HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2022年1月23日

山形六日町教会

2022年1月23日

聖書:創世記41章32~36節 マタイによる福音書25章1~13節
「賢いおとめたち」波多野保夫牧師

説教シリーズ「たとえて言えば」の12回目です。この説教シリーズでは、毎回福音書に多くあります、主イエスが譬えを用いて語られた教えをとり上げています。ご一緒に聴いてきましたマタイ13章では「天の御国」について、譬えを用いて集中的に語っていらっしゃいますが、「種を蒔く人」の譬えを語られた時でした。弟子たちが、「なぜ、大勢の群衆に向かって、たとえを用いてお話しになるのですか?」と問うのに対して答えられました。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。」(マタイ13:10-17)持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。これは、ニュース解説などで言われます経済格差拡大のことでも、才能や学校の成績のことでもありません。
主の御許には多くの人が集まって来ました。日々の糧に困っている者、身体や心の病に苦しむ者、ローマ帝国の支配を良しとしない者など多くの人が集まって来ました。そして福音の言葉を耳にし、癒しを与えて頂いたのです。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。とおっしゃったのは、それにもかかわらず、主イエスを救い主と信じて従う者が少なかった、天の国の秘密、すなわち神様の大いなる愛のご計画を理解する者が少なかったからなのです。自分の「罪」、すなわち「神様と自分と隣人を愛すること」との隔たりを謙虚に認め、悔い改めて主の福音を信じる人の信仰は、主イエスにお会いし、その言葉と福音に接することでますます豊かになります。生ける神の子に触れることで信仰は成長します。しかし、そうでない人。謙虚さを失っている人達は、最終的には主イエスを十字架に架ける悪だくみに加担することになるのです。謙虚さに裏打ちされた信仰を持っていない人は持っているものまでも取り上げられたのです。
さらに 同じ13章には イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」(13:34,35)この様にもあります。
たとえに用いられた出来事は、当時のイスラエルの人にとってなじみのある事柄でした。ですからとっつきやすい話です。しかし、その奥には預言者が語ったこと、即ち神様がメシアを送ってくださるほどに、人々を愛してくださっている。この事実があるのです。時々に語られた話を聞いた人が「今日は良い話を聞いて心が温まった。さすがイエスは話し上手だ。」この様な反応を示すのであれば、主にとってそれほどの悲しみは無いでしょう。
見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。私たちが理解するとはどういうことでしょうか? 「もういい。わかった、わかった。」これほどわかっていないことはないですね。主の福音の素晴らしさを本当に理解するとは、主を愛する者となり、主に従って生きる。そして幸せな人生を歩む。これで初めて「理解できた」と言えるのではないでしょうか。
主はたとえを用いて語られました。私たちは当時の人々と全く異なった時代であり、政治状況であり、また生活習慣の中で2022年を生きています。これは譬えの意味を理解するうえでの大きなハンディです。しかし、私たちはこの後に起こったこと。主の十字架と復活、聖霊による教会の誕生と発展。これらを聖書の証言によって知っています。主の語られた、譬えを理解する上で、これは大きなメリットです。

