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山形六日町教会

2021年1月31日

聖書:民数記12章1~10節 ペトロの手紙Ⅰ4章8~11節
「モーセの姉ミリアム」波多野保夫牧師

この説教シリーズ「気概を示す」は旧約聖書エステル記が語ります、ペルシャ帝国の王クセルクセスの王妃にまでなったエステルが、命を懸けて神様に選ばれたユダヤの同胞を救った物語から始まりました。
毎回、聖書に登場します女性の示した気概を見ることで、私たち現代に生きるクリスチャンの気概を見つめ直していますが、現代と違って社会的な地位が男性に比べて極端に低かった時代における彼女たちの活躍は、様々な制約を乗り越えて主なる神へ信頼を寄せる、私たちが最も見習うべきものに気づきを与えてくれます。
しかし、今回21回と次回22回は少し趣(おもむき)が異なります。今回の登場人物は、ヒロインのミリアムに加えて、弟のアロン。さらにその弟のモーセの3人であり、次回はモーセに焦点を当てています。
ミリアムは旧約聖書、「出エジプト記」と「民数記」に登場します。出エジプト記の直前にあります創世記はヤコブに寵愛を受けた息子のヨセフが兄たちの反感を買って、エジプトに売られてしまったのですが、神様に与えられた豊かな才能によって、宰相にまでなり、ユダヤ地方を襲った飢饉のときに、父ヤコブと兄弟一行をエジプトに招き入れたことで終わりました。続く出エジプト記は、それから時が流れ、宰相ヨセフのことを知らない王の下で、イスラエルの人々が奴隷となっていた時代の話から始まります。出エジプト記1章7節以下です。 イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。この国を取るかもしれない。」エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。この苦しみの中でのイスラエルの人々の祈りを神様が聞き入れてくださり、モーセを指導者として、エジプトの地から乳と蜜の流れる約束の地、カナンへと導いてくださった、いわゆる出エジプトの出来事は出エジプト記と民数記に記されています。
モーセの誕生の様子を出エジプト記1章と2章から見ておきましょう。過酷な労働を与えたにも関わらず、増え続けるイスラエルの人々に恐怖を覚えたエジプトの1:22ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」この様な状況下でモーセの母は2:2身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。2:3 しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。2:4 その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、2:5 そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。籠を見つけたので、2:6 開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。2:7 そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」8 「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。9 王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、10 その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」
聖書はモーセの数奇な誕生の様子を伝えますが、ここで機転を利かせて王女に「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」と問い、実の母がモーセを育てることが出来るようにしたモーセの姉。聖書にその名前は記されていないのですが、これが本日のヒロイン、ミリアムだったと言われています。モーセが大きくなるまでエジプトの宮廷ではなく、ヘブライ人の家庭で育てられたことは非常に大切なことでした。宮廷で育ったのであれば、彼はあのピラミッドに描かれている、大地や天空の神、あるいは豊穣神など多神教に染まり、唯一の主なる神を知ることはなかったでしょう。苦しい生活の中にあっても主なる神に祈り従う家庭で彼は育ったのです。神様の大いなるご計画のためにミリアムは用いられました。ここでミリアムの弟でモーセの兄、アロンに触れておきましょう。出エジプト記4章にモーセがイスラエルの民のエジプト脱出のリーダーとして主によって立てられる場面が語られますが、彼はその重責から逃れるために4:10 モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」4:13 モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」モーセは神様からリーダーとしてエジプト脱出を導く様に告げられましたが、「自分は口下手だから群衆を導くことなどできない。」と言い逃れをしようとします。しかし、神様はすべてをお見通しです。4:14 主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。4:15 彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。
