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山形六日町教会

2022年1月9日

聖書:士師記8章22~23節 ペトロの手紙Ⅰ4章7~11節
「恵みの管理者」波多野保夫牧師

早いもので、新年も九日目となりました。こども園、学校、仕事も始まり日常が戻ってきた感があります。しかし、本日は悲しいお知らせから始めなければなりません。先週は、長らく礼拝を共にしましたK姉が12月30日に神様のみ許に召されたお知らせでしたが、1月2日に上山教会のN牧師が主のみ許へと召されました。親しくお交わりをいただいたお二人です。神様の御許にあって安らぎを得ていらっしゃることは確かですが、地上の別れは痛みを伴います。特にご家族の上に主の豊かな顧(かえり)みがあります様にとお祈りします。

ペトロの手紙Ⅰ 4章11節です。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。この聖句でN牧師を思いおこし、さらに 奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。でK姉を思い起しながら本日の説教を準備しました。 それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。 本日与えられました、主のみ言葉を聞いて参りましょう。 ペトロは、万物の終わりが迫っています。この様に申します。「万物の終わり」とは、使徒信条が「神の右に座し給えり」と告白します様に、現在天の国にいらっしゃる主イエス・キリストが再び地上に来られて、最後の審判と呼ばれる裁きを行い、悪を完全に滅ぼされる日と言われます。
ですからクリスチャンにとって、この日は破滅の日ではなく、希望の日であり勝利の日なのです。なぜなら、キリストに従う者には救いが約束されている一方、まるで世界の支配であるかの様に振舞っている悪魔は完全にほろぼされる約束の日だからです。それではその約束の日はいつなのでしょうか? 主はおっしゃいました。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マルコ13:32,33)
ペトロは7節で万物の終わりが迫っています。と言うのですが、主はその時がいつなのかは天使も自分も知らない。父なる神様だけがご存知なのだとおっしゃいます。ペトロは主イエスが知らないことまで知っていたのでしょうか? 終末が一体いつやって来るのだろうか? 大きな苦しみの中にあった初期の教会にとってこれは大問題でした。一方、私たちは主イエスが神の子としての裁きを行ってくださる、そんな終末なんてものが本当にあるのか? この様に疑うのはまだしも、終末自体を気にも留めないという大問題を抱えているのではないでしょうか?
初期の教会は、終末はすぐにでも来るのだと考えており、いつまで苦しみに耐えなければならないのかと言う、切実なものでした。「終末の遅れ」と呼ばれます。彼らが終末は近いと理解したのには、根拠がありました。マルコ福音書によれば、主イエスが30歳になって始められた宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)でした。
パウロが西暦50年頃に書き送ったテサロニケの信徒への手紙Ⅰ 4章15節です。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。 テサロニケ教会の人たちが生きているうちに終末は来るのだと考えていた様です。 それから50年程経った、一世紀の終わりころには、教会の発展に伴ってローマ帝国の迫害も厳しさを増していました。しかし、終末はやって来ません。「終末の遅れ」は教会の大きな問題となっていたのです。
ペトロの手紙Ⅱです。3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
ペトロの手紙Ⅰで万物の終わりが迫っています。と述べたペトロは、二番目の手紙でその遅れは、多くの人が「罪」を悔い改めて神様に従う者となり、終末の時に恵みに与ることが出来るようにと、裁きの時を待ってくださっているのだ。この様に述べるのです。彼が祈りの中で与えられた答でしょう。
長々と「終末の遅れ」について語りましたが、この問題を一旦おいてペトロの手紙を読み進めましょう。ペトロは、終末の時が迫っているのだから、あるいは神様が終末の時を待ってくださっているのだから、と言って9節から11節にかけて5つの行動を求めます。 「不平を言わない」「もてなす」「互いに仕える」「神の言葉を語る」「奉仕する」の5つです。 まず「不平を言わない」です。不平は、自分の思い描いたようにことが進まないで満たされない気持ちのはけ口です。そしてその相手は、家族、友人、周囲の人、社会や国、そして神様。自分に対してと言うのもありますし、教会に対してもあります。主は「神様と自分と隣人を愛しなさい。」とおっしゃったのですが、愛すべき相手が不平不満をぶつける対象になってしまいます。
聖書はどの様な不平不満を描いているのか見てみましょう。出エジプト記は民の不平不満と主の愛が織り成す物語です。モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。(出エジプト記15:22,24)エジプトから救い出された直後のことです。その時、主は苦い水を甘い水に変えてくださいました。 イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」(同16:1-3)その時、主はウズラやマナでもって民を養われました。
イスラエルの人々は一斉にモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。」(民数記14:2-3) この様にエジプトでの奴隷生活から解放してくださった方の愛を忘れ不平を言いました。私たちは地位や名誉、お金や財産、成績、出世などの奴隷とならない注意が必要です。
さらにモーセまでもが神様に向かって言うのです。 わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます。どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ、殺してください。あなたの恵みを得ているのであれば、どうかわたしを苦しみに遭わせないでください。(民数記11:14,15) 一人で負うことが出来ない、自分だけで解決できない。私たちは負のらせん階段を下りて行ってはいけません。いつも友として側(そば)にいてくださる主イエス・キリストを忘れてはいけません。
新約聖書の世界でも人々は不平を漏らします。ブドウ園の労働者です。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』(マタイ20:10--12) 神様がろくに仕事をしていない者にも自分と同じ恵みを与えられることを不満に思う。自分より努力をしていない者が賞賛されたり、出世をしていくことも往々にしてあるでしょう。 神様はおっしゃるのです。 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。(マタイ20:14,15)さらにこうおっしゃいます。このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。 今、この様にここに集って恵みの時をいただいている私たちは100万人ほどの山形県民の中では、明らかに先の者、先立って主の福音を知る者です。主のみ言葉を素直に受け入れる者でありたいと思います。
徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。(ルカ15:1,2) ファリサイ派や律法学者は当時の宗教指導者です。私たちは神様の一方的な恵みによって、多くの人に先立って教会に招かれ、十字架の出来事を知る者です。いただいた恵みを主の福音を知らない人と分かち合おうではありませんか。 
ヤコブの手紙5章8節9節。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。再び「終末の遅れ」が顔を出しますが、それには後ほど触れましょう。 主の祈りの中で「み心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈りますが、私は「み心」ではなく私心(わたしごころ)すなわち、自分の思いが天にも地にも実現します様にと祈っているのではないかと反省します。皆さんはいかがでしょうか?
ペトロが求める具体的行動の2番目は「もてなす」です。「おもてなし」は2013年の流行語大賞に選ばれましたが、旅館の女将(おかみ)の合言葉ではありません。当時ヨセフとマリアが泊まることが出来なかった宿屋は、荒れ野を旅する隊商たちが主な客で、旅人たちは一般の家庭に泊めてもらったそうです。「もてなし」は、心を込めて困難の中にある人を助ける、隣人を愛することの一つの表れです。「不平を言わずにしなさい」とわざわざ言い添えていることは、もてなした客の中に態度の悪い者がいたのでしょうか?2か月ほど前に主が語られた「婚宴の譬え」を聞きました。王様から招待を受けた人たちは、なんだかんだと理由を付けて宴会に行きませんでした。怒った王様は大通りで見かけた人達を招き入れたのです。一方的な恵みによって主の祝いの席に招いていただいた者たち。これはまさに私たちです。しかし、用意された礼服に着替えないでだらしない格好で婚宴に連なった者は、主の怒りを買いました。もちろん礼拝には正装して出席しましょうと言っているのではありません。
主イエスはおっしゃいます。まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。(ヨハネ4:23,24)聖霊の導きを願い真心をもって礼拝に集う。これが私たちの礼服です。「おもてなし」の話でした。もてなすことが隣人愛の表現だとすれば、礼拝に招かれることは、神様がわたしたちを「もてなして」くださっていることです。私たちはこの礼拝において、共にいてくださる方の愛を強く感じることが出来るからです。だとしたら、今度は私たちが隣人を招きたいと思います。 3番目は「互いに仕える」です。これは主がおっしゃったことと、行われたことを見れば十分です。マタイ福音書20章26節以下です。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。この様におっしゃった主は十字架の前の晩、弟子たちの足を洗ってくださったのです。当時足を洗うのは奴隷の仕事でした。
最後は「神の言葉を語る」と「奉仕する」です。最初にN牧師とK姉を思い起しながら本日の説教準備を行ったと申しましたが、「神の言葉を語る」のは牧師で、「奉仕」は信徒と言うことではありません。私たち長老教会の伝統の中では、礼拝での聖書の解き明かしは、主に牧師が担いますが、時として長老もその務めを負います。しかし、神様の言葉を語るのは礼拝の説教に留まりません。心に触れた聖書の言葉、あるいはふと気づかされた主の恵み。大いに語っていただきたいと思います。その際に感謝の祈りをもって語れば、語る言葉がより輝きます。 さて「奉仕です」これは教会員や教会に集う方、牧師も含めた全員です。ペトロは「力に応じて」と言います。私は献金に関していつも言います。「喜びの範囲でささげてください。ただし献金は余ったものをささげるのではないので、チョットだけ無理をしてください。神様がその無理を喜びに変えてくださるでしょう。」奉仕も同じです。「チョットだけ頑張ってください。」神様が心と体の筋肉を鍛えてくださいます。いつも言っていることを繰り返しましょう。「年をとったから、病気だから何も奉仕が出来ない。」ということはありません。どんな時でも祈ることは出来ます。すべての奉仕は祈ることから始まるのです。それでは、なんのために「神の言葉を語り、奉仕をする」のでしょうか?ペトロは言います。11節。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。
さて、ここで「終末の遅れ」の問題に戻ります。カール・バルトと言う神学者は、ローマの信徒への手紙の注解(『ローマ書1922年版』pp.605-606)の中で、「終末の到来はそもそも何年何月何日と言う日時の問題ではない。終末、即ち主イエス・キリストが再び来てくださる時が遅れているのではなく、愛を持って共にいてくださる方に、私たちが気づくことが遅れているのだ。」この様に述べています。獄中にあって、「主イエスが本当に救い主なのか」確信が持てないでいるバプテスマのヨハネに、主イエスは答えられました。 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。(マタイ11:5)確かにこれは終末の時に起こることです。終末は既に始まっているのです。そして私たちの日々において、主イエスの愛にハットして気づいた瞬間、私たちの心の中に住む悪、即ち悪魔に勝利できます。主に立ち返った私たちの勝利です。キリストを受け入れた人が増え、その人たちが主の愛に気づき、悪魔に勝利する。バルトによれば、これが待ち望む終末の到来ではないでしょうか。
4章7節のペトロの言葉。 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。まさに主の愛は私たちに迫っているのです。さらに10節 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。ペトロは言うのです。4章8節。 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。現在コロナ禍にあって、共に集い召された方に神様が注いでくださった大いなる愛に感謝する葬儀の時を持つことは困難です。そこでN牧師の愛唱聖句をお読みし、K姉の愛唱讃美歌を共に賛美したいと思います。コリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節から18節 パウロの言葉です。4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。4:17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。K姉の愛唱讃美歌「神ともにいまして」この後ご一緒に賛美しましょう。祈ります。