本日与えられた「十人のおとめ」の譬えをご一緒に聴いて参りましょう。まず、天の国は次のようにたとえられる。と語り始められますが、登場する花婿は主イエス・キリスト。迎える花嫁は教会です。たとえ全体は終末について、即ち十字架と復活の出来事があり、現在「天の国」で神様の右にいらっしゃる主イエス・キリストが再び地上に来られる日がこの譬えの主題です。しかし私たちの希望の日、終末は2022年においても未だに現実のものとなっていません。いわゆる「終末の遅れ」に関しては2週間前の1月9日に「万物の終わりが迫っています。」と語り始めるペトロの言葉を聞きました。(ペトロの手紙Ⅰ4:7-11)それに続く彼の言葉は、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。まさに主の愛は私たちに迫っているのです。そして申し上げました。「終末の出来事は、主の愛に生きる教会において既に始まっているのだ。しかもこの礼拝の時が最高の恵みの時なのだ。だから私たちは共に集い得ない方を覚えて祈るのだ。」この恵みを覚えながら「十人の乙女」の譬えを聞いて行きましょう。
最後の12章13節です。25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。主は終末への備えとして、私たちにこのことを理解してほしいのです。マタイ福音書は21章で、日曜日に大勢の群衆の大歓迎を受けてエルサレムに入城されたことを伝えます。26章以降は、5日後の木曜日の晩の出来事です。最後の晩餐での聖餐の制定、ゲッセマネの園での祈り、そして十字架への道を歩まれました。この5日間ほどの間に、主は弟子たちに向かって5回も「目を覚ましていなさい」「目を覚まして祈っていなさい」この様におっしゃっています。迫って来る十字架の時を前にしてペトロを始めとする弟子たちに「罪を犯したことが全くない私が、あなたがたの為に十字架にかからなければならないのだ。だからしっかり目を覚まして、これから起こる出来事を見届けなさい。そこにある神様の愛のご計画を見届けなさい。そして見届けたことをしっかりと人々に証ししなさい。この時、悪魔が猛威をふるって勝利を収める様に見えるかも知れない。しかし、私は必ず勝利する。惑わされてはいけない。祈っていなさい。」弟子たちに向かって、この様におっしゃいました。
現代においても私たちの周りには「悪魔の試み」「悪魔の誘惑」が多くあります。主イエスに敗れた悪魔ですが、元気を取り戻して私たちを付け狙っています。主は私たちにもおっしゃるのです。「目を覚ましていなさい」「目を覚まして祈っていなさい」「私はかならずあなたがたの所に行くのだから」。

