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山形六日町教会

2022年1月30日

聖書:箴言29章25~27節 使徒言行録24章24~27節
「正義、節制、そして裁き」波多野保夫牧師

この説教シリーズ「気概を示す」では、エステルやナオミ、3人のマリアやレプタ1枚をささげた貧しいやもめなど、聖書に登場する主に女性が見せた気概、即ち神様を信頼し様々な重荷に立ち向かった姿を見てきました。なぜ女性かと言いますと、ユダヤの社会では女性の地位は極めて低かったからです。女性は裁判において証人になることが出来なかったそうです。しかし、そんな時代にあっても聖書は女性たちの見せる神様への深い信仰と信頼を語っています。まさに男女共同参画社会の実現です。蛇足ですが現代日本には1999年に制定された「男女共同参画社会基本法」があり、その第2条は次の様に述べています。【男女共同参画社会とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」です。】 そうでないからこそこの様な法律が存在しているのではないか?と思ってしまいますがいかがでしょうか?
しかし、教会ではこれは2000年前から違います。パウロの言葉です。3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。(ガラテヤの信徒への手紙3:26-28)それだけではありません。世界的に見て多くの教会が多くの女性たちによって支えられている現実があります。

さて、先ほど司式の山口長老に読んでいただいた本日の聖書箇所、使徒言行録24章24節以下に登場する女性は、ローマ総督フェリクスの妻ドルシラただ一人でした。実は彼女の名前が聖書に登場するのは、後にも先にもこの一回だけです。 そんな彼女がどんな気概を示したのだろうか?この24節に何かドルシラの気概が現れているのだろうか? 実は彼女の気概は記されていません。ではなぜ彼女が選ばれたのでしょうか?
まず、夫のフェリクスから始めましょう。彼は使徒言行録23章と24章に登場するのですが、あのポンテオ・ピラトの6代後になるローマ帝国のユダヤ総督です。
パウロは第3次伝道旅行の途中、各地にできた教会からの献金をエルサレム教会に届けに行った際に、神殿で主の福音を語り伝えていることでユダヤ人たちによって、殺されそうになりました。その時ローマの千人隊長に保護され、ユダヤの最高法院で弁明の機会が与えられたのですが、主の復活の話をすると強い反感をかい、パウロを暗殺しようとする40人以上の者に狙われるようになったのです。そんな彼はローマの市民権を持っていましたから千人隊長はパウロをカイサリアにいる総督フェリクスの許に送ったのです。ただし、それはエルサレム市内に騒乱を引き起こした犯罪者として総督による裁判を受けさせるためでした。
しかし、このローマ総督フェリクスですが、評判は良くありません。皇帝の歓心を買うためでしょう、エルサレム神殿に皇帝の像を建ててユダヤ人の暴動を引き起こしたり、ローマへの反逆者を残忍な方法で処刑したりしました。あまりの圧政にユダヤ人たちはローマに代表を送りネロ皇帝に直訴したそうです。 これらの出来事は聖書には書かれていませんが、二人のローマの歴史家が書き残しています。ヨセフスの『ユダヤ戦記』『ユダヤ古代誌』。あるいはタキトスの『年代記』と言った著作は、聖書の背景にあります当時の出来事を良く伝えてくれます。
それらによれば、ドルシラはフェリクスの3人目の妻でした。 彼女は24節に、ユダヤ人と記されていますが、ヘロデ大王の孫に当たります。彼女はガリラヤ湖よりも北になります現在のシリアに位置したエメサ王国のアジズス王と結婚しました。このドルシラは絶世の美女でアジズス王に求めた結婚の条件は「ユダヤ教に改宗すること」だったそうです。その彼女は16歳の時にフェリクスに見初められてアジズス王と離婚してフェリクスの3番目の妻となったのです。離婚をして、しかも異教徒であるローマ総督と結婚することは律法の定めに反することでした。
逮捕されたパウロがカイザリアのフェリクスの許に送られて来た時です。24章22節以下をお読みします。 24:22 フェリクスは、この道についてかなり詳しく知っていたので、「千人隊長リシアが下って来るのを待って、あなたたちの申し立てに対して判決を下すことにする」と言って裁判を延期した。23 そして、パウロを監禁するように、百人隊長に命じた。ただし、自由をある程度与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにさせた。24 数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。 
「この道について詳しく知っていた」とありますが「この道」とはキリスト教のことです。キリスト教は当時「ユダヤ教ナザレ派」と呼ばれユダヤ教の一つの分派と考えられていました。「唯一の神を父とするガリラヤ地方のナザレから出たイエスは、十字架に架けられて死んだ後に復活した救い主だ。」この様に弟子たちが主イエス・キリストの教えを広めていたからです。フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。
日本基督教団信仰告白は「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」この様に信仰の告白を始めますが、これはテモテへの手紙Ⅱの聖句を要約したものです。3:16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 ですからここでドルシラが登場する意味、それはパウロが話したとされる25節の言葉を導き、彼の主イエスへの信仰を私たちに伝える、その役割が聖霊によって与えられたからなのではないでしょうか。説教シリーズ「気概を示す」第30回のヒロインとして、ドルシラが選ばれた理由は、ただこの一点においてだけです。
すでに述べたように、最初の結婚の際に異教徒の王に求めたのはユダヤ教に改宗することでした。その後、律法に反しての離婚と、これも異教徒のユダヤ総督との再婚です。罪の意識があったに違いありません。そんな彼女の耳に「ユダヤ教ナザレ派」の教えが伝わり興味を覚えていたのでしょう。わざわざ夫のフェリクスと共にやって来て、パウロからキリスト・イエスへの信仰について、話を聞いたのです。彼女の反応は一切記されていませんが、主イエス・キリストが裁判にかけられた際のポンテオ・ピラトの妻のことが思い出されます。ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」(マタイ27:19)ピラトの妻は主イエスが正しい人だと見抜いていました。ドルシラもまたパウロが語る主イエス・キリストへの信仰を正しく聞き取ることが出来たのではないでしょうか。自分の犯した罪を悔いたのではないでしょうか。そうあって欲しいとの思いが湧いてくるのです。パウロが伝えた主の福音には、「罪と無縁でない私も主の救いに与ることが出来るのだ」と言う希望を与えてくれるのに十分な力があるからです。
25節です。パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言った。パウロが語ったのはキリスト・イエスへの信仰ですから、神の独り子、主イエスが救い主であり、罪を負っての十字架での死、3日目の復活など「正義や節制や来るべき裁き」だけではありませんでした。しかし、フェリクスの心に響いたのは「正義や節制や来るべき裁き」についてでした。なぜなら、パウロから金をもらおうとする様な下心をもって、度々パウロを呼び出しては話し合ったフェリクスだからです。彼は喜びの人生に至る主の福音を聞き逃したのです。

