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山形六日町教会

2022年2月20日

聖書:イザヤ書58章6~8節 マタイによる福音書25章31~46節
「私にしてくれたこと」波多野保夫牧師

説教シリーズ「たとえて言えば」の14回目です。主イエスは私たちの信仰の中心にある大切な内容を、譬えを用いて解き明かしてくださいました。マタイ福音書からすでに13回に渡って聞いて来ましたが、多くは「天の国」について語られたものす。30歳になられた主はエルサレムから遠く離れたガリラヤで、宣教活動を始められたのですが、その第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)でした。さらに、5章から7章に及ぶ長い説教は「山上の説教」と呼ばれますが、「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)この様に語り始められたのです。「天の国」は他の3つの福音書、あるいは使徒言行録や数々の書簡では「神の国」と呼ばれていますが、その指し示すところは同じです。神様の支配が完全に行き渡った場所であり時です。さらに、主イエス・キリストが地上に来てくださったことに依って、「天の国」あるいは「神の国」はすでに地上に到達しており、それが主イエスお一人を頭とする地上の教会です。私たちは「天の国」、すなわち神様の愛がすべてを支配する素晴らしい世界のひな型をすでに見て知っている数少ない者なのです。そんな私たちには、地域に、園や学校に、さらにそれぞれの家庭に「天の国」の平安と喜びを広める務めが与えられています。大変光栄なことですが、思うようには進みません。途方にくれてしまう現実があります。
しかし、そんな私たちに慰めと勇気を与えてくれるみ言葉を二つお読みします。 マタイ福音書6章33節34節。6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。マタイ福音書11章28節から30節。11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。 伝道がなかなか進まない現実があります。身近な者になればなるほど伝道の難しさを感じる現実があります。しかし、主が共に負ってくださる軛です。聖霊の助けを祈り求めて行きましょう。
 
さて、日曜日に民衆が大歓迎する中、ろばに乗ってエルサレムに入城された主イエスは、その週の金曜日に十字架に架けられました。緊迫した日々の中で語られた「婚宴」の譬えでは、礼服を着ないで入って来たものに対して『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』と語り、「忠実な僕と悪い僕」の譬えでは、悪い僕は泣きわめいて歯ぎしりをし、「十人のおとめ」の譬えでは戸を開けてもらえません。
そして「タラントン」の譬えでは、終末の時に主が再び地上に来られて行われる「裁き」が語られます。「最後の審判」と呼ばれます。「私の地上での働きはまもなく終わる。これだけは理解して欲しいのだ。」この思いで必死に語られたのです。愛する弟子たちに、そして私たちにです。ヨハネによる福音書5章28節以下です。5:28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、29 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。30 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。それが何時なのかは神様だけがご存知なのですが、「最後の審判」の時にはすでに亡くなった者も含めてすべての者が裁きを受けなければなりません。当然私たちも含まれます。
本日与えられました25章31節以下は小見出しに「すべての民を裁く」とあり、「最後の審判」の様子が語られています。
旧約聖書の世界においては、神様がイスラエル民族を選び、律法に従うことで幸せな人生を送る様に導かれたのですが、その導きに従うことはありませんでした。2000年前の主の誕生と十字架での死によって、今や私たちを含めて、すべての民が神の恵みの許にあるのですから、「最後の審判」において例外はありません。「すべての民が主によって裁かれる」のです。 31節以下です。25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33 羊を右に、山羊を左に置く。
羊と山羊の話から始めましょう。羊と同じように右側に分けられた人たちは誉められ、山羊と同じように左側に分けられた人たちは非難されました。以前から何で羊が良くて山羊が悪いのか不思議に思っていました。
創世記によればイスラエル民族の祖先、アブラハムは牛と山羊と羊を飼う遊牧民でした。(創世記15:9)時代が下ってエジプトを脱出したイスラエル民族がカナンの地に定住し、農耕生活を始めた後も牛と山羊と羊は大切な家畜であり、神殿での捧げものであり続けました。アドベントやクリスマスに良く読まれますイザヤ書11章はエッサイの子孫から平和の君、救い主イエス・キリストが生まれると預言しますが、6節7節です。11:6 狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。7 牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。 羊と山羊と牛が大切にされ狼や豹(ひょう)や熊から守られていたことが分かります。この様に旧約聖書に山羊は何度も登場します。
ところが新約聖書では、本日の箇所を除くとたった6回だけです。福音書では、放蕩息子の兄が父親に向かって不満をぶつける場面です。「私のためには子山羊一匹もくれなかった。それなのにあの放蕩息子が返ってくると子牛をほふって大歓迎をして迎えた。」この一か所だけです。その一方で、羊は繰り返し登場します。主イエスの時代に山羊はもはや飼われなくなったわけではありません。なぜこんなに差があるのでしょうか?