さてユダヤの結婚式です。私たちの知る結婚であり、結婚式とはかなり違っており、3つの段階がありました。子供の頃両親が決める場合も有ったそうですが、二人の合意によって婚約します。期間は通常1年程でしたが、婚約には、律法に基づいた法的な拘束力がありました。クリスマスイブのキャンドルサービスの際に読んでいただいたマタイ福音書です。1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。婚約中のマリアとヨセフでしたが「夫ヨセフ」と呼ばれています。婚約の解消には法的な離婚手続きが必要でした。1年程の婚約期間に同棲することは認められません。マリアがみごもったことに深く悩むヨセフでしたが、24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
結婚式に戻りましょう。晴れて結婚の時を迎えると町中が総出でその準備をし祝います。1週間に及ぶ披露宴は、娯楽の少なかった時代にあって喜びに満ちたものでした。主が最初に奇跡を行われたカナでの婚礼がよく表しています。用意されたぶどう酒を飲み干してしまい足りなくなった時に、水瓶の水を最高級のぶどう酒に変えられたのです。(ヨハネ2:1-11)
さて、結婚式当日です。花婿は友人と共に花嫁の住む両親の家に向かいます。そしてそこに着くと婚約者を自分の妻だと公に宣言します。結婚の第2段階です。簡単すぎる様に思われるかも知れませんが、教会が出来たのは十字架と復活の後のことですし、町中がユダヤ教徒だった時代、1年以上律法に従っての準備があったのです。そして第3段階では、花嫁の実家から二人の新居へと向かい、そこで1週間に及ぶ盛大な結婚披露宴に臨むのです。新婚旅行に行くことはありませんでした。花嫁は先に新居に行って花婿の到着を待ちます。花婿の到着は夜、即ちユダヤの一日の始まりの頃です。新婦の友人なのでしょう、やって来る花婿を出迎える10人の乙女が登場します。灯を持って家の外で花婿の到着を待つのです。この時、花婿の到着が遅れたとあります。町をあげてのお祝いなので、花婿は出来るだけ広く町を回って皆から祝福を受けていました。十人の乙女たちは美容院に行ったのかは分かりませんが、様々な準備を整えてこの役目に付いた疲れからか、遅い花婿の到着に待ちくたびれて眠気に耐えられず眠り込んでしまいました。山形の今日の寒さを思うと、夜に家の外で人を待つことや、まして眠り込んでしまうことなど考えられません。でも、ここはパレスチナの地ですから外で眠り込んでも風邪を引くことはありません。気持ちよく舟をこいでいた時です。『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がしたのです。この時、乙女たちが二つのグループに分かれていたことがハッキリしました。油を用意していた賢い5人と用意していなかった5人です。 8節から10節です。25:8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 
いくつかの疑問が湧きます。たとえ話ですから、油、ともし火とは何なのか? 婚宴とは? 花婿はだれ? なぜ賢い乙女たちは油を分けてあげないのか? そもそも二人で一つのともし火をもって花婿を出迎えれば済むじゃないか。 11節12節。25:11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 一旦締めてしまった戸を開けて愚かな者たちを入れてあげれば良いじゃないか! それを『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答える。なんて冷たい主人なんだろう。 「天の国」のたとえでした。ともし火は愛、油は信仰、花婿は主イエス、婚宴は花婿と共に過ごす天の国での喜びの日々、乙女たちは私達たち。だとしたら、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。これは二様(ふたよう)に解釈できます。一つは、いわゆる終末の遅れです。主が再び来てこの世の悪を滅ぼしてくださる。その希望の時がなかなか来ないので信仰が揺らいでいる状態です。
もう一つは、すでに教会において始まっている終末の時に気づくのが遅れ、信仰が揺らぐことです。いずれにしろ、その症状として礼拝との距離を置くこと、聖書に親しみ祈りの機会が減ることなどがあるでしょう。その結果油が無くなるとすれば「愛のともし火」が消えかかります。「神と自分と隣人を愛する」ことがおろそかになるでしょう。
「波多野先生、そんなことありません信仰と愛とは別です。」確かに愛の行いはクリスチャンだけのものではありません。しかし、人の愛であり、愛の行いが揺らぎやすいのもまた事実です。悪魔が大嫌いな「愛」と言う敵を打ち負かそうと襲い掛かる。そんな様子が想像できます。しかし、信仰に立ったキリストの似姿としての愛は揺らぎません。 油を分けてあげれば良いではないか! 私は「信仰は分かち合うと減るものではありません。増えるのです。」この様に申しあげています。信仰を伝えることは出来ますし、大切なイエス様のご命令です。しかし、それは自分が与えられたものを減らして相手にあげることは出来ません。
信仰は心の扉を自分で開けて、外にいる主をお迎えすることだからです。二人で一つの信仰を用いることも不可能です。3:20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。黙示録3章20節です。遅れてやって来た乙女たちのために天の扉が開かれることはありません。「ちょっと戸を開けてあげれば良いのに。なんて神様って冷たい方なんだろう。」この様に非難したくなるかも知れません。
ルカ福音書16章19節以下に「金持ちとラザロ」の譬えがあります。贅沢な暮らしをした金持ちと極貧の生活をした二人が亡くなりました。陰府に置かれ苦しみを味わった金持ちは言いました。「ラザロを私の家に遣わして5人の兄弟に悔い改めて神様に立ち返る様に伝えさせてください。」その答えは「聖書が伝える預言者たちの言葉に従わないのならラザロを復活させて遣わしても悔い改めないだろう。無駄だ。」
私たちは、預言者の言葉と、救い主、主イエス・キリストの言葉と、使徒たちの言葉、それらの全てを聖書を通して知っています。ですから神様が終末の時になって遅れて来た人の為に戸を開けてくださらないことを非難するのではなく、皆がともし火の油、即ち信仰を持って、主の祝宴に集うことが出来るように働くのです。神様を「冷たい方」と非難するのでなく、私たちが委ねられている働きをしっかり行うのです。
それでは人はどのような状況で心を開くことが多いのでしょうか?花婿がやって来たのはともし火を必要とする時間、夜でした。この世の暗闇の中にあって困難を覚え悩み苦しむ方を、信仰の油を燃やして、そこから出る明るさと暖かさとでもって、教会へ、主イエス・キリストへと導くのは、あなたであり、私です。もちろん信仰は聖霊によって与えられるものですから、その切っ掛けは様々です。千歳認定こども園の時代から教会学校へと進み洗礼に与る方、十字架の上、即ち人生の最後になって「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願い、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」との言葉をいただいた強盗は、天の国で主イエス・キリストと共に、婚宴の席に着くのです。すでにこの様に礼拝へと招かれている私たちは大いなる恵みを受けている者です。集うことが叶わない方の為に祈ります。
イエス様が再び来てくださる希望の日、終末に向かって私たちが用意する油は、共に礼拝に集うこと、日々祈り聖書に親しむことで絶えることはありません。そして灯(とも)し続ける灯火(ともしび)に悪魔は近づけません。隣人に主の福音のすばらしさを証し出来ます。これが私たちの「かしこさ」です。祈りましょう。