少し横道にそれるのですが、私はこの聖書箇所を以前からふしぎに思っていました。賄賂をもらって裁判結果を左右することはローマ法によって禁じられていましたが、最初に紹介した様に素行の良くなかったフェリクスです。ある程度の自由を与えたとはいえ、監禁しているパウロから、賄賂をせしめるなどと言うまだるっこしいことではなくて、奪い取ってしまえば済むのではないかと思ったのです。パウロは各地の教会からの献金をエルサレム教会に届けた後でしたが、彼の手元には各地の教会が伝道活動の為に送った献金が有ったはずです。あの良きサマリア人のたとえ話の様に、旅人を追いはぎが襲うことは珍しくなかった時代です。パウロがしかるべき額の現金を安全に持ち歩くことが出来たのかと言う疑問がありました。 実は来週の礼拝で「タラントンのたとえ」を聞くのですが、旅から帰った主人が怠惰な僕(しもべ)に言いました。「それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。」(マタイ25:27)ユダヤ人の銀行は紀元前600年頃のバビロン捕囚時代から存在していたそうです。パウロもこの様な銀行を利用していたのではないかと、一人で納得した次第です。
いずれにしろ彼は賄賂を支払って自由を得るよりも、監禁されることを選んだのです。2年間と言う長期に及んだこの期間は伝道に燃える彼にとって辛い期間であったように思われます。しかし、彼は祈りと思索の時として有効に用いたに違いありません。新約聖書にパウロが様々な教会に送った手紙が納められており、キリスト教信仰の神髄を2000年後の私たちに伝えてくれています。「或る程度の自由が与えられていた」とあります。面会を許されていた友人たちが教会に届けた手紙もあったでしょうし、パウロの教えを受けた弟子が当時の習慣に従って、後にパウロの名前で書いた手紙もあったことでしょう。いずれにしろ伝道者パウロは、フェリクスに監禁されながらも聖霊によって豊かに用いられた恵みの時間を過ごしたのです。ですから、この2年に及ぶ監禁の時は無駄な時間ではなく、神様のご計画の下にあったことを知るのです。
いかがでしょうか? 皆さんも自分の歩んで来た道を振り返って見れば、辛かった時期、思い悩んだ時期、何もしないで過ごしてしまった時期、あるいは逆に忙しさに追いまくられた時期などを振り返って見ると、今につながる貴重な時間だったと思えるのではないでしょうか? そんな時期をどう過ごすのか。最良の方法があります。礼拝に集い、聖書に親しみ、祈りの時を持つのです。なぜかと言えば、どんな時にあっても私たちを愛してやまない主イエス・キリストが共にいてくださることを強く感じることが出来るからです。
パウロがフェリクス夫妻に語った「正義や節制や来るべき裁き」に戻りましょう。彼が語った正義や節制は、まず二人の結婚に関しての指摘だったことでしょう。フェリクスは3度目の結婚ですしドルシラは2度目です。回数が多いことが直ちに非難されるものでないことは確かです。7人兄弟の長男と結婚したのですが、夫と死に別れる度に次の弟と結婚して行った女性は、復活の時に誰の妻となるのか? この様に問われた主が、その時はめとることも嫁ぐこともない。天使の様にあるのだと答えられたことがありました。しかし、ローマの歴史家の証言によれば、フェリクスは絶世の美女だったドルシラを見初め、魔術師を使って前の夫と離婚させたそうです。さらにローマ総督としての悪行はすでに述べましたし、そもそもパウロから賄賂をせしめようとするような人間です。倫理観にかけ正義や節制からはほど遠い男でした。 そんな人間ですから、パウロが「裁き」を話すと「恐ろしくなった」のです。ではパウロはどの様な「裁き」を語ったのでしょうか? 