ヒントはイエス様がご自分を羊飼いにたとえられていることにあります。ヨハネ福音書10章14節15節。 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 羊と山羊は遺伝的にかなり隔たった動物で、羊が大人しく臆病で従順な性格なのに対して、山羊は活発で好奇心が強く強情だそうです。何よりも私たちの幸せを願われた主は、羊飼いに素直に従う羊の姿に、ご自分と私たちの正しい関係をご覧になったのです。今日のたとえ話では、羊は永遠の命に与る者たちに、山羊は永遠の罰を受ける者たちにたとえられています。山羊がかわいそうに思われますが神様が従順さを求められていることを学びたいと思います。私の疑問に時間を取ってしまいました。先に進みましょう。
「最後の審判」です。主イエスは右側に分けられている人に向かっておっしゃいます。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』 「天の国」に入りなさい。とおっしゃった判決理由です。『お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
これに対して祝福された人たちは質問します。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
主イエスの答えです。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
次に主イエスは左側に分けられている人に向かって裁きの言葉をおっしゃいます。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。』 大変厳しい判決です。
その理由として。祝福された人たちに言われた判決理由を否定の言葉として、「しなかったからだ」言われます。「そんなことがあったでしょうか」と呪われた人が問うと、『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』とおっしゃったのです。
たとえをまとめてみましょう。最後の審判に於いて問題とされるのは、
① もっとも小さい者が困っている時に助けたか助けなかったか
② もっとも小さい者に対して行った愛の業は、神様に対して行ったことと等しい。反対にしなかったことも神様に対してしなかったことになる
これって、いかがでしょうか? 「神様と隣人を愛したのか?」それとも「愛さなかったのか?」 このことが問われる。裁きの基準はここにあると言われているのではないでしょうか?!
トルストイが書いた『愛あるに所に神あり』と言う短編が思いおこされます。『靴屋のマルチンさん』として広く知られており、以前に何回か説教の中でお話しましたが繰り返しましょう。最愛の奥さんと一人息子に先立たれて酒に溺れる日々を過ごしていたマルチンさんを訪ねた牧師が慰めの言葉とともに、聖書を置いて行きました。気乗りのしない靴の修理の傍ら、何気なくページをめくってみました。マタイ福音書 5章4節。 悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。11章28節 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。やがて眠り込んでしまったマルチンさんに夢の中でイエス様がおっしゃいました。「明日お前をたずねていくよ。」朝から、火を起しスープを造りイエス様を待ちますが陽が暮れてもいらっしゃいません。その日マルチンさんは、凍える寒さの中で働く雪かきの人を中に入れて暖をとらせ、乳飲み子を抱え雪の中を行く母親に温かいスープを振舞い、リンゴを盗んだ子を諭したのでした。夜の祈りの中での主の言葉は「これら最も小さい者にしたのは、私にしてくれたのだよ。」
