と申し出ました。モーセはシナイ山で神様から律法を授けられた偉大な預言者であり、エリヤはカルメル山で異教の預言者たちと一人で戦い勝利した旧約聖書最大の預言者と言われていました。3人がこの山にいつまでも留まって欲しい。そしてその姿をいつまでも見ていたい。そんな思いから口を付いた言葉、それが「ここに小屋を三つ建てましょう。」でした。
福音書はペトロの大失敗を隠すことなく伝えています。この記事の直前16章21節以下、主が十字架での死と3日目の復活について話された時です。16:22ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。最後の晩餐のあと、賛美の歌をうたってから、祈るためにオリーブ山に出かけて行った時です。26:33ペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。34 イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」。 数時間後大祭司の中庭でのことです。26:74 彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。 
実はこの「山上の変貌」に立ち会って、感激のあまりに思わず口にしたペトロの提案は決してイエス様を喜ばせるものではなかったことでしょう。なぜなら、イエス様はこれから山を降りてエルサレムへ向かい、そこで人々の罪を負って十字架にかかることをご存知だったからです。ペトロは主が愛された一番弟子と言えるでしょう。一本気で心に感じたことに素直な性格を持っていました。
これに対して多くの書簡を残したパウロですが、彼の人生はクリスチャンを牢に送るためにダマスコへ向かう途中で、復活の主にお会いしたことで180度転換しました。クリスチャンを迫害する者から、キリストの故に迫害される者へと転換しました。彼の多くの手紙はキリストの福音を理性で理解し整理したものです。
もちろん二人ともどちらか一方だけではないのですが、この二人の持っていた特徴・主の豊かな福音を心で感じ受け止めることと、それを理性で受け止めること。この二つは私たちにとって極めて重要です。聖霊の働きを感じない信仰はありませんし、理性的な理解を受け入れない狂信的な信仰は危険です。
使徒言行録は、様々な問題を抱えながら発展していく初代教会の様子を伝えていますが、15章にありますエルサレムでの使徒会義の中で、ペトロは言いました。「異邦人クリスチャンへ割礼を強制すべきではない。彼らも主イエスの恵みによって救われたのだから。」主の福音を深く理解しての言葉です。しかし、これ以降ペトロが使徒言行録に登場することはありません。使徒言行録はローマに至るまでのパウロの宣教に焦点を合わせるのです。繰り返しますが、ペトロもパウロも主の福音を、心と理性の双方で受け止めました。しかし、キリストに直接お会いした世代から次の世代へと移り、旧約聖書を通して信仰の訓練を受けていたユダヤ人から、異邦人にまで主の福音が及ぶにつれて、信仰を理性的に整理することの大切さが増したのです。「神様のご計画って本当に素晴らしいな!」と思う次第です。

大分横道に逸れてしまいました。「山上の変貌」。マタイ福音書17章4節までお読みしました。5節6節です。5 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。弟子たちはなぜそんなに恐れたのでしょうか? それは、神様の臨在を感じたからです。彼らはかつて神様がモーセ向かって言われた言葉 「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト33:20)この言葉を知っていたからです。
私たちはヨハネ福音書の言葉を知ります。 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(1:17,18)
私たちは、「天の国」に帰るその日まで、神様を見ることは出来ませんが主イエス・キリストを通して愛の神様を知ることが出来ます。神様は主イエスのことを「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」とおっしゃり、ペトロたちに「これに聞け」と命令されたのです。ペトロの手紙Ⅱ1章18節 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。 そして、神様が「これに聞け」と命じられた主イエスが、終末における「最後の審判」について語られたのですから、「巧みな作り話」であろうはずがありません。ペトロは自信を持って偽教師の考えを否定して、当時のクリスチャンに、そして私たちに語ります。
19節 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。預言者の言葉の代表は、あの山上で主イエスと語り合っていたモーセとエリヤの言葉ですが、ここでは旧約聖書全体と捉えるのが良いでしょう。もっと言えば愛の神様が私たちの幸せな人生の為に命じられた言葉です。「神と自分と隣人を愛しなさい。」この言葉から逸(そ)れることが罪であり、罪に誘い、私たちが罪を犯すのを喜ぶのが悪魔です。「最後の審判」に於いて滅ぼされます。しかし、現代において悪魔は元気ですから、私たちにとって「最後の審判」は悪魔が滅ぼされる希望の時なのです。

最初に司式の山口長老に詩編119編105節以下を読んでいただきました詩人の信仰告白であり祈りの言葉です。119:105 あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。今この様に主のみ前で礼拝をささげる時に、私も全く同じ思いです。106 わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります。今この様に言い切る勇気を持ちたいと思います。空(から)約束に終わってはいけないと思います。107 わたしは甚だしく卑(いや)しめられています。主よ、御言葉のとおり 命を得させてください。 私が卑(いや)しめられているのは、何よりも自分の罪によってです。108 わたしの口が進んでささげる祈りを 主よ、どうか受け入れ あなたの裁きを教えてください。 私の罪が裁かれるのであれば、それは愛の裁きによって、すでに済んでいます。主イエス・キリストが私の罪をすでに負ってくださったからです。その私の生き方は二通りあります。主に従い主の愛の中を歩む道と、偽教師たちの様に、「もはや罪に問われることは無い」と言って放蕩生活を送るのかのどちらかです。

ペトロは言います。1章19節 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、即ち主イエスが再び来て下さり「最後の審判」を行って悪を完全に滅ぼしてくださる約束の時までです。その時をどの様にして待つのでしょうか? 
パウロの言葉を二つ聞きましょう。ローマの信徒への手紙13章12節以下です。 12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
エフェソの信徒への手紙6章10節以下です。小見出しに「悪と戦え」とあります。6:10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 私たちが戦うべき真の相手は神様の愛から私たちが離れてしまうことを最大の喜びとする悪魔です。その試みはいつの時代にあっても極めて巧妙です。13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。18 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。信仰に立って、真理と正義と平和、そして主の福音を人に伝えるために祈りつつ働く。そんな私たちに悪魔が付け入る隙はありません。
しかし、弱さを抱えた私たちです。週ごとに兄弟姉妹が共に集って捧げる礼拝は喜びの時だけではありません。悪魔が一番嫌う時と場所に私たちは今いるのです。大きな恵みです。 そして、それを知る私たちは集うことの叶わない方の為に祈るのです。20節21節。何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。 キリストを頭とする教会の礼拝に於いて、聖書を解き明かす説教を大切にします。私たち改革長老教会の伝統です。聖書のみ言葉を自分勝手に解釈してはいけない。ペトロは偽教師たちが語る誤った福音理解を思いながらこの様に述べます。CSの説教であれ、主日礼拝での説教であれ、説教の導き手は聖霊です。しかし、様々に語られた聖書のみ言葉は様々な解釈を生む可能性を持っています。解釈の規範を与えるのが、日本基督教団の教団総会において、聖霊の導きの許に告白された日本基督教団信仰告白です。説教はこの信仰告白の範囲を超えること、例えば三位一体の神を否定することなどは許されません。そして、長老会は説教者の説教が、信仰告白の語る福音に依っているか否かを監視する義務を負っているのです。
本日の説教題を「キリストの栄光」としました。キリストの栄光は様々な暗さの伴う現代にあって、私たちを導くともし火です。何が真理であり、どこに向かって歩むべきかを示してくれます。私たちは主の日の礼拝を中心にして、主の愛の中を歩むことで、必ずや「キリストの栄光」を表すことが出来るのです。祈りましょう