コリントの信徒への手紙Ⅰ4章4節5節です。4:4 自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。5 ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。「フェリクスよ、終わりの日に主イエスが来られて、私もあなたもその裁きを受ける。その時すべての秘密は、心の中にあるものも含めてすべて明らかにされるのだ。」この様に語ったのでしょう。彼は恐ろしくなったとあります。夢の中にパウロが現れて「やがて主イエスが来られて、しまい込んだ秘密や密かな企てを明らかにされる。そして裁きを下される。」こんなことを言われたとしたら、じっとりと寝汗をかいてしまいそうです。いかがでしょうか? パウロは自分には何もやましいところはないが と言います。でも彼は、クリスチャンを脅迫して殺そうとしてダマスコに行く途中で、復活された主にお会いしたのでした。そんな過去を持つ彼が自分には何もやましいところはないと言うのです。パウロが厚顔無恥なのでしょうか。そうではありません。主イエス・キリストがそんな自分の為に十字架に架ってくださったのだ。その事実を認めて、過去の罪を反省し主に従う人生を歩んだのです。
そして、これが実は私たちなのです。「波多野先生、私は確かにイエス様に従って行こうと思って洗礼を受けました。でも、時々「神と自分と隣人を愛すること」から離れてしまいます。礼拝から遠ざかったり、聖書を読めなかったり、祈らなかったり、そんなことが起きるのです。パウロとは違うのです。」 確かにそんな時はあるでしょう。「罪」の誘惑に負けることはあるでしょう。実はパウロもそうでした。彼は言うのです。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。(テモテへの手紙Ⅰ 1:15) 
主は何回まで人を許せばよいのですか? と問われた時におっしゃいました。。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」 これは「490回まで赦しなさい」ではありません。無限に赦しなさい、なぜなら神様があなたをそうなさるのだから! 確かにクリスチャンも罪を犯します。「波多野先生、それでは信仰を持っても持たなくても同じじゃないですか?」 いえ、違います。その違いは、罪を犯したことに気づきが与えられること。そして、その時に主の十字架の許に帰れば良いと知っていることです。 フェリクスとドルシラにとって大変残念だったことは、彼が自分の地位を守ることに加え、賄賂を要求するほどまでに富の欲望に支配されて、パウロを通して正しい信仰に至るチャンスを逃したことです。

最初に読んでいただいた箴言の言葉をもう一度お読みします。29:25 人は恐怖の罠にかかる。主を信頼する者は高い所に置かれる。29:26 支配者の御機嫌をうかがう者は多い。しかし、人を裁くのは主である。29:27 神に従う人は悪を行う者を憎む。神に逆らう者は正しく歩む人を憎む。 最後に忘れてはならないことがあります。主イエス・キリストが十字架に架ってくださったのは、私達の為だけではありません。フェリクスとドルシラの為にも十字架に架られたのです。聖書はこの二人のその後を語りません。2022年の世界においても、残念なことにこの二人の様な人、神に逆らい正しい人を憎む者は大勢います。そんな人に向かって私たちが出来ること、それはパウロが伝えてくれた主の福音を今度は私たちが伝えること。そしてたとえ敵であっても神様に近づくようにと祈ることなのです。祈りましょう。