皆さんなら、どの様にしてイエス様をお迎えするのでしょうか?「私なら、まず部屋を片付けて掃除をします。玄関も箒で掃き打ち水をします。素敵な食事を準備しハレルヤコーラスのCDも必要です。ワインが無くなった時の為に、水差しに水を用意しておきます。最後に聖書を持ってきて溜ったほこりを払いテーブルの隅に置きます。チョット服装も気にして最高のおもてなしでお迎えすします。」喜んでくださるか疑問ですが。実はこの『靴屋のマルチン』の話、私は苦手なんです。多くの牧師が経験するのですが、教会には明らかにお金をせびる人が訪ねて来たり、電話をかけて来ます。先輩牧師から、「まず状況をチャント聞いてあげる。原則として食べ物はあげるがお金はあげないで交番を紹介する。」交番では公衆接遇弁償費と言って、財布を落とした時など、帰りの交通費として1000円程度貸してくれるそうです。「さらにもっと根本的なお金の必要に対しては、市役所であり社会福祉事務所などが対応してくれる。」この様に教えられました。正しい対応ですが、実際の場面になると『靴屋のマルチンさん』が頭をよぎるのです。
25章42節43節。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。そして46節 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。「波多野先生。私は洗礼を受けていますけど、いつも「神様と隣人を愛している」なんて出来ません。でも、先生は「洗礼を受けた者は救われる」っていつも言っているじゃないですか! 私は羊なんですか? 山羊なんですか?」 大切な質問ですね。答えを言えばあなたは羊です。そしてまだ洗礼を受けていない方は羊の群れへと招かれています。
聖書の言葉をお読みします。使徒言行録2章21節。使徒ペトロは旧約聖書を引用して言います。主の名を呼び求める者は皆、救われる。 ローマの信徒への手紙10章13節。使徒パウロの言葉です。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ヨハネによる福音書3章5節以下、イエス様の言葉です。 はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。水と霊によって新たに生まれ神様の愛の中を生きる者としていただく。これが洗礼です。主イエス・キリストを救い主と信じ従うことを誓約します。これが洗礼です。ですから、すでに洗礼を受けたあなたは羊です。そしてまだ洗礼を受けていない方は羊の群れへと招かれているのです。
「でも、波多野先生。天の国が約束されているのなら、あの放蕩息子みたいなのは別にしても、疲れた日曜日は朝寝坊したほうが得じゃないですか?」確かに、私たちには信仰が弱まることがあります。ローマの信徒への手紙14章1節 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。 ある聖書はこの部分を「信仰において弱くなっている者を、あなたがたは受け容れなさい。」(岩波訳)と翻訳しています。両方の訳を活かせば「洗礼に至っていない人も洗礼は受けたが信仰が弱くなっている人も、教会は受け入れなさい。」となります。確かに信仰が弱くなる。礼拝に足が向かない、祈れない、聖書を読まない、日々の生活が乱れている。信仰の危機であり人生の危機です。悪魔がほくそ笑んでいることでしょう。原因は様々です。つらい事、悲しい事、許せないこともあるでしょうし、忙しい事、あるいは病が、またこの世の楽しみがそうさせることもあれば、すべてが順調な時も危険です。神様の恵みを忘れさせます。しかし、神様の愛が変わることはありません。教会の祈りも変わることがありません。 信仰が弱くならないために一つの良い方法があります。35節 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。 神様と隣人を愛するのです。そして、これこそが自分を愛することなのです。幸せな人生のキーワードです。「でも、いつもと言うわけにはいきません。」 大丈夫です。私たちは敗れた時に帰る場所があります。主の十字架の許に帰るのです。主にある兄弟姉妹と共に礼拝するのです。祈るのです。 ある、会社の社長さんが関連の深い高校の卒業式で送った言葉です。「みなさんは、困っている誰かのために働く優しい人になっていただきたい。皆さんなら必ずできる。これからは会社を支える人材としてその人生が笑顔にあふれ、幸せなものになるよう、私自身、全身全霊でサポートしていきます。」 私たちは次の言葉を聞きましょう。「みなさんは、困っている誰かのために働く優しい人になっていただきたい。皆さんなら必ずできる。これからも教会を支える人材としてその人生が笑顔にあふれ、幸せなものになるよう、私主イエスは、全身全霊であなたをサポートしていきます。」 祈りましょう。