モーセには来週焦点を合わせたいと思いますが、ここで注目しておきたいことがあります。私たちの人生には様々な転換期が訪れます。進学、就職、結婚、出産、他にも様々なものがあり、全員に平等に訪れる死の時もそうでしょう。それは変化の時であります。希望に燃えることもあれば、不安に押しつぶされそうになることもあります。なぜでしょうか? それは未知との遭遇、すなわちどうなるのかわからないからではないでしょうか。 そんな時には、祈るのです。神様とのコミュニケーションの中で必ずや御心を示して下さいます。祈りの中で、あるいは夢の中で神様のお考えを聞いたように思うけどはっきりしないなら、長老さんや牧師と一緒に祈ってください。必ずや神様のお考え・神様があなたに望まれていることを、はっきりと聞くことが出来るでしょう。自分の思いに反して、しなければならないことが示された時、モーセの様に言い逃れをしても、ほとんど役に立たないようです。神様はすべてをご存知だから、と言うだけではありません。神様は私たちを深く愛してくださっているからです。そこには自分の思いを超えた、素晴らしい人生が待っているに違いありません。 この様にしてモーセの兄アロンには、弟モーセが告げる神様のお考えを人々に伝え説得する役目が与えられました。

さて本日のヒロイン、モーセとアロンの姉ミリアムが次に登場するのは、出エジプト記15章です。モーセとアロンが苦労の末、エジプトのファラオからイスラエル民族がエジプトを去る許可を得ることで、出エジプトの旅が始まりましたが、すぐに心変わりしたファラオの軍勢が迫ってきます。しかも行く手は海です。追手から逃れる術(すべ)はありません。そんな時に奇跡が起こりました。神が言われたとおりに、モーセが海に向かって手を差し伸べると、海が二つに割れ、彼らは海の中の乾いたところを進んでいくことが出来たのです。モーセが再び海に向かって手を差し伸べると、割れた海は元に戻り、ファラオの軍勢を飲み込んでしまったのです。
出エジプト記15章1節2節。 15:1 モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し 馬と乗り手を海に投げ込まれた。2 主はわたしの力、わたしの歌 主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。 彼らは主を礼拝したのです。そして20節21節。15:20 アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。21 ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し 馬と乗り手を海に投げ込まれた。ここで注意したいのは、ミリアムが「女預言者」と呼ばれていることです。預言者は神様のお考えを人々に伝えるために召し出され用いられます。しかし、モーセの誕生以降、出エジプトの旅の一つのハイライト、ファラオの追手から逃れて海を渡り、その感謝の礼拝をささげる時に至るまで、聖書はミリアムについて全く語らないのです。しかし、旧約聖書ミカ書6章4節に わたしはお前をエジプトの国から導き上り 奴隷の家から贖った。また、モーセとアロンとミリアムを お前の前に遣わした。 とあります。彼女は二人の弟、モーセとアロンを助けて神様の御心がなるように仕えていたのでしょう。出エジプト記はこの後、シナイ山でモーセに十戒が与えられたこと。帰りが遅いモーセに痺れを切らしたイスラエルの民に懇願されて、アロンが金の子牛を作ってしまったこと。40年間に及ぶ出エジプトの旅の最中、移動式の神殿として用いられた幕屋の詳細を述べて終わります。旅の様子は民数記に引き継がれます。1章1節です。 イスラエルの人々がエジプトの国を出た翌年の第二の月の一日、シナイの荒れ野にいたとき、主は臨在の幕屋でモーセに仰せになった。 民数記はこの様に始まりますが、本日のヒロイン、ミリアムが登場するのは、司式の山口長老に読んでいただいた 12章1節以下になります。ミリアムとアロンは、モーセがクシュの女性を妻にしていることで彼を非難し、「モーセはクシュの女を妻にしている」と言った。 クシュの女とは、モーセがエジプト脱出のリーダーとして神様に呼び出される以前に、ファラオの怒りを買ってエジプトから逃げ出した時期に結婚したツィポラと言う妻のことでした。ミリアムとアロンはズッと昔の結婚を問題として難癖をつけたのです。12章2節3節です。12:2 彼らは更に言った。「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか。」主はこれを聞かれた。3 モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。「ミリアムとアロン」と言われていることから、より強くモーセを非難したのはミリアムだったのでしょう。
「神様はモーセだけを通して御心を伝えられる。女預言者の私であり、祭司の役目も担っているアロンを通しても主は御心を伝えてくださっても良いではないか。」 神様の選びに対する彼女の不満は嫉妬心となり、全く問題ないモーセの結婚を非難したのです。
しかし、神様はミリアムの心の底も、モーセが この地上のだれにもまさって謙遜であった こともご存知であり、アロンとミリアムを幕屋の入り口に立たせておっしゃいました。「多くの預言者には幻や夢で語るが、モーセとだけは直接語り合う。あなたたちは何故、畏れもせず わたしの僕モーセを非難するのか。」 9 主は、彼らに対して憤り、去って行かれ、10 雲は幕屋を離れた。神様は憤って彼らを離れて行かれました。12:10 そのとき、見よ、ミリアムは重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。アロンはミリアムの方を振り向いた。見よ、彼女は重い皮膚病にかかっていた。
説教シリーズ「気概を示す」第21回のヒロイン、ミリアムはその妬みの心を嫌われた主なる神によって重い皮膚病にかかってしまいました。罰を受けたのです。
さて、今日は出エジプト記と民数記が語ります、イスラエル民族のエジプト脱出の物語を見てきましたが、私たち住む現代とは全く異なる古代の出来事です。ここから何を神様の御心として読取るのでしょうか?12章3節で神様は「モーセは誰にも勝って謙遜であった。」とおっしゃいます。聖書が告げる「謙遜」について週報に記しました。4つお読みします。箴言 11:2 高慢には軽蔑が伴い 謙遜には知恵が伴う。マタイによる福音書 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。コロサイの信徒への手紙 3:12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。ヤコブの手紙 4:6 「神は、高慢な者を敵とし、 謙遜な者には恵みをお与えになる。」
自分が神様の前で、また人の前で謙遜であることの難しさを感じます。ミリアムの様に嫉妬やねたむ心に支配されたくないと思います。なぜなら、神様の罰を受けるのが当然だからです。この後ミリアムはどうなったのでしょうか?民数記12章13節以下が語ります。モーセは主に助けを求めて叫んだ。「神よ、どうか彼女をいやしてください。」 主は、モーセに言われた。「ミリアムを七日の間宿営の外に隔離しなさい。その後、彼女は宿営に戻ることができる。」 ミリアムは宿営の外に七日の間隔離された。民は、彼女が戻るまで出発しなかった。モーセはミリアムが犯した罪を赦してくださるように祈りました。そしてイスラエルの人々は旅立ちを遅らせて彼女を受け入れたのです。
私たちは悪魔の誘惑に負けて神様を忘れてしまうこと、すなわち「罪」の誘惑に弱いものですが、打ち勝つ方法が二つあります。一つは、罪を犯さないように、犯さないように注意しながら日々を送ることです。最良の手段は何もしないことです。罪を犯さないで済みますが、閉じ込められた暗い日々となるでしょう。しかし、私たちの罪のために既に主が十字架に既に架ってくださった事実があります。私たちが罪によって受けるべき罰は既に清算されているのです。モーセはミリアムの罪を赦して下さるよう神様に祈りました。主イエスは十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」この様に祈ってくださいました。神ご自身が私たちの罪のために命を捨て、罪の赦しを祈ってくださっているのです。だとしたら、私たちは暗い日々を過ごす必要はありません。たとえコロナや大雪のために、家に閉じこもる必要があったとしても、心は自由なのです。主がともにいてくださるからです。
ですから、「罪」の誘惑に打ち勝つもう一つの方法は、これも山口長老に読んでいただいたペトロの手紙Ⅰ 4章8節以下に述べられています。お読みしますので聞いてください。4:8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。4:9 不平を言わずにもてなし合いなさい。現在、「もてなし合う」ことは困難です。「祈り合う」と読み替えることが適切です。4:8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。4:9 不平を言わずに「祈り」合いなさい。4:10 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。4:11 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。祈